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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「心に青雲」ブログに想う~

2022-11-26 16:35:57 | 悟得びと弁証法


以下は、2006-07-17(06:24) にアップされた「心に青雲」ブログ記事である。





ジャリ道鍛錬の弁証法


 ジャリ道ランニングとは、わが流派の名物鍛錬法である。南郷先生が発案された。私も夏になると近所の河原に赴いて、裸足になってジャリ道を歩く。南郷先生ほど根性がなくて、痛くてとてもランニングはできないが、歩く。途中、体調を壊してできなかった年もあるが、どうにかこうにか毎年続けている。

 炎天下、焼けたジャリの上に裸足の足を乗せる。熱くなったアスファルト上も裸足で立つ。ときに火傷する。これは足裏を熱と尖った石の刺激で、脳細胞を活性化させるのが目的である。頭が良くなる、と南郷先生は「総合看護」に連載中の『夢講義』で説かれている。たしかに私も頭が良く…と言いたいところだが、小生ごときレベルで頭が良くなった、とは恥ずかしくて言えない。それでも昔と比べれば、という条件をつければ、私のようなものでもそれは実感できる。
 
さて、そのジャリ道鍛錬の効用について、別の角度から考察をしてみたい。熱い思いをしながらジャリ道を歩いて気づいたことである。
 第一に、当初、こんなジャリの上を歩いて本当に頭が良くなるのか、という思いはあった。それでも南郷先生のおっしゃることだから、と信じて始めた。熱く、痛い思いをしながら、あと一回往復したら止めようとか、先日はさぼったから今日は少し多めになんて思いながら、続けたことであるが、その熱く、痛い一歩一歩は、一歩ごとに南郷師範を信じる過程でもあったのである。止めたくなるのを、いやもうちょっと頑張ろうと、自分で自分をなだめるというか励ますというか、それは「頭が良くなる」という南郷先生の言葉を信じなければ歩めないものであった。だからこそ、一歩一歩が、信じる道に通じていたのである。

 この信じるとは、頭ではわかっていたつもりだったが、やはり実践してこそ感情になるという発見であった。
 私がブログで「心と気持ちの違い」を書いたところ、見知らぬ方からコメントをいただいたけれど、この方は失礼ながら、南郷先生をこうした実践を通して信じるという努力はされていないように見受けられた。要は、南郷先生の本を読んで、読解力的には分かることはできるだろうが、この熱く痛い思いをして、信じる道を歩んだ者でないと、「理解の妙味」は得られないのではないか。
 
 さてそれから、ジャリ道鍛錬の第二の効用である。これは端的には、何ごとも能動的になる脳細胞を量質転化させて創る、ということである。

 ジャリ道鍛錬は熱いし、痛いからやりたくない。それをあえて実行するのである。最初は「あえてやろう」「えーい、やってやる!」というような半ばやけくその実践であっても、鍛錬を始め続ける認識は、自分で創っていくものである。
 
われわれがそもそも空手をやるというのは、護身を目的とするのは当然ながら、こういう目的のためでもあるのではないか?

 かつてある人間が、過酷な機長訓練のあいだほど熱心に道場に通ってきた。それは結果的に彼の能動的・積極的な姿勢というものを創っていき、見事に機長にもなれたのである。空手を私が教えたから、などと傲慢なことは言わない。ただ彼自身、自分の人生を能動的になる脳細胞を自力で量質転化させることには成功したな、という感想を抱いている。むろん、もともと優秀な人間であったが。
 
よく道場でも言うのであるが、仕事や勉学で忙しいといって、空手をやらなければ、それだけ何ごとかが退歩していく。現状維持ではない。高校生が大学受験で忙しいなか、勉強とスポーツを両方がんばった人間ほど、そのあとの人生が見事になるという事例を知っているだろう。あれは、無理してでも勉学とスポーツの両方を能動的にこなした結果、単に体力もつき、勉強もできるようになった、というだけの話ではあるまい。脳細胞じたいがある種、量質転化をなしとげたのであり、それが後の人生に、なにごとにも能動的に取り組む魂をつくるのに絶大な効果があった、ということなのではないだろうか。
 
