新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

本日は、三本立て~

2018-04-30 11:13:16 | 弁証法


本日からゴールデン・ウイークで、比較的時間が取れる。
そこで、今回は連続記述を目指してみる事にした。

①、日々を弁証法的に生きる、とは…
②、事実と記憶…
③、「AさせたいならBと言え」について…


先ずは、「日々を弁証法的に生きる、とは」である。

弁証法とは変化・運動性の法則化、である。
法則化の目的は、その変化・運動性を動かす・変える事。

普通の大人なら、何かをする時、その何かを達成する意識を持っている。
食事は、食べようという意識の元で、目を手を指を口を…動かしている。

これは、言うなればAをする為にaの意識を持っている。
もっとも、人によっては、Aをするのにbに意識かもしれないが…

弁証法の学びには、「変化・運動性」に意識が求められる。
普通、変化・運動は、分かっても…
変化・運動の運動性となると…???であろう。

例えば、家庭でのNさん、会社でのNさん、同窓会でのNさん…
そんな時々のNさん態度・雰囲気は分かり得ても、
その態度・雰囲気の変化・運動性は、なかなか分かり難いものである。

更に、その態度・雰囲気を変える・動かす…となると…
例えば、
会社の中で家庭のように過ごす事。
家庭で会社のように働く事。




次は「事実と記憶…」

事実とは、現実で起こった事・起こっている事。
記憶とは、頭脳の中に残っている事実。

事実は、瞬間瞬間連続的であり、
一瞬の点的な事実。
連続した線的な事実。

人の記憶は、その人なりの点的かつ線的なものである。
そして、多くの人々の点的・線的な記憶を集めると立体的な記憶となり、
その時、初めて、「事実≒記憶」となりえる。

その人の事実に対する記憶は、その人なりである。
人が、事実に対する記憶を動かす・変化させるには、
事実と関わる意識を変える必要があろう。


最後は「『AさせたいならBと言え』について…」である。

「AさせたいならBと言え」とは、
岩下 修 著 明治図書 である。


その中で、
>もう一つ、いやな「指示」がある。これは整列させるときである。
「気をつけ!指先を伸ばして、手はズボンのぬい目に!」
………
話を聞いたり、思考する上で、不必要な緊張である.

事例「全身を綿にして気をつけなさい」

たしか、向山洋一氏の言葉だったと思う。綿と言う言葉によって、
身体はリラックスできる。


これは、気を付けをする時の意識を変える、という事である。
それは、「気を付け」の形を意識して、話を聞くのか、
それとも、「気を付け」の形に捉われずに、話を聞くのか、であろう。

先生の話を整列して、姿勢を正して聞く事は、
学校教育の目的の一つである社会性の養成であろう。

「気を付け」ができない子供には、気を付けの形を指導し、
「気を付け」形できても、話を聴けない子供には、その心の指導を…

初めに、Aをするのにaの意識が量質転化化したモノを、
次には、bの意識でAができるようにするコトである。

最近、私は、ひらがな練習帳を使って、
左手で平仮名を書く練習を時々している。

数枚書いただけで、非常に疲れる。
それは、手が疲れるのではなく、頭が痛くなる、のである。

右手で書くことに慣れ切った身体を、左でに慣らせる事は、
「書写=右手」だったモノを「書写=左手」とするモノである。
これは、右利きの私にとっては、大いなる矛盾である。


こんな矛盾に耐え、慣れる事は、
変化・運動性の自覚への繋がる、のである。







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形而上学的と弁証法的…

2018-04-21 11:48:49 | 悟りシリーズ

またまた…久しぶりの更新である。
毎日毎日、パソコン画面に向かって『今日こそ更新!』と思いつつ…
結局、内臓している「フリーセル」ゲームに向かってしまっている。

やりたい事を優先して、あまり気乗りしない事を後回し…は人間的である。
やりたい事をやり、やりたくない事をやらない…のも人間的。

更に、やりたくない事を優先、やりたい事を後回し…も人間的。
そして、やりたい事をやらず、やりたくない事をやる…もまた人間的。
人間である者なら、何をしても人間的…と言い得る。

ならば、その「人間的」の中身の違いは何か?
それは、感情的か理性的かの相違であろう。
感情として「やりたい」事でも、
理性としては「やらない」…というモノである。

それでも、この「理性」の中身が、十人十色であるのが…また問題であろうが…

さてさて、今回のテーマであるが…
「形而上学的」を、三浦つとむ氏は「あれかこれ」のどちらか一つ、という意味で、
「弁証法的」を「あれもこれも」両方とも~として用いている。

形而上学とは、形而下学と対比しての言葉である。

以下はネットに書かれていた記述である。

>形而下学は、実体のない原理を研究の対象とする形而上学の反対であって、実体のあるものを対象とする応用科学の学問。 『易経』繋辞上伝にある「形而上者謂之道 形而下者謂之器」という記述に依拠すると、「道」は、世界万物の本質、根源であり、形のないもの。<

「形而上学的」とは、
学問を「形而上と形而下」の二つに分ける考え方だから
「あれかこれ」となるのだろう。

「弁証法的」とは、言うなれば、
形而上学と形而下学の間(過程)を説く(解く)から「あれもこれも」なのだろう。

昨日、西友の書籍売り場での事である。
私は、ひらがな練習帳を買ってセゾンカードでの支払いをした。
その時、カードの確認の為の待ち時間が長かった。
そこで、
私、「結構長いですね!」
店員「すみません!お待たせして…」

その店員の表情がとても申し訳なさそうで、私は違和感を感じた。
手続きが終了して、
私、「食品売り場のセルフレジは早いですね」
店員「お待たせしてすみません。カード機器が違うので…」
私、「そう~機器の違いですね…」
店員「大変お待たせしてすみません」
私、「別に急いでいる訳でないので…大丈夫です(笑顔)」

そんなこんな私と店員のやり取りの中で気付いたのは以下のような事。

初め、私は西友の食品売り場のセルフレジと比べて時間が「結構長い」と感じた。
それは、特に急いでいて「早く」したいから…という理由ではなかった。

それを、店員は、私が忙しく早くしたいから「結構長い…」と思ったのだろう。
その感情・思いから表情が「申し訳なさそう」だったのだろう。
だから、「すみません」という言葉を多用したのだろう。

この場合の時の長い・短いは、時計での計測はないので私の感覚である。
この長短の感覚は、絶対的なモノではなく相対的である。
私は、普通と感じていた西友のセルフレジと比較して「長い」と感じた。
でも、仮に私がこの書籍売り場の機器を普通と感じていたなら…別である。


この普通とは、私の普通であり、
それは、私が慣れ親しんだ結果としての普通である。

私が私の普通を、絶対的だと思い込む時、
それは、私が私自身の思考・感覚・認識・感情の幅を
自ら狭めてしまうモノであろう。

私の立場、私からすれば普通であり、個人的・絶対的なモノであっても、
私以外の他人・立場からすれば、それは普通でなく変?である、のかも…

そんな「私の普通は、他人の非普通?」というような
疑問・問い掛けを持ち続けて生活する事は「悟りへの道」であろう。

私の普通が、ある人から異常と感じられた時…
その葛藤の解決・理解に必要なのが弁証法・認識論であろう。

自らの認識を疑いつつ…の生活は不安定である。
人は、安定の快さを知った大人は、普通となった安定を求めるモノ。
成長の真っただ中の子供は、安定を知らない不安定が普通の子供は、
安定も不安定もなく、あるがままに生きているモノなのだろう。






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昨日、風呂で洗髪せず!

2018-04-14 12:36:25 | 想い思い考える

昨日、風呂で洗髪せず!

「昨日は風呂で洗髪をしなかった。」
↑⇒これは事実である。

「一昨日も洗髪しなかった」
↑⇒これも事実である。

ならば、これらの言葉に含まれる論理は?
それは、昨日は洗髪すべき日だったのに洗髪しなかった。

幼い頃から習慣で、私は一日おきに洗髪している。
そのようになった理由は、
毎日の洗髪は面倒。
でも二日間連続でしないと髪の毛が痒くなる。

以前、風呂は一日おきだったので、毎回必ず洗髪していた。
でも、父親の家に引っ越してからは毎日風呂に入っている。
風呂は二日間入って入れ直し。
なので、新しく入れた風呂の日は洗髪と決めていた。

ならば、洗髪すべき日にしなかった理由は何か?
それを「忘れた!」と言い切るなら…的確ではない。

失念でも忘れた訳でもなく。
私の「思い込み」からであった。
別言するから「勘違い」でもある。

昨日、「息子が新しく風呂を入れた」事は知っていた。
なのに…何を思ったか…
入浴した時『今日は追い炊きの日』と思い込でいた。

子供時代なら、新しい知識・行動パターンの定着に時間が必要である。
その定着までには、忘れる、覚えているのに思い出せない…事もある。

「忘れる」とは、「亡くす心」と書くが…
「心を亡くす」とは、心ここにあらず、であろうか…

昨日の私は、昨日の私の心は昨日になく、一昨日にあった。

昨日の私の心は、新しく入れた風呂に入ろうとしている心。
一昨日の私の心は、追い炊きの風呂に入ろうとした心。

新しい風呂なら洗髪。
追い炊きなら湯船に浸かるだけ。

一昨日の心で、昨日を生きた私…。

今の私…
果たして、
今の私の心で今を生きているだろうか?


今の私の心は、
昨日と一昨日の事を思い出そうとしている心。
幼少時からの風呂に関わる心。


今を生きる為の心とは、
過去から現在までの私を思い起こし、
その流れに乗せたモノであろう。

過去は、どの時点に設定するか?
現在は、今の何に焦点を合わせるか?


今は、ブログを書いている。
テーマは「昨日、風呂で洗髪せず!」である。
ならば、
過去は、昨日であり一昨日であり、更に幼少期であった。
現在は、パソコン画面を見て入力している今、である。







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葛藤・矛盾を抱きつつ…

2018-04-01 11:53:49 | 日記

昨晩、ドラマ「ミッドナイトジャーナル」を視た。

新聞記者として誘拐犯について不確定な記事は書けない。
でも、一人の父親としては、多くの保護者が子供を守る為に、
不確定であっても、情報を新聞に掲載したい。

不確定な情報を記事にする事は、新聞と新聞社の信用に傷が付く、
という理由である。

ここに、新聞社の一員の立場と一人の父親の立場の葛藤がある。
この葛藤の解決法は、現代ならそう難しくない、のだろう。
その一つは、「誘拐犯の不確定情報」と明記しつつのネット公開であろう。
これは、組織人と家庭人の葛藤・矛盾の克服でもある。

人は様々な立場の自分を保持していきている。
一人の国民、組織の一員、家族の一員…
そこから数々の矛盾・葛藤が発生している。
その葛藤とは、どの立場の自分を優先するか、である。

国家の為に生きるか?
組織の為に生きるか?
家族の為に生きるか?
自分の為に生きるか?


別言するなら、
国家第一主義か?
組織第一主義か?
家庭第一主義か?
個人第一主義か?


人間は、人間として生きる為に生活していくモノ。
時に家庭人として、時に組織人として、時に国民の一人として…
それは、人間としての自分・人間第一主義であろう。

それを「国家第一主義」か「国民第一主義」か、
と二者択一の問い掛けは弁証法的ではない。

そもそも国家とは、全国民の社会生活の維持・発展の為の組織であろう。
全国民の社会生活第一であるべき「国家指導者の国家の為」とは、
常に「国民社会の為」を意識すべきモノであろう…
その一国の国家指導者が「国民・社会生活第一」を忘れる事は、
国家の危機的状況であると言い得る。

そして、一人一人の国民は社会生活第一主義であるべであろう。
それは、時々の国民・組織人・家庭人…としての葛藤・矛盾を克服しつつ…てある。


今回の私の、仕事の一件も然りである。
家庭人として、父親の介護を優先した結果。
組織人として、組織から脱退の強制であった。

ここでの不足は、学校の立場から家庭的な事を考える。
ここに十分過ぎたのは、学校への甘えであった。
過去三年間休まず働いたから、
ここで休んでも許されるいう個人的な思い込みであった。

そんな色々な想いを抱きつつ~
いよいよ新たな学級で、
新たな多くの出会い、
新たな取り組みへのスタート、である。





コメント (2)
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