新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「勉強(する)」の話

2024-10-06 11:54:09 | 自由論

「勉強(する)」の話


以前から「勉強」について興味・関心があった。
そんな中、ブッタお宅のコメント「これもまた、勉強になりますね。」を頂き…
改めて、昨日ネット検索して以下の記述に遭遇した。


~~ネットから転写~~

「勉強」と「勉強する」は、意味が異なります。

「勉強」は、知識や技能を習得するために取り組む作業を指します。学校だけでなく、実用的な知識や技能を学ぶ場合にも広く使われます。

「勉強する」には「将来のために」というニュアンスがあります。

「勉強」の語源は「勉め、強いる」で、本来は気の進まないことを無理にするという意味でした。江戸時代には商人が頑張って、商品の値段をまける意味で使われていました。

~~転写終了~~


勉強とは、「勉めて強いる」事は、分かっていたが…
「勉強」と「勉強する」の意味の違いは、あまり意識していなかった。


学校の教科である「算数・国語・理科…」が、
勉強だと言われる理由を以下のように考えていた。


教科学習でも、
特に座学的に静かに解説・説明・知識…座って聞く教科は、
成長期の児童達にとって「座って静かに聞く授業」は、勉めて強いて静かに座りに続け聞く、事が必要。
だから、勉めて強いて勉強する必要があるから、、名詞で「勉強なのだろう」と考えた。


>「勉強する」には「将来のために」というニュアンスがあります。

この「ニュアンス」は、何となく分かっていた。
「面倒でやりたくない事」を、敢えてワザワザ勉めて強いる意味・意義は?
それは、その事を修得したなら、今ではなく、将来に役立つだろう!の予想され得る事だから。
それが「将来の為」という事だろう。

ここで問題が、
保護者・教員・大人達の予想する「将来の為のモノ」、
児童・生徒・学生・事も達の予想する「将来の為のモノ」…
その予想され得る「将来」像・「役立つ」像の異同であろう。


ユーチューバーになりたい小学生の将来に役立つ事は、
タイピング・パソコン操作…の技術的モノであり、
彼の勉強には、算数・理科・社会…は、入っていない。


最近の私は、児童が「めんどくさい!やりたくない!」と言うと、
必ず~
「めんどくさい!やりたくない!事をやるのが学校の勉強!」
「学校に来たら、確りやって下さい!勉強して下さい!」
と言う事にしている。



因みに、他人の言説・言動・行為・行動…を
「他山の石」・「反面教師」としての勉強もあり得る。

なので「これもまた、勉強になりますね。」が果たして
直接に手本・見習える(将来の為の)「勉強になります」なのか?
それとも、絶対やらない・マネしない「悪い手本の勉強になります」なのか…

言うなれば~
ブッタお宅の「勉強になります」の中身、
どうような形での勉強になったのかを知り得たら、
その時は、自由びと、もキット「勉強になり得る」のに…残念・無念…








コメント (13)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

応用編「1000g=1.000㎏」の話

2024-06-27 10:34:27 | 自由論


応用「1000g=1.000㎏」



(問題一)「1234g+5.678㎏」

~この解き方は、
「g」表記なら~まず㎏表記のg表記に統一して、

g表記計算なら、1234g+5678g⇒  

1234g
+5678g
 6912g

㎏表記計算なら、 5.678㎏+1.234㎏
            
 5.678㎏
+1.234㎏
 6.912㎏
           
               
以上のような手順が必要だが…

「1000g=1.000㎏」の公式を使うなら~
以下のように桁数を合わせ・単位を上下揃えて並べて

  

 1234g
+5.678㎏
 6912g~   

下の小数点を無視して上下を足して、「g」表記~



5・678㎏
+1234g
6.912㎏   

上下足して、小数点加えて「㎏」表記~


なんて…ひと手間省けて、ラッキーかな…




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

The・雑感!

2024-06-20 12:05:28 | 自由論


The・ 雑感!