 話は飛ぶが、最近、電話からメールにコミュニケーション手段が変わって、その結果、人から通知を受け取っても返事をしない、というケースが増えたように思う。メールは受け取って、読んだ、だからわかった。それでこと足りたと思ってしまうのだろうか。

 私の道場の者でさえ、連絡したことに返事がない。「メールを受け取りました」とか「連絡ありがとう」とかもない。
 自分に手紙やメールをもらったら、返事をただちに返信するということは、単に礼儀に反するということで言っているのではない。相手の通信に対してすぐに返事をすることが、どれほど頭の回転を早くすることになるか。多忙のなか強要するつもりはないけれど、礼儀を失しない程度にただちに返事を出すことが、自分の人生へのいわば積極的・能動的な姿勢をつくることと「直接」に行うということが、弁証法の学びでもある、ということが言いたいだけである。
 
何も行動を起こさなければ、何もしないという量質転化が起きるのだとは、弁証法の教えである。
 メールも、どうやったら自分の人生をレベルアップさせることに繋がるか、という観点から考えて実践するものではないのだろうか? 逆に、面倒だな、と思いながら行えば、なにごとにも「面倒」という姿勢になるという脳細胞の量質転化が起きかねない。
 世間一般の庶民は、メールは単に便利な通信手段程度にしかと思っていまい。しかしそれだけではない、というのが玄和会で学ぶ意義である。

 ジャリ道歩きは、足裏鍛錬と(弁証法でいう)「直接」に脳細胞の能動的あり方を創ることを学ぶことでもある。
 以上、ジャリ道鍛錬の効用について、脇道に逸れての愚察である。
2006-07-17(06:24) :


私は上記の記事を何遍読んだ事だろうか…
そして私は何を思っていたのだろう?

過去にあれ程に心熱くして読み続けた「心に青雲」ブログ記事である。
今の私の思いは以下のようなモノである。


青雲さん・都築さんが、感動した弁証法とは、上達論的な弁証法であろうか…
それは、生々・発展する弁証法で…
そこに衰退・消滅…は求められていなかったのだろう…


彼は、南郷氏と全く同じ事を実践する事で、
南郷氏と同様な生々・発展が得られる…と思い込んでいた、のだろうか…

私も同様であるが…私は私であり南郷氏ではない。
私の体力・精神力…全ては南郷氏と異なっている。
そんな私が、南郷氏同様に裸足で、アスファルトの上を歩いて大火傷をしたら…どうなるだろうか?
果たして、そんなダメージに私は耐えられるだろうか?

ただ信じようとするだけで、その強烈な刺激に耐えられるだろうか…
例え精神的に耐えられたとして、もう若くない肉体が、その強烈な刺激を普通に受け入れられるだろうか…


裸足で暑いアスファルトを歩く効用は、足裏から刺激を感覚する事である。
それは、全身を使って歩く・走る過程で、
普段は全く感覚不能な足裏の感覚情報を脳細胞へ送る事である。

それは、日頃から普通になかった刺激・感覚の創出であり、
脳細胞への新たな新鮮な感覚・刺激である。

普通に日頃から裸足に慣れていない人が、熱いアスファルトで火傷したら…
その刺激が強烈過ぎて二度とやらなくのでは…
そんな苦痛を心で信じるだけで、耐えられるだろうか…

青雲さんの書いている通りから
確かに信じ切って耐え続けられたなら「信じる」心は、
より強固になるのは事実であろう。



しかし…本来は~
事実的に真似るのではなく、
論理的な実践する事である。

信じるべきは、南郷氏の言葉・事実ではなく、
この言葉の裏の論理、真似るべきは、論理的事実であろう。


足裏の刺激は、初め少々、徐々に多々…であろう。
初めから「火傷」を求めるのは、信じる為の精神・認識的な実践としては効果的でも…
その肉体が、そのダメージ耐えられないなら…肉体的には逆効果となろう。



