新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

異常vs非常から「非常心」へ~

2024-02-29 18:18:04 | 「わたし事・学」
異常vs非常から「非常心」へ~


先ず以下の解説の引用から始めよう!


「異常」は普段とは違う様子や変な状態、「非常」は特別な場合の状態を指します。
「非常事態」は、危機が差し迫り、社会が普段とは違った状況になる事態を指します。予想外の出来事が突発的に起きる点では意味が似ていますが、「非常事態」は天災や経済恐慌などが発生し、社会が重大な問題に直面するときに使うケースが多いでしょう。

非常時とは、事変など非常の事態が起こったとき、または国家的または国際的に重大な危機に直面したときのことを指します。特に、戦争などの異常な事態にあるときを意味します。

異常とは、普段とは違う様子や変な状態、変な状況を指します。異常の反対語は「正常」で、標準作業通りの作業を継続して行なうことができ、スムーズに流れている状態のことを指します。異常とは、いつもと違う状態、ルール通り仕事が出来ない状態、いつもと違う品物の状態等のことです。


上記の説明から、今までの「私的非常心」を説くなら~
私的非常心とは、私にとつっての異常事態=肉親の死が、
私に過去、体験していない程の大きな悲しみ・感情を生じさせ、それ故に、私のココロが「異常事態」レベルに達していた。
そこには、身体的な危機感(個人レベルの非常時)がないので、それは「非常心」と言えず、単なる「異常心」であった。


ならば、武道修業・修行における「非常心」とは?

そのヒントが先日視た、録画していたNHKドラマ「正直不動産」の中の給湯室での会話・出来事から得られた。

それは、ミネルバ不動産で、営業成績トップ社員の神木と成績の悪い社員Aとの以下の会話・出来事である。

社員A―「神木さん!どうすれば、神木さんのような営業成績だせますか?」
神木―(流し台に水を入れながら)、ここに顔を付けて見ろ!」
社員A―「不思議な表情で水に顔を付けた」
数秒後社員A―「苦しくて顔を上げようとする」が…
神木―「そのAの頭を力ずくで押さえ、息を吸わせない…」

数秒後に神木―「(手を放しつつ)今!お前は何がしたかったか?」
社員A―「息が吸いたかった!」
神木―「そんだ!その『息が吸いたい』と同じ気持ちで、不動産を売ればいいだけだ!」

………
この「息が吸いたい」という本能レベルの欲求、吸えないと死ぬ…「吸いたい!」必死の感情…
このような感情・思い…を抱いている認識ココロは「非常心」と言えるのだろう…


これは、現実に「窒息状態だから息がしたい」…ではなく、
想定した「息が吸いたい・したい!」だから「非常心の設定」と言えよう。


実際に異常事態の発生なく、非常時でもないのに、
非常時の心境・ココロだから「非常心の設定」なのだろう。

また…非常心の設定ではなく、真の非常心としては~
戦時中or終戦後、大黒柱の夫が戦死して子供を抱えた妻が、
一人で数人の子を育てつつ生き抜く為に必死に働く姿に
「非常心」=稼ぎが悪いと子供達が飢え死に…の危機感のココロ…が見て取れる…


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「私的非常心」からの解脱そして自由への道

2024-02-24 17:55:15 | 「わたし事・学」
「私的非常心」からの解脱そして自由への道

昨日までの数日間「私的非常心」を自由に思考し続けていた。
しかし…昨日、急に、それらが堂々巡り的な自由・思考である事に気付いた。

言うなれば、「井の中の蛙」的な、井戸の中(自分的な思考運動内)の自由…といったモノ。
確かに、そこには、井戸の中・自己の能力の範囲内での自由はあり得ても…
その自由は、大海を泳ぎまわり・切る自由ではない事~


ならば…私的非常からの脱却・解脱した、大海レベル自由な非常心への道は?
それを探すには、私が「私的非常心」の原点・始まり・キッカケの再考から…

その原点とは、私が、今回の「私的非常心」を思考し始めたキッカケである。
それは、南郷氏の「平常心⇒非常心⇒平常心」記述を見て読んだから…であろう。


そこで、再度その記述を確認したら…以下であった。

平常心(=単なる日常的な生活のレベルの認識)
  ↓
非常心(=常に生命賭けを眼前においた生活レベルの認識)
  ↓
平常心(=否定の否定の結果、ラセン状に昇った日常生活レベルの認識)



何とビックリ!
私は、(  )内の中の説明を失念していた…


南郷氏の「非常心」とは、<(=常に生命賭けを眼前においた生活レベルの認識)>
 そして、「平常心」とは、<(=単なる日常的な生活のレベルの認識) >だったのだ!