今朝のコーヒーの味は、旨くない~から始める「The・雑感!」
より正確には、キーボードを叩いて認識の言語化から始める「The・雑感!」
もっとも…これに弐回目の出発であり、一回目は数分前に、キーボードの打ち込みミスで消滅してしまった…

今日のコーヒーを、私は何故に「旨くない」と感覚・認識したのだろうか?
それは、今の私が認識している「旨いコーヒー」とは、
買ったコーヒー粉から入れた直後に牛乳をタップリいれたモノ~

そのコーヒーの味は、家内と付き合い始めて、
彼女の入れたてのモノを飲んで「旨い・美味しい」と体感・感覚したモノ~
でも…今日のコーヒーは、一昨日に私が自分で入れた、残りを冷蔵庫に保存していたモノ。
そこで…再度、コーヒーを入れ直したら~「ヤッパリ旨い」!
その「旨い・美味しい」も「旨くない・不味い」も…
それらは、過去から現在までの、自分の感覚・体感・経験の結果での「旨い・旨くない」・「美味しい・美味しくない」に過ぎないモノ~
それは、「真の絶対的な旨いも旨くない」!という事実であろう…


昨日のように…仕事日・勤務日なら、入れ直しの時間がなく、
今日のような コーヒーでも、そのまま飲んだのだろう…
でも、今日は休日だから、時間の余裕があるから…入れ直して飲んだ!

その感想は、
今日の入れ経てコーヒーのどこが「美味しい・旨い」か?
また、一昨日のコーヒーののどこが「不味い・旨くない」か?
↑~の具体的な説明・言語化不能である事に気付かされた。
それでも言語化のチャレンジした結果が、上記のような「認識の比較の結果」という解説である。


さてさて~今日のテーマは「The 雑感!」だから~

今日も私も、また「悟った!」
今の私の心境を「嘘つき・狼少年」の物語的に書くなら以下であろう。

その物語とは~
ある村で「狼が来た!」といって、過去に二回嘘を言った少年が、
三回目に言った「狼が来た!」を全く相手にされずに、狼の食べられた童話である…

しかし…この二回の「狼が来た!」は、本当に嘘だったのだろうか?
この二回は、村人が少年の「狼が来た!」を信じて、
狼への対応策の取ったから、「狼は逃げた」のかも…

そして、三回目は、信じて貰えずに対応策もなされなかったから「食われた…」かも…
更に~もしかして…その村は、少年の食べられた後に、狼の集団に食い尽くされて全滅してしまったのかも…


私の「悟った!」・「悟りを開いた!」「悟得した!」…は、
「嘘つき狼少年」の三回どころではなく、過去の旧「悟りを求めて…」を含めると…とんでもないモノであろう。


しかし~それでも…過去の私・今日の私も~自己・自我・己の認識に変化を痛感し続けていた。
ただ…その微妙な私認識の変化の言語化ができ難かったのだろう。
それは、その変化が、余りには微細過ぎ、更に私の言語能力の無さ過ぎ…からであろうか…


tadaさん曰く~
「認識を止めるのは至難!」
だから認識を集めてその変化・運動を「集中する事」

その「認識の集中とは、その認識の言語化」である事に、今日気付いて・言語できた。
これも、tadaさんの「集中」概念の私的な「集中」・言語表現化であろう。




だから、私は、今の私の「悟り」・「悟得」の言語化にチャレンジ!

世界は一つと言われているのに、何故に世界観は「二つ」なの?
何故に「観念論」的or「唯物論」的、二つの世界観なの?


そもそも…
物質の世界・自然の世界、動物・植物の世界・人類の世界…といった世界は一つ、でないのに…
何故に「世界は一つ」で「世界観は二つ」なの?


解答!正解?は「世界は一つ」の意味・解釈とは~

この「一つの世界」とは、
今・この瞬間であり・眼前で展開され・続けられている~
「モノ々の存在・モノコトの変化・運動」の全てが「今一つ」だから…
生命体・動・植物は、今を今としか感覚できない生きモノ…
しかし…人類は、「一つの今」から、
「今さっきの過去の今」・「少し後の未来の今」を想起・想像可能な認識・頭脳活動を体得してきた…


これも、一つの概念の弁証法の具体的な姿形であろうか…
「現在の今」から「過去の今」or「未来の今」への変化・運動であろう。

私は、確実に「悟った!」のだろう!or妄想?
弁証法の頭脳活動かを可能にした!?