誰かが、「玄和会員に癌が多い」…と書いていたが…
それは、大学生への練習・稽古を、三十代から、
その事実のままに実践しようと無理したからだろう…


または、加齢とともに衰退していく肉体へ、
若かりし頃と同様な事実的鍛錬を強制しようとし続けた為であろう…

何事も、その事実から、論理・構造を抽出して、
自己の肉体に即して事実的に適用する事が肝要なのだろう。









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続・「対立物の統一」的に考えるなら~

2022-05-14 12:31:12 | 悟得びと弁証法
続・「対立物の統一」的に考えるなら~


以下のようなコメントを頂いた。




▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
「対立物の統一」的に考えるなら~



・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント
この自由びとさんのコメントは既にある程度は出来上がっている玄◯会や各派の空手流派の「体系」を無視ないし等閑視したものだと理解できます。

すなわち玄◯会の教科書の「土台、攻撃技、防御技、運足、約束組手、自由組手」だったかな?曖昧な記憶に基づくものですけどね。

つまりは「回し蹴り」は「攻撃技」それも「手技、足技」に区別された「足による攻撃技」であり、「後屈立ち」というのは「土台」という技を支える根幹となるものだ、という区別を無視して「他の基本技の応用、変化技として位置づける」という「言語的な文言」から唐突に「回し蹴りと後屈立ち」とを共通するものとして?横並びにしています。

ですが、実際にやってみれば体で分かるように、後屈立ちで困難なのは「長時間、それを維持する」ことです。重力負荷に対する後ろ足の筋持久力ですよ。

回し蹴りの場合は「土台」たる軸足も勿論のこと重要ですが、それ以上に「上部構造」たる蹴り足、その膝を横に高く上げてから蹴るところが難しく、それは前蹴りで膝を高く上げる筋肉・神経と回し蹴りで膝を横に高く上げる筋肉・神経とが違うものだからでしょう。だから「別の技」として「別の基本技」を反復することには身体運動としての合理性があります。

その後に自由びとさんが書いている「体を真っ直ぐに立てて前蹴り」だとか「横に倒して回し蹴り」だとかは、最初は「何を書いているんだ?」と特別な稽古法でもあるのかと考えてみたんですが、それ以前に私が述べた「日本武道の姿勢における規定」という文言から適当に発想した発言だと得心しました。

私は思いますけど「学問」って何よりも「誠実さ」が求められるもので、狡猾な騙し合いでは学問の出発点に立てないように思いますね。




↑~


このコメント主は分かっていない。
何故に私が「廻し蹴りと後屈立」を対立物としたかを~

確かに、後屈立ちは立ち方・土台のであり、廻し蹴りは蹴り技・攻撃技である。

後屈立ちを、前屈立ちの変化(技)と捉える事も出来るし、
逆に、前屈立ちを後屈立ちの変化(技)と捉える事もできる。


前屈立ちを先に学んだら、後屈立ちが「前屈立ちの変化」となるだろうし…
後屈立ちを先に学んだら、前屈立ちが「後屈立の変化」となるのだろう。

仮に双方を同時に学んだなら、前屈立ちも後屈立ちも同じ土台となり得て…
その相互間の共通性を見失ってしまう事態も起こり得る、のだろう。


この二つを「変化技」という共通性で対立物として捉えた理由は、

同じ変化技であるにも関わらず…
廻し蹴りは、蹴り技として練習・訓練をするのに…
後屈立ちは、型で練習する程度で基本の立ち方として採用していない…
その理由の明確化の為である。