これらと比べるなら~
私の非常心とは、私が、過去の日常生活で未体験レベル非日常的な出来事に遭遇による、その時の「非常レベルの感情」だった。
それは、日常生活全体ではなく、その出来事に対する感情・気持ち(心の一部的な働き)だろう…
なので、その「私の非常心・感情」は時の経過と共に気持ちが落ち着く事で少しずつ薄れていったのである。
それを私は、「非常心⇒平常心化」だと自分勝手に思い込んでいた。

でも…例えば、眼前に突然ライオンが現れ「恐怖(非常心化)している者」が、ライオンが去って平常心に戻ったとしても…それは「非常心⇒平常心化」ではない事。


南郷氏の上記の図式は、あくまで「非常心の設定」という事の図解であろう。
この事は、南郷氏が「死刑囚の認識・心境」で解説していた。

日々「死刑を恐れてイライラ・ビクビク」している死刑囚も、「自己の死刑・死」」を必然的事実として「覚悟」を決めて生活し始めた時、それまでの「イライラ・ビクビク」が消失して、平穏な心境になり得た境地が「非常心の平常心化」だと…


さて…上記のような事を思考していて…

「自由⇒不自由⇒自由」を想起した。

例えば、思いっきり自由自在に走れる走力を体得したい者が、

先ず、学校の校庭を思い切り走る事で、平地を「自由」に走り回る走力を体得。

次にその自由を否定して、その走力では「不自由」だろう野山・海岸の砂地…を走る。

そして、再度、平地・校庭を走った時、その自由な走りは、同じ自由でも中身走力・中身が違っている、だろう。


平常心は、日常生活の場である「家庭・環境」で…

非常心の設定は、学校=学びの場で…

平常心=レベルアップした「平常心」…

では、学校という学び場で、学ばせ・体得させたい「非常心」とは?
それは、私は「勉強心」だと確信している。

勉強心とは、自分から自己に必要な物事を勉めて強いるココロ。
動物のような本能的でない人類は、文化遺産の習得・学習を通して、人類・人間・自分に必要な事を学び・体得させる・する必要がある。

その学習・体得は、家庭での躾…で場合によっては、
嫌なモノ・好ましくないモノに感じてしまう事もあり得る。

しかし…学校は、そんな好き嫌い・楽勝・面倒…
といった感情に無関係に学習する姿勢・ココロを体得させる必要がある。


それを、私は、ここで「勉強心」と概念規定している。

平常心⇒勉強心⇒平常心
自由心⇒不自由な勉強心⇒自由な勉強心

勉強心がない・しらない児童に、勉強心を学習させる場が学校での集団的な学習。


自由の二重性~、
ある一定・特定の状態・環境内での制限ある「身体的な自由運動」。
如何なる・どんな環境にも無関係な(条件付き・個人的範囲)「認識的な自由活動」。


でも…苦しい環境下での(環境を超越した)自由な思考運動は至難であろう。
それは至難であっても…人類なら決して不可能ではなく、可能であろう。

死刑囚の「死の覚悟」は必要でも…
過去の「アウシュビッツ収容所」では、
日々を楽観的・生への希望を決して捨てなかった(死の覚悟は捨てた)人々は、最後まで生き抜いたらしい…


避けられる「死」への覚悟は不要だ。
でも…避けられない「死」へは、覚悟が必要だろう。


武道の勝負でも、避けられる勝負は避けるべきで…
それでも、避けられない絶対的な「生死を賭けた勝負」が必然なら「死即生」が極意なのだろう。


そう現代社会では「死即生」の極意は、不要だろうが…
それでも、体得したなら、現代でも有効でなのだろう~













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「非常心」について~再び~

2024-02-23 12:58:18 | 「わたし事・学」
「非常心」について~再び~


南郷氏曰く~
「『思う』とは、認識・映像を止める事」・「『考える』とは、止めた認識・映像を動かす事」。
これを合わせた「『思考』とは、認識・映像を止めたり・動かしたりする事」?かな…

認識・映像を止める事は、自力で何とか可能でも…
その止めた認識・映像を動かすのは至難…

この場合の「動かす」と?
また、認識・映像を止めるとは?