その証が以下の言語表現でもあろう。
今・この瞬間に存在しているモノは、感覚不能な「無限小のモノ々」・感覚不能な「無限大のモノ々」…
そして、感覚可能な「有限の姿形のあるモノ々」・「その有限なモノ々の変化・運動(結果)」~


人類が感覚している・感覚可能なモノ・コトは、全ては~
「あるモノコト結果であり・別のモノコトの始まり」であり…
視点を変えるなら、「あるモノコトから別のモノコトへの変化・運動・過程…」


それら全ては~
その人物の認識・頭脳活動が、そのように「弁証法性・弁証法的」に捉えられるか・捉えるかの問題であろう。
弁証法性とは、全ての変化・運動のバラバラの集まり…「変化・運動性」であり、
弁証法とは、そのバラバラにしか思えない・認識できない「弁証法性=変化・運動性」に、
その人物が、自分・自己・自我も目的意識を絡めて、
自分目的に即して~
<「時系列」・「起承転結」・「生々・生成・発展・衰退・消滅」>的に
筋を通して役に立てる・使えるように組み立て直す頭脳活動。


The・雑感!も少し疲労したので…以下で今日の終わりとしよう!

学城の第23号を数日前から読み始めた~
そこで、気付いた・言語可能になった事は、
最新の師範の武道哲講義の御講義を聞いた師範の弟子の論文の内容について…
それは、弟子達のみなさんは、その自分の専門分野で、師範の武道講義を理解・納得している事。

ここから、気付いて事は、過去の空手家達が、
自己の形・型~「○○氏の観空大」とか…自ら「己得意型を創出している…

それは、彼ら空手家の空手で得た「悟り・悟得」の表現を、
「その○○型」として創り上げた・創出した」という事実である。

そもそも「悟り」「・悟りを開く」・「悟得」…とは、絶対に言語ではない!
それらは、自分の感覚・感情・思い・苦しみ・喜び…喜怒哀楽・感情への対処法であろう。
それは、自分の認識・頭脳活動のコントロールでもあろう。


自分・自己・自我…の認識・頭脳活動の、
自分・自己・自我の総合的な目的意識に即した変化・運動総括・統括であり、
そして、その目的達成の為の行為・言動・感情…の変化・運動のコントロール・制御であろう~


真の自由とは、
自分・自己・自我…の目的意識(性)・変化・運動性が、
この地球の自然・社会・人類・精神…未来への輝ける明るい未来へ変化・運動との一致の期待が求められるモノなだろう…


いやいや!この「The・雑感!」の終りは、
意味不明な言語の羅列的になり得てしまいしましたね♪♪♪


それは、メモ書きでも、書いた人物なら認識・像化が可能。
また、私が読んで意味不明な一年生の国語ノート記述でも…
その国語の授業を実際にした教師から、確実に理解可能な事実~


それは、
今の私と同様な境地の人々なら、今回・最後の「羅列…的」の自由び記述でも…
その意味・理解・納得…は兎も角として、
自由びとの息の境地への理解は可能であろう…「事実の存在がある」…と言う事実で・お・わ・り・



再読・再確認して…気付いた!
誤ってミスして消去した前回で書いたのに…今回書いてないモノコトがある…という事実に~
イヤイヤ再々読・再々確認したら、ヤッパリ書いていた!


なので…今回の「The・雑感!」は~ここまでてで、「お・わ・り」なのだ!




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モヤモヤの正体?発見!

2024-05-19 12:08:34 | 自由論
モヤモヤの正体?発見!


何時の頃からだろう?…かは、分からない!
でも…ここ暫く心の中でモヤモヤが蠢いていた?!