これを、「後屈立ちは土台・立ち方技」であり、「廻し蹴りは蹴り技・攻撃技」だから、
二つは別物・対立物にはなり得ない…と考える事も可能である。


前蹴りと廻し蹴りの区別と連関を考え、
前屈立ちと後屈立ちの区別と連関を考え、
そして、土台技と攻撃技の区別と連関を考えるなら…

技を創る時の土台、技を使う時の土台…
土台は一つの方が安定している。

後屈立ちに比して前屈立ちの方が少々優れているから…

前から攻撃に有効な前蹴り、横からの攻撃に有効な廻し蹴り…
攻撃技は多角的に攻撃可能の方が勝負に有利…


基本の蹴りを前蹴りとして、廻し蹴りを変化技として位置付ける理由は、
双方の技を認識的に関連性で持って、一体的に修得・体得する為である。


そもそも…前蹴りができる者から、必ずしも廻し蹴りを、その変化技して使用できる訳ではない。
それでも…技を変化させるのも、一つの技と言えよう。


私の息子は小3から近くの体育館で空手教室に通い始めた。
初めに基本の蹴りとして、前蹴りを学んでいたが…

ある時、同学年の従兄弟と喧嘩をしていて、息子が綺麗な廻し蹴りを決めたのを見かけた。
身体の認識も幼く柔軟な小3には、前蹴りも廻し蹴りも…ただの「蹴り」なのだろう。


基本の蹴り技に、前蹴りと同様に、廻し蹴りを採用する理由は、
一般的な普通の成人男子(身体の柔軟性に乏しい者)には、
廻し蹴りを、前蹴りの変化技して使用し難いから…である




最後の以下の一言には笑えてしまう♪♪♪

>私は思いますけど「学問」って何よりも「誠実さ」が求められるもので、狡猾な騙し合いでは学問の出発点に立てないように思いますね。


私は、以下のような事を思う~
この者の「学問とは?」
この者の「誠実さとは?」
この者の「狡猾な騙し合いとは?」
この者の「学問の出発点とは?」


学問とは、世界を一つとして、世界にについて学び、
その学んだ己の中の観念・認識の世界から現実の世界を問うモノ、


私の記述を「狡猾な騙し合い」として思えてしまう…
この御仁には、ネットでの記述は、「騙し合い」と認識しているのだろう。
私の記述を「狡猾…」と思えてしまうのも…この御仁の中に「狡猾」の存在があるからなのだろう…



学問の出発点とは?

「学問への道」の出発点と「学問の道」の出発点があり得る、のだろう。

学問への道は、初めに世界・事実・現実…世界観あり…
学問の道とは、初めに論理・科学あり…弁証法あり…


これも、この御仁にとっては、「狡猾な騙し合い」なのだろが…







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「論理的」にコメントするなら…

2022-05-08 11:47:08 | 悟得びと弁証法

「論理的」にコメントするなら…

・コメントが届いた記事
「勝ち」と「負け」について…

・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント
>自由びとさんの「勝ち負け」の考えは「貯金と借金のプラスとマイナス」と同じだったんですか。それは少し具体性が進んで来ましたね(笑)。


「(笑)」している場合ではないと思いますが…

以下の私の記述の、
お宅の理解が、私の認識とは異なっているのに気付いていないのに…



「算数では「+」とは、足し算で、「-」とは引き算である。
でも、数学では、「+」と「-」には、加法・減法記号と、正・負の記号となる。

まず貯金なら~
貯金の増加(加法)は快感で「プラス感情」。
貯金の減少(減法)は不快で「マイナス感情」。

でも…借金なら
借金の増加は不快「マイナス感情」。
借金の減少は快感「プラス感情」。

それでも、
事業での借金の結果が利益拡大なら、「マイナス感情」と「プラス感情」となり得るだろう。

私の「勝ち・負け」の概念も「プラス・マイナス」と同様である。」





「勝ち・負け」の概念を「算数・数学」的に表現するなら…
という条件付きで書くなら~という事なのに…

「ここは、数学では「+・-」に二重の意味がある。」
「勝ちなのに負け」・「負けなのに勝ち」という場合もあり得る、という事です。」


>もう少し言えば「自由びとさんの平板な形而上学的な思考の有り様」が詳細に理解できてきたように思います。



平板を論理的・重層的に積み重ねて立体的なモノになり得るのです。
逆から説くなら、立体的・重層的な事物の積み重ねられたモノ一枚一枚の平板として捉える事。
存在している完成している立体的な事物の重層的な過程を一枚一枚剥がして説いている事。