例えば、録画再生中の映像を一時停止したら、映像は写真となる。
そして、それを動かした時には続きの映像が流れる。


しかし、認識内で、例えば今私が「過去の愛犬マファの事」を思う時、その認識は写真的像ではなく、動いている映像的である。
そう~何かを「思う」時の「認識・映像を止める」とは、写真的静止像ではなく、そのモノコトに関連する映画的な連続的な映像という事になろう(=「集中」by tada氏)


認識を「動かす・止める」とは、弁証法的な「動かす・止める」であり、日常的な「止める・動かす」ではない、のだろう。
南郷氏曰く~思い「止めた認識・映像」を動かすには、ショック・衝撃を与える必要あり…と。

さて、今さっきまでの私が思っていた・私の認識内の「私的な非常心」が…今はショック・衝撃で動き出し、以前より鮮明化した。

その動いた結果を書く前に、そのショック・衝撃から始めよう。

思う事あって、今朝の食後に以下のコピーを読んだ。


<「わざ」から知る> 生田 久美子   東京大学出版会


P67 4章 「わざ」世界への潜入

4.1 南郷継正の「武道論」


………前略……

P69 11行目

 彼の論を本稿での論に従って解釈すると次のようになるであろうか.私たちは一日朝起きて,夜床につくまで,様々な身体動作を繰り返しながら生活している.しかし,実際にはその身体動作のほとんどに意識を介在させていない.このように,私たちの日常の生活は無意識の動作の連鎖から成り立っていると言えよう.こうした動作の無意識性が南郷氏の言うところの平常心であると解釈できる。
 それに対して,非常心というものは,日常の動きとは異なる学習者の意識の介入が必要とされる状態,言い換えるならば,「形」をハビトス化するプロセスの途上にある状態であると言えよう.例えば,各種武道に特有の動きを師匠の範にしたがってなぞっていくためには,学習者は師匠の示す動きの一つ一つを見逃さず模倣していかなければならない.

………以下省略………

上記の記述を読んで、以下の部分違和感を覚えた…
(上)>平常心というのは、日常生活のなかで無意識の行動の背後にある人間の認識の状態と考えてよいであろう.
(下)>こうした動作の無意識性が南郷氏の言うところの平常心であると解釈できる。

(上)から(下)への解釈に違和感を覚えた…

日頃の動作が無意識に出来るのが「平常心」。
日頃の動作に意識性が必要なのが「非常心」。

私は、これが以下のように逆だと痛感した。
「非常心」だから普通(平常心状態)なら無意識にできる動作に意識性が必要。

ココロの状態である「平常心or非常心」の土台の上に、動作の意識性・無意識性がある筈なのに…
この記述では、無意識性が土台で、その上にココロが…

確かに、技習得過程での無意識に出来な状態があろう。
しかし、それは、その動作が無意識レベルで不能だから、
そこに意識性が求められるのであり、
技熟達後・技の駆使時の「平常心・非常心」とは異なっている…





「水泳」で例えれば、

プールで、普通に無意識的に泳げる人は「平常心」。
プールで、普通に意識性が必要なのが「非常心」?。

底深い海の荒波の中でも、無意識に泳げるのは「平常心」。
底深い海の荒波では、無意識では泳げないのが「非常心」。


これらの比較・検討「対立物の統一」から言えるのは、


自分の足が底に付くプールでは、平常心で泳げる者でも、
足が届かない荒れた海では、非常心と言える…。

技・水泳技の未熟な者の意識性(非常心)と技・水練の熟達者の意識性(非常心)は、別物である。


以下が「非常心」の二重性~

環境から恐怖的・非常事態から生じる「非常心」。
己の未熟な技・技術から生じる「非常心」。

そうそう、上記の論理は、南郷氏が高所の丸太歩きの例で既に書いていた。(今思い出した!)

水泳ならば、子供の時から、近所の大海・荒海で年中泳いでいた者なら、
技の未熟から生じる非常心の克服と同時に深み・荒波の恐怖を克服していただろう…

子供時代から海で泳ぎ慣れていた水泳の達人とプール以外では泳ぐ事なかった水泳の達人…

彼らの実力は、プールでの競泳なら…どっちもどっちであろうが…
荒波の大海での競泳だと…勝負はどのように展開するだろう…

技能・技術力+精神力+体力=能力



さてさて…以上のような<思考>過程⇒思惟・思索・思弁

私の「非常心」の思い」を動かすのに、生田氏の言語・認識を使わせて頂いた。

思惟とは、私の体験・経験した事実を元に…
思索とは、師範・書籍から学んだ数々の事から探して…
思弁とは、このブログの記事で…



非常心の設定⇔(A)「平常心」⇒(B)「非常心」⇒(C)平常心」とは、


上記の水泳で例えるなら~
底が届き・荒波日々プールでの水泳が「平常心」化している者が、
初めて底なし・荒波の大海に飛び込んだ時が「非常心」状態になろう。

上記
(A)が、プールだけで無意識水泳可能な「平常心」。
(C)は、プールも大海でも無意識水泳可能な「平常心」。


水泳の大海での「平常心」に必要なのは、荒海・底なしを恐れないココロ。
それは、言うなれば「怪我・死の恐怖」の克服なのだろう。

怪我・死亡の回避には、怪我・死亡しないような高度で巧は水泳力…
ただ、突然に狂暴な海の生き物から襲われた時の恐怖…

予想不能・推測不能な「死への恐怖」の克服可能なココロが、万能的な「平常心」であろう。
その為には、そのような恐怖が体感可能な「非常心」の設定が必要であろう。

そこには、
「ローマは一日にして成らず」、
「ローマに続く千里の道も一歩から」、
「千里の道も一歩から」 のような心意気が~

亀の歩みのように遅くても、一歩一歩確実に前(時に右左後ろを)向いて歩み続ける事て~


(C)「平常心」とは、
荒海の如く荒れるココロの平安・平静…を求めるモノではなく、
そんな荒れ狂ったココロを無視して自己の意志で思う存分に技の駆使を可能にする「ココロ」なのだろう。


それは、言うなれば、恐怖に荒れ狂っている自己のココロ冷静に見ている自我の意識なのだろう。
この技を失敗したら、死なのだろうが゛…それでも、ここはやってやる・行くしかない!的瞬間・瞬時的な感情なのだろう。
それが、師範の「死即生」ココロなのだろうか…














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弁証法について~

2024-02-22 18:10:33 | 「わたし事・学」
弁証法について~

弁証法とは、対象の弁証法性・変化・運動性の法則化
この対象は、森羅万象であり・万物
弁証法には、「否定の否定」、「相互浸透」・「量質転化」の三法則


弁証法には、自然の弁証法・社会の弁証法・精神の弁証法がある。
また弁証法性は、「外界・現実界の弁証法性」と「内界・観念界の弁証法性」とに二重化可能。


(人類の関わらない)外界・現実界・自然界の弁証法性の法則化。
社会の法則は、「外界の弁証法と内界の弁証法性」の法則化。
精神の弁証法性は、内界の弁証法性+外界の弁証法性の法則化。


内界・観念の弁証法性を対象とするなら認識論。


認識の弁証法性とは、認識とは対象の反映である。
認識とは、対象の五感情報の映像化。


我々人類は、その対象の反映・映像を元に生きている、という事である。
我々が、生きているのは、現実界であっても、その情報は内界・対象の反映・映像・情報。
我々の体感・痛み・感覚・感情は、対象そのモノではなく、反映された対象からのモノ。


我々が、対象に何か働き掛ける時、その言動・行為・感情は、
感覚・反映された対象情報を自己の頭脳内の認識と統一した結果のモノ。

この頭脳内の認識が「その人の問い掛け」(認識)であり、反映・映像・認識が外界情報。

弁証法認識論レベルの「対立物の統一」とは、頭脳内での「内界(問い掛け)認識と外界(情報)認識の統一」。

学問をするなら、学問・哲学レベルの問い掛けと学問レベルの外界反映情報が必要であろう・

学問レベルの問い掛けとは、その本質・構造・論理を問うモノ。
眼前の対象の元は何?また元の元は何?