その正体を知りたく…
想いを思いのままに書き綴っているが…
そんな中で昨日から南郷氏の「…武道哲学…」全集の第一巻の再読を始めた。

だから…と言う訳ではないが…
今朝、再度浮上した認識がある。
ここでの「再度浮上…」とは、以前にも思った事・認識だったから…

南郷氏の著書の中で…「技の崩れ」の実例として…弟子の事が書かれていた…
それを読んだ当初は、「空手家の空手技の崩れの問題」と他人事であったが…

何時の頃からだろう…「技の崩れ」とは、空手家の技の問題だけではなく…
「人間一般の人間技の崩れ」そのものなのではないだろう…と思うようになった…


例えば、大学時代は筋肉隆々なスポーツマン…
なのに…就職して会社人になって月日が流れたら贅肉ブヨブヨな豚人…
これは、観方・考え方によっては、スポーツ創った技・体形…が、生活・環境…の変化で「崩れていった」とも言える。

現に、社会人・会社人になっても…
趣味で大学時代のスポーツを続けている人達の体形の変化は少ないだろう。


「技の崩れ」は、身体の体形・姿形…の変化・崩れにもなろう…

現在の私が、日々苦しんでいる「右股関節の痛み」も然り…
確かに若い頃の小指の脱臼の対処不足による亜脱臼状態…
さらに、その小指骨折の治療せず放置での小指変形…が原因での右股関節の痛みだろう…
それでも、その痛み40代の頃までは皆無だった。
しかし…ここ数年…痛みあったり・なかったり…の繰り返しである。


古傷が治った、無くなった訳でもないのに…痛み消える・無くなる…のは、
痛くなる度に整骨院や整体院へ通った結果の体の状態・動き・姿勢…の変化あろう。


痛みの根本的な原因ある「古傷」という実体の損傷あるのに…
その痛みが消失するのは、痛まないような姿勢・動作…の機能の変化がある、から…なのだろう~

ならば、その姿勢・動作・動き…を体得・技化すれば、痛み・苦痛のない普通の生活が可能なのだろう…

しかし…ここに問題が…私の「右股関節の痛み」は、
その時々の全身の姿勢・運動…の全体的・総合的な結果によって生じている。

私の姿勢の何が悪いのか?
顎が出ている?背中が丸まっている?頭が下を向いている?胸がマルまっている?…数えればキリがない…

でも…考えてみれば…人間は生きて・生活して日々・時々…必ず動いている!
そんな動きの中での五体の姿形は様々であろう。
なのに、「姿勢が悪い」とは如何なる事?
それは、その「悪い姿勢」を取っている時間・間隔が長い…
そのような「悪い姿勢での日常動作」が多い…


子供時代は、成長期であり、
その姿勢は時々の状況に合わせての変化した姿勢、
対象に即した「姿勢・変化の結果」であろう…

それは、習慣化・癖化・技化していない「変化の過程」の形態であろう…
しかし、子供から大人・学生から社会人へ…と身体状況・生活・環境…の変化中で、
その対象の変化・運動に即しての自分の姿勢・動作が、癖化・習慣化・技化…して…
結果的に「変化過程⇒変化結果」の姿形・動作へと変化していく~


それは、見た目・表面的には、同じ姿形・動作であっても…
その中身の相違は、「内に変化の可能性を持ち得ているかor否か」であろう…

子供時代・成長期は、実体が変化を持っているので…
全ての姿勢・動作に、その成長過程での柔軟性がある。

しかし、成長期が終了!更に衰退期が始まってしまった!
そんな大人に実体の機能への柔軟性の期待は無駄であろう…


ならば…
そんな衰退期の私~
故障・痛み・右股関節の痛みある私は何に助けを求めればいいのか?
それは、実体でなく機能へ求めるモノだろう。

でも、右股関節の機能は、身体・筋骨…の実体の機能であり。
それは、身体・筋骨…の実体を変えねば、その機能は変化しない…

痛みの解決の為に実態の機能を変えたい!
でも、その実体の機能を変えるには実体を変えねばならない…

しかし、小指の亜脱臼・小指の骨折変形癒着…には手術が必要…
ただ手術しても、完全に元通りになるという保証はない!