>私、このことは玄◯会の教科書の「6、怠け心と空手」の考え方と同じだと思うんですよ。「怠けは正常であり、怠けている者は何かを怠けているのであって全てを怠けているわけではない。そんなことは不可能である。」という辺りのね。


↑~

そのような理解もありますが…
私なら以下の言葉を更に追加しますよ。

「怠ける事を頑張る」にもなり得ます。


例えば、
怪我をしているのに無理して「練習を頑張る」のではなく、
怪我の回復の為に、無理して「頑張って怠ける」事もあり…


>これって何も難しいことはなくて具体的に事実で考える習慣のある人間なら当然のことでしょう。小学生の頃のコマネチだとかイチローだとかは学校の勉強は怠けてるわけですけど体操だとか野球は人一倍努力していたわけで。
だから、そういう思考が習慣化=技化=量質転化してる人間は「イチローは怠けか?努力か?」みたいな発想をしないし、言わないと思うんです。


一つの問いとして~「イチローは怠けか?努力か?」はありですね。

答えはイチローは以下です。
勉強する事が、嫌でしなかったなら「怠け者」です。
でも、勉強する時間を惜しんでスポーツの為に費やしたなら「努力者」です。

ヤッパリ私の思考・言いたい事とは異なっていますね。



>それと同じで「貯金はプラスで借金はマイナス」なんて単純というか皮層というか、そういう考え方も弁証法的な思考をする人間はしないと思うんですよね。



記事には以下のように書かれていますよ。


「でも…借金なら
借金の増加は不快「マイナス感情」。
借金の減少は快感「プラス感情」。

それでも、
事業での借金の結果が利益拡大なら、「マイナス感情」と「プラス感情」となり得るだろう。」


お宅は、私の「それでも…」記述を読み飛ばしていますね。
「借金=マイナス感情でありプラス感情」と書かれていますよ!


>「借金」って要するに「お金を借りること」ですけど、「借りて何に使うのか?」ということが問題だと思うんです。「車を買う」だとか「家を買う」とか色々とあるでしょうけれど、結局、その自分が欲しいと思った、買おうと決意した「何か」を購入できる貯金ができるまで買わないでいるのか?それともローン(融資を受けるということで、借金ですけどね)で総額が用意できる前に手に入れてしまって、分割で少しずつ返していくのか?という。



何を偉そうに…
私は、そんな事はとっくに記事に書いていますよ。
他人の記述は確り・チャンと読み取ってからコメント批判しましょうね。
さもないと…
『そんな事とは常識だよ!今更バカじゃない?!』…なんて思われますよ。




>例えば20歳のときに家を30年ローンで購入して20歳から住み始めるのと、30年後にお金が貯まって50歳から住み始めるのとの違い、みたいな。

>融資を受けて車なり家なり欲しいものを手に入れた時の気分・感情や、仕事が終わって買った家に帰って来たときの気分・感情、買った車で彼女とドライブ・デートに行くときの気分・感情など考えたなら「借金はマイナス感情」と単細胞的に言えるかどうか?

↑~
だから…他人の書かれた記述を読み込みなさい!
デートの時・デートを思い出した時には「プラス感情」でも…
銀行通帳からの月々の預金額減少を見たら「マイナス感情」でしょうね。
ここまで、書けないなら、偉そうな事は書かない方が無難ですよ!




>『空手道綱要』に書いてある「怠けているだけの人間はいない」ように「金を借りているだけの人間はいない」わけですから、やはり馬場指導教官の指示を守らずに「論理を事実で考える訓練」をしていない自由びとさんは玄◯会の上達システムから育成されていない人間だと判断できます。

え!

「金を借りているだけの人間」は、いるでしょう。
現実に借金で首が回らなくなって倒産…自己破産なんて…

確かに、借金以外にも預金・現金を持っていても、
借金額が、預金・現金の合計を上回れば…「(総計で)借金だけの人間」でょうが…。


>敢えて言うなら「世の中は借金、融資で出来ている」と言って過言でないと思いますね。自由びとさんのように小学校の義務教育の教員ですと収入というのは決まっていて、大卒の初任給が21万円だとして20年後に40万円を超えるみたいですけど、そうした公立の被雇用者なら融資を受けて事業を展開するなんて考える必要もないから「借金は一律マイナス感情」なんて思うんでしょう。


お宅くの使っている「世の中」には、過去の「お金がなかった世の中」は含まれていないようですね。

世の中=借金、融資で出来ている現代。
世の中=物々交換で成り立っている時代。

これこそ…
現代社会・現代の世の中=お宅の「世の中」であり、
過去社会・過去の世の中=お宅にはない「世の中」でしょう。


こそが、お宅の書いている以下の文面がピッタリしょうね♪♪♪

>単純というか皮層というか、そういう考え方も弁証法的な思考をする人間はしないと思うんですよね。





>その形而上学的な具体性のない発想が「勝ち負け」に関する考えにも現れているように思います。


お宅の認識が>「単純というか皮層というか、そういう考え方…」だから~
私の記述を「平板な形而上学的な思考の有り様」としか理解できない…のでしょうね。




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「対立物の統一」的に考えるなら~

2022-05-07 11:34:16 | 悟得びと弁証法


一村氏の以下のコメントを考えた事。

>…確かに南郷先生は「回し蹴りは前蹴りの変化技」だと本に説いているのですが、玄◯会の練習体系では回し蹴りは前蹴りの変化ではなく、前蹴りとは別の技として「前蹴りの基本」とは別に「回し蹴りの基本」を一から練習する…<


上記のように基本技の変化技である「廻し蹴り」取り出して、
その変化技の技を図る意味と意義について…

「後屈立と廻し蹴り」の基本技としての、区別と連関的な統一への道。


変化技なら土台技の前屈立の変化技として後屈立があるが…
玄和会では、前屈立を土台技の基本として採用している。

後屈立は、型の中以外では特に訓練していない。
その理由は、土台技として前屈立の方が使える攻撃技の範囲が広い、からである。

さて、変化技である廻し蹴りは、それ自体の技化を目指しているのに…
後屈立は、それ自体の訓練・技化はしていない。

変化技として共通の「前蹴と廻し蹴」を対立物の統一として考えるなら…
双方の使える状況が異なっている。

前蹴りは前から、真っすぐの蹴り技。廻し蹴りは横からの蹴り。
確か南郷氏は、机に座った状態での蹴りに廻し蹴りを訓練した、そうである。
正面の前のガードが強固でも、横からの大きな強烈な廻し蹴り攻撃なら有効である。

確かに前蹴りの訓練だけでも、廻し蹴りの使用は可能であろう。
それでも、変化技を「技の変化の訓練・技化」として、前蹴り修練と並行して廻し蹴り自体を訓練するなら、攻撃力の大いなら向上が期待できる。


前蹴りを基本の蹴り技として
初めは体を真っすぐに膝上げ蹴りの前蹴り、
次に体を横にして斜めに上げた膝からの前蹴り、
更には、体をなるべく真っすぐにして膝を横に上げ、大きな廻し蹴りへ、


全体的な学問の基本技・哲学から、その変化技である個別的な学問・科学への変遷と論理的同一性を感じるのは…私だけであろうか~
個別科学の習得・修得は、変化技それ自体の技化であろう。


科学一般・一般科学を基本として、その基本の技化を目的にし、
その基本技の変化技として個別科学として関わるのがベストなのだろう。






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2022年これが弁証法だ!