何と何がどのようにして、こう・そうなったの?


学問的な外界反映情報とは?その人類の文化遺産・その時代の学問・科学・情報…
いや…いや…何を言いたい!のやら…書きたい!


「対立物の統一」は、現実世界にはない!
あるのは、相互浸透(運動)・そして量質転化化(変化)、だろう。


「土」と「種」は、土であり種である。

この二つを「対立物」とするのは、その人の認識内であり、外界では「対立物」でなく、ただの「モノとモノ」に過ぎない。

例えば、街中に力士が二人歩いていたなら、二人の力士である。
しかし、その二人が土俵で対戦するなら、相対立する二人の力士。

外界に存在するのは、弁証法性であり、ただの変化・運動性である。
それら弁証法性の法則化の方法の法則が「弁証法」なら、
されは、その弁証法性を法則化した結果もまた「弁証法」である。


これらが「弁証法の二重性」。

「物体を機能と実体に分けるのは二重化」

「弁証法性の法則化・結果が観念レベル実体的弁証法」なら、
「弁証法の法則化の方法の法則は、観念レベル機能的弁証法」

三法則が、その時代の観念的結果的・実体的な弁証法だから、
その三法則を「法則化の方法の法則」・機能として駆使して、更なる弁証法の高みへ~

単層弁証法から重層的弁証法⇒重層的・体系的弁証法へ
弁証法は、人類の認識内にありえるモノ。
学問的知識が「学的アタマ」なら学問的弁証法は「学的ココロ」。

対象の「知識・アタマと感情ココロの一体化」があり得て、初めてその知識が、己が人生・生活に役立つモノになり得る。

以上は、全て言葉・言語…ただの単なる記号・符号に過ぎない書き込み…
さてさて…これらに対する自由びとの感情はどこに?
果たして…
それらの感情は、私のココロの中に、弁証法的変化・運動性として実在しているのだろうか?


これらを書いた事・書く事の意義・意味とは?
それは、自己の認識の言語化であり、頭脳内のバラバラ認識を言語で「集中」する事。

「完成は崩壊の始まり」とは弁証法の教えである。
別言するなら「完成は変化の始まり」でもある。


更なる弁証法的「悟り」の高みを求めての崩壊であり変化の始まり、なのだろう…













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言葉・言語について~

2024-02-18 11:14:05 | 「わたし事・学」
言葉・言語について~


改めて書く事ではないが…
辞書の載っている言葉・言語の意味・解説は社会的・共通のモノ。
でも、特定の個人が発している・書いている言葉・言語は、その特定の個人の認識の表現である。

その個人が、辞書的な意味・解説を踏まえての言葉・言語での表現なのか?
顕著な例が、カタカナ語である。カタカナ表記の言葉は、外来語である。
しかしもその元の英語の意味とは異なっている事が多い。

それは、例えば以下のように~


>英語の「Tension」は「緊張状態や張力」を意味し、国際関係のニュースや政治問題で使われることが一般的です。一方、日本語の「テンション」は「ハイテンション」や「テンションが上がらない」など、気持ちや気分を表す意味で使われます。
>「テンションが高い」を英語で「High tension」と表現することはできません。英語の「Tension」は緊張や不安を意味するため、「High tension」と言うと、緊張が高まっていることを意味してしまいます。
>「テンションがあがる」は英語では「get excited」や「be pumped up」などで表現することができます。

また例えば~
漢字の「手紙」は、日本語では「てがみ」であるが…中国語では、「ちり紙」の事である。


それらは、ある言語が、同じ文字表記であっても、
その「言語表記の対象が異なっている為に、結果的に同じ言語表記なのに、その概念が違っている」、という事である。

例えば、南郷氏の弁証法は、「重層弁証法」。でも、三浦氏の弁証法の三法則は「単層弁証法」。

また…同じ言語表記でも、一般常識としての概念、その個人が概念化したその言語表記対象の概念も異なり得る。


A君とB君が、大喧嘩した!一般的には、「喧嘩」したんた゛!
でも、それを見ていたC君は、彼らが、殴り合って血を流している姿を伝えようとしたかったのかも…


弁証法用語としての「対立物の統一」や「二重化」も然り…

一般的な「対立物」と弁証法用語としての「対立物」の相違。
一般的な「統一」と弁証法用語としての「統一」の相違。

そこから弁証法用語である弁証法的な「対立物の統一」とは?

二重化についてなら、一般的には、「自分である私自身は自分であり私自身」である。
でも、心理学では、以下のように、自分は「自我」と「自己」に二重化している。

>心理学では、自我とは「自分が考える自分」であり、自己とは「他者との関係のなかにある自分」という違いがあります。
「自我の目覚め」とは、自分が他人とは異なる「かけがえのない存在」であることを認識することであり、アイデンティティ確立のための不可欠の要素です。

>自我は偽物の自分、真我は本当の自分とも言われています。真我は、あらゆる苦しみから抜け出しとても穏やかな状態と言われています。

>「自己」は抽象的なものに用いられますが、「己」は具体的な物や抽象的なものどちらの場合にも使われます。また、「己」は「自己」と同じ意味ですが、日常会話ではほとんど使われず、ことわざなどに使われます。

>「己」は「おのれ」であり、自分のことを指します。語源は曲がりくねった糸の象形で、糸の先端を表わすところから「はじめ」という意味を表わした指事字で、「紀」の本字です。今は「自己」というように使われていますが、これは仮借です。

>「自己」は自分が自分に向き合うことを指し、「他己」は他者を援用して自分に向き合うことを指します。


「自我と真我」と「自己と他己」とは、二重化の極致かね…
>自我は偽物の自分、真我は本当の自分とも言われています。

「自我は、自分は自分・他人は他人・自分vs他人」~
「真我は、自分も他人も自然の部分そのもの全体的・一体的」

「自己は自然の一部・他己も自然の一部」
「自己+他己=自然界」



でも…弁証法的に考えるなら、人間の誕生時には「自分・自我・自己」そんなモノ・認識はない。
それらの認識は、生後の生活・発育・成長…過程で生々・生成されていくモノと捉える。

弁証法は、眼前の対象を変化・運動するモノ・運動体として捉える、法則化する方法。

しかし…問題がある!
我々の眼前の対象は、変化・運動した結果のモノ・コトである。
今私が視ているテレビは、テレビの所持している機能で「サンデーモーニング」を映している。
それは、テレビの機能としての変化・運動であるが…
しかし、それは、テレビの中の機器類の変化・運動とは、大きく異なっている。
どんなに「サンデーモーニング」を確り見ていても…そのテレビ内の変化・運動は、見て取れない。


だからと言って、そこで、テレビを分解して、中を見ても…素人の私には、その運動・変化は理解不能である。
私は特に知りたくはないが…仮にそのようなテレビ機器類の運動知りたいなら、専門家の著書やテレビの製造工場へ見学となろう。
または、市販されているならば、…テレビ組み立てキットを作ってみる…


ここに飽きもせずに度々コメントを寄越しているお宅は、色々と物知りであるようだが…
現在の、このお宅は、「滝村国家論」に興味・関心がある、ようだが…
まあ~「好きこそものの上手なれ」だから…喜ばしい事であるが…

このお宅は、「滝村国家論」を熟知したいのか?
それとも、「滝村国家論」を足掛かりにして「国家」というモノを熟知したいのか?
それとも、単なる「暇つぶし」で自分の「好きな知識収集」をしたいのか?


自己の目的意識によって、その対象・著書・言語の理解の仕方も当然に異なってくるだろうに…
このお宅は、言葉・言語・表記の拘るあまり、その言葉・言語の示している対象の姿を見て取れなくなって、しまっている…ようだ!


別言するなら、その人の言葉の意味は理解できても、
その人の認識は、分からない・理解できない…

感情のない言葉・知識が豊富すぎるから?
相手の感情を感じ取れないから?
相手の立場に立てないから?
相手に二重化できていないから?
相手を馬鹿にしているから?
自分は有能・相手は無能たと思い込んでいるから?



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