ただ一つの救いは、古傷がそのままでも、痛みがない時・事実がある事。
それは、故障はそのままでも、全身の一体的な姿勢・動作という機能を整えれば、痛みの解消が可能である、という事。

その為に何をすればようか?
その答えは、「武道の理論・南郷理論」が空手の実例で示唆している。


達人を求め・目指す空手家は、黒帯になったら白帯から再度の稽古・練習を始めよ!
大人の黒帯は空手技が、ほぼ技化・完成した状態である。
それは、子供ではない大人においては、内に変化・運動性のない姿勢・動作の完成であり、
そこに全身的な機能の変化を求めるには、全身・実体の機能を変化させる必要がある。

全身の総合的なトータル的な機能の変化求めるのに、
全身を一体的に変化させる…とは如何にするのだろう…

手の姿勢・動作は手を動かせばよい!
足の姿勢・動作は足を…首は首を…背中は背中を…
しかし…各部分の一度・一遍には無理難題であろう…


そこで…「武道の理論」である。
武道では、初めに個々の技を覚え、後に総合的・一体的に使用を覚えていく…


ならば、人間は、子供時から大人へどのように姿勢・動作を習得、癖化・習慣化・技…していったか?
それは、生活の中で少しずつ見て・真似して・学んで時に癖化、時に習慣化、時に技化してきた…のだろう。


私の場合は、古傷が原因でも…
その他の要因として、生活・環境の変化に加えて、老化・衰退…の為…
その痛みを発生させない、状況に即した姿勢・動作が、環境変化・老化・衰退…で取れなくなり…
結果的に、痛みの発生がある…
それでも…痛みの解消がある!という事は、その一時でも姿勢・動作の修正が可能である証であろう。
ただ…それが、長続きしないのは、
その痛みない姿勢・動作が、日々老化・衰退している私の身体・実体の変化に対応して変化でき難いからだろう…


日々の老化・衰退に即した、現在の私の姿勢・動作の習得・継続…
また、日々の老化・衰退に少しでも歯止めをする生活・姿勢・運動の維持…
その為に何をしていけばいいか?
その結論は、この記事を書く前に、既に私の中に存在していた。


それは、過去の日常的習慣の復活…言うなれば日々の運動習慣の復活…
ただし、その運動レベルは、今の私の体力・身体に即してのモノであり…
過去のような日々の成長・増強・発展を期待してのモノと同じでよい!では…
それは、今の身体の破壊へ向かっていく…のだろう。

日常的な全身運動の復活、イヌの散歩では、足に合わせて手も大きく動かす…
日々の家の雑巾がけ…掃除…布団干し…可能な限り姿勢・動作に気を配り…
目的意識(全体的な円滑な全身の運動)意識的に…
顎を引き、背中を丸めずに伸ばして、左手も右手同様に使い…


全身のトータル・総合・総括的な身体の姿勢や動作・機能を変える為に、
頭脳の機能である認識を使って、癖化・習慣化・技化している姿勢・動作とは別に、
目的・意図的に、その時々の身体の姿勢・動作を変えようと…取り組む事。


これが、空手的に説くなら、黒帯を取得したら白帯から修業・修行し直す事、なのだろう…
今の私の場合は、
過去の私的・人間的な(今は痛みある)姿勢・動作を棚上げして、
新たな、今の私が、痛みない私的・人間的な姿勢・動作の創出・修得を目指す事~

自己の認識を使って直接に実体・機能を変化させる事は不可能である。
それで、認識を使ってその時々の姿勢・動作を変える事は可能。

認識を使って時々の実体の姿形実態・現象形態に変えようと働き掛け…
その時々の実態を目的意識・意図的に変化させる事で…
結果的に実体の機能に変化を与え、時々の実態を変化させる…

実体は五感での確認は不可能でも…
時々の実態変化は五感で確認可能…

五感で確認しつつ実態を認識で変化・変形させる…
そんな亀の歩みのような日々の努力が、
今の私の右股関節の痛みの解消への道~
なのだろう…

変化し続けている実態の姿形への目的・意図的な働き掛け…
それが、「技化への道程」なのだろうか…









コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「空虚」について~

2024-05-16 12:41:51 | 自由論
「空虚」について~

お宅曰く~
「自由びとは、何を書いて何を言いたいか分からない!」
「だから自由びと言説は空虚であると…」


「何を書いているか分からない」から空虚とは…
その「空虚」は正しいのだろうか?

