新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

投球が「止まって見える」とは?

2023-02-26 16:40:42 | …弁証法…
「投球が止まって見える」とは?


ある有名な野球選手が、
「絶頂期には、バッターボックスでピッチャーのボールが止まって見えた」
と言っていた、と何かに書いてあったが…

認識と現実の絶対矛盾から考えるなら…
認識は、今のこの瞬間のボールの位置を同時に正確に認識できない…
なのに、そのバッターはボールを止めて見る事でホームランした。

これは、どういう事だろうか?
絶対矛盾=絶対に現実とは一致しない位置情報認識なのに…一致したとは?
ここに「弁証法認識能力」の実力が絡んでくる。

弁証法とは、変化・運動性の法則化である。
例えば、バッターがピッチャーの投球のスピード・コース・球質…の法則化・弁証法化が出来たなら、結果的に「そのボールの変化・運動」の予想が可能になり得る。


それは、今この瞬間の位置情報から、次の瞬間の正確な位置情報像を描きうる実力となりえる。
それこそが、南郷氏が哲学とは、学問の弁証法的駆使…という概念だろう。

個別科学の総括・統括である学問・一般科学問は、そのままでは、その瞬間の今の学問・一般科学にか過ぎない。
これは乾いたワカメであり、干からびたミイラ…といえよう。

そこで、「学問・一般科学」を「唯物弁証法認識論」を用いて駆使の状態にする事で、
今この瞬間の外界・情報で、瞬時に次の瞬間の予想像を描ける。

これは、現実界の乾いたワカメを、頭脳内の弁証法海につけて、生きたワカメ化して、その動きの予想が可能になり得る…と同様に。


コメント (33)
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雲海and自由びとコメント(その2)

2023-02-26 12:50:52 | …絶対矛盾…
▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
絶対矛盾コメント

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/6e1f2a7ea5296e1c861793f68c459e13

・コメントを書いた人
雲海

・コメント
>猫の件でいうならば、私は人間以外の動物と生活するのが好きではありませんから猫を飼った経験がないんです。


私も猫は初めてですが…
なかなか可愛いです。
犬とは違った「女性的な可愛い」さですね。
また、犬と違った本能的なモノを持っています。
特に、私の家の猫は、家内が墓場で拾っていた野良ですから…
強い野性的な本能でしょうか…
それでも、