2022-01-05 19:16:01 | 悟得びと弁証法



弁証法とは~

モノ自体には「…生々・生成・発展・衰退・消滅…」的な変化・運動する性質があると考えられている(考える事ができる)
そのモノ自体の弁証法性・変化・運動している過程の複合体である事物の中の弁証法性を法則化したのが「弁証法」である。

ここで、二重の弁証法が考えられる。
一つ、事物の中の弁証法性を弁証法として法則化したモノ。
二つ、事物の中の弁証法性を法則化する為の弁証法(論理能力)。

一つ目の法則化した結果の弁証法は、誰もが感覚可能である。
しかし、弁証法(論理能力)は、誰にも感覚不能…。
これは、言うなれば「技術」レベルではなく、その人物認識内での技能レベル(と南郷氏曰く)の個人技であろう。


そもそも「弁証法は対立物の統一」であっても…
過程の複合体である現実の物事・事実の中の弁証法性には、
以下のような「対立物の統一」が見て取れる筈であろう。

「対立物の統一」結果が「生々」。
「対立物の統一」結果が「生成」。
「対立物の統一」結果が「発展」。
「対立物の統一」結果が「衰退」。
「対立物の統一」結果が「消滅」。


それら全ての「対立物の統一」を同一事実・物事の弁証法性の中に見て取れる事が究極の「弁証法(論理能力)」であろう…

南郷氏の記述で、私がずっと気になっていた事・知りたかった事。
それは、南郷氏が自分の子供を電車内でも、病院の注射でも一度も「泣かせた事がない」記述。
その事が、どのように・何故「南郷氏の弁証法」と関わるのか?

それが、私は今回ここでハッキリと言語化できる。

子供が泣き出す原因・理由?
電車内で泣き出す子供の原因・理由。
電車内で泣かない子供の原因・理由。
注射…も然り。


現実界で多くの、そのような二通りの子供達の事実を観察して…
更に自分の子供の性質・個性・特性を考慮して働き掛ける事で可能だったのだろう…

この場合の南郷氏の弁証法とは、
「泣く事」の消滅の為の「対立物の統一」を創りだした能力。
それは。たぶん…子供が泣き出すような原因から、子供の目や感心を逸らせる「対立物」をぶつける。

電車内なら子供に話しかける・見せる…事で子供が一番好きな事を思い出させる。
病院でも注射なら、なるべく「注射・痛い」を思い出させない。
また…注射針を打つ瞬間の子供の気を逸らせる…そのような物事・会話…を対立物としてぶつける。
自分の子供の関心・好きに物事…は、父親だからピンポイントで知り得るモノだろう。


逆から説くなら、場合によっては、子供を泣き出させる「対立物」もぶつけられる…という事であろう。

例えば、相手に対して~
「喧嘩をしたい」時なら、相手を挑発する言動・態度・顔…対立物
「仲直り」したい」なら、相手を穏やかにする言動・態度・顔…対立物
「笑わせたい」なら、………


それらの法則は、過程の複合体である人間・個人・その人物の弁証法性から、目的意識的に法則化するモノであろう。
しかし…問題は弁証法レベルの弁証法では、現実に適用して結果を出すのは至難であろう。
この場合には、認識・弁証法性・弁証法が必要であろう。
それは、人間の弁証法性である「認識的実在」という性質があるから…

弁証法性を法則化する過程での結果としての弁証法は…
「弁証法性レベルの弁証法」、「論理レベルの弁証法、「法則レベルの弁証法」

私が謎だった事の一つに以下のよう事がある。
師範は、何故に「いのちの歴史の物語」を「自然の弁証法」と言っていたのか?

それは、モノ→生命現象→単細胞…人類…
一連の論理的流れが、モノから人類までの弁証法性を言語表現したモノであるから…だろう。
それは、「構造の過程」の弁証法から「過程の構造」の弁証法へ進めたから、だろう。

「大宇宙の弁証法性」も「と小宇宙人体の弁証法性」を合わせて、つなげて一本の弁証法としたのだろう…



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