もともと「空虚」・[くうきょ]とは~
中に何もはいっていない・こと(さま)。から。
価値や内容がないこと。むなしいこと。また,そのさま。
中に人がいないこと。また,あけてからにする



学校では、よく新一年生が、自由帳にデタラメな訳の分からないもの絵?を書いている…
それは担任にも、私にも、他の補助員にも、全く理解できないモノ・絵?なのだろう…
本人に聞いても、説明できないモノ…

その絵?モノは、その児童が書いる間には何か分かっていても…
書き終わった瞬間に「忘れてしまった…」のかも知れないが…


そんな「モノ・絵」は、「中に何もない・価値や内容がない」空虚そのモノなのかも知れない…
それでも…その児童が、夢中になって書いていた時間は、
その児童にとっては充実していた、という事実があろう。


あのお宅は、自由びと言説を「思想」と言っている…
しかし、私にとって、それは思考・精神活動であり、思想とは捉えていない。
「思想は、ある形を持った精神」・「ある形を持った思考・精神活動の結果)」

私の「思考・精神活動とは、その活動の姿形が変化・運動を続けている状態」
それは、いままでの思考・精神活動とは…違った姿・形を持った変化・運動を求めてのモノ~


子供の認識は、頭脳の成長に即して変化・運動し続けている。
そんな運動中の自由な表現・書きモノは、その書いている過程を楽しんでいるモノ。
それに対して大人の絵描きは、書いた結果を絵画の創出が目的。

書く過程の快楽・楽しみを求めての絵描きか?
目的の絵を上手に描けた結果的が快楽か?


あのお宅は、自由びと言説に、その表現結果・思想を求めている。
でも…私にとっての自由びと言説は、
今ある私の結果の数々を変化させる為の過程的思考・精神活動を求めている。


児童は、結果を求めながらも、過程を楽しめる…
それは、その過程そのものが初体験であり、結果も初体験だから…

しかし…私のような年齢になると…その過程・手段・方法…が個性化・技化されていて…
もう…過去の初体験のような楽しみがないモノになっていて…

初体験・未知なる初めての出会いには、ワクワクドキドキ…
不安ではあるが…そこには変化・運動があろう。


ここでの私の自由びと言説の数々は、
過去から現在まで既に慣れ親しんだ、私的思考・精神活動をなるべく離れて…
新たなワクワク・ドキドキを求めての「思考・精神活動」を目的にしていたい…


結果が空虚でも…過程は充実~
結果が充実でも~過程は空虚…

過程が充実でも~結果は空虚…
過程が空虚でも…結果は充実~


初めから「空虚を覚悟」で取り組み続けるなら…
その結果が、空虚の連続でも、それは「充実」した空虚なのだろう。
初めから充実を求めて、空虚の連続なら、結果は「空虚」だろう。


「意味のない事・意味の分からない事・価値のない事」だと痛感しつつ…
それを続けた結果~そこに意味を見いだしたなら「それは充実」!


結論を書くなら…以上のよう思考・精神活動の結果…
あの、お宅の自由びと(他人)言説への「空虚」発言は、
全く意味も価値もない…「空虚な言説」であろう。

しかし、そんな、お宅の空虚発言に意味・価値を見いだそうと思考・精神活動した結果~
その「空虚について」の空虚な思考は、私に大いなる意味・価値見出し得た、充実した時だった…


哲学レベルで端的に言って、全てモノゴトは、その存在そのモノに意味・価値がある。
「ある」事自体に意味・価値ある。
「空虚」も然り、空虚が、そこにあるなら、それには意味・価値なる。

確かに、このお宅のように…自由びとの空虚を「空虚と表現」してしまう事は、
お宅にとっては全く無意味・無価値(空虚そのモノ)であろう。

それでも…お宅の「空虚発言」そのモノを、
今回のように、その中身である「空虚の理由・意味」追求するなら…
そこから充実した時を経て、意味・内容のある「空虚」の把握が可能になろう。


他人の空虚発言・他人の行為・言動に~
意味・価値を見出せない自己を発見した時、
その理由・原因・要因…を思考・問い詰めたなら…
その結果…新たな価値・意味を見いだす事が可能であろう…・



人間は、生きている事だけで、そこに個人的な意味・価値がある。
そして、個人的な生きる意味・価値に、更に社会的な意味・価値を見出せたなら…
その意味・価値は、個人的+社会的…二重的な大いなる意味・価値が生じるだろう。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする