「勉強(する)」の話
以前から「勉強」について興味・関心があった。
そんな中、ブッタお宅のコメント「これもまた、勉強になりますね。」を頂き…
改めて、昨日ネット検索して以下の記述に遭遇した。
~~ネットから転写~~
「勉強」と「勉強する」は、意味が異なります。
「勉強」は、知識や技能を習得するために取り組む作業を指します。学校だけでなく、実用的な知識や技能を学ぶ場合にも広く使われます。
「勉強する」には「将来のために」というニュアンスがあります。
「勉強」の語源は「勉め、強いる」で、本来は気の進まないことを無理にするという意味でした。江戸時代には商人が頑張って、商品の値段をまける意味で使われていました。
~~転写終了~~
勉強とは、「勉めて強いる」事は、分かっていたが…
「勉強」と「勉強する」の意味の違いは、あまり意識していなかった。
学校の教科である「算数・国語・理科…」が、
勉強だと言われる理由を以下のように考えていた。
教科学習でも、
特に座学的に静かに解説・説明・知識…座って聞く教科は、
成長期の児童達にとって「座って静かに聞く授業」は、勉めて強いて静かに座りに続け聞く、事が必要。
だから、勉めて強いて勉強する必要があるから、、名詞で「勉強なのだろう」と考えた。
>「勉強する」には「将来のために」というニュアンスがあります。
この「ニュアンス」は、何となく分かっていた。
「面倒でやりたくない事」を、敢えてワザワザ勉めて強いる意味・意義は?
それは、その事を修得したなら、今ではなく、将来に役立つだろう!の予想され得る事だから。
それが「将来の為」という事だろう。
ここで問題が、
保護者・教員・大人達の予想する「将来の為のモノ」、
児童・生徒・学生・事も達の予想する「将来の為のモノ」…
その予想され得る「将来」像・「役立つ」像の異同であろう。
ユーチューバーになりたい小学生の将来に役立つ事は、
タイピング・パソコン操作…の技術的モノであり、
彼の勉強には、算数・理科・社会…は、入っていない。
最近の私は、児童が「めんどくさい!やりたくない!」と言うと、
必ず~
「めんどくさい!やりたくない!事をやるのが学校の勉強!」
「学校に来たら、確りやって下さい!勉強して下さい!」
と言う事にしている。
因みに、他人の言説・言動・行為・行動…を
「他山の石」・「反面教師」としての勉強もあり得る。
なので「これもまた、勉強になりますね。」が果たして
直接に手本・見習える(将来の為の)「勉強になります」なのか?
それとも、絶対やらない・マネしない「悪い手本の勉強になります」なのか…
言うなれば~
ブッタお宅の「勉強になります」の中身、
どうような形での勉強になったのかを知り得たら、
その時は、自由びと、もキット「勉強になり得る」のに…残念・無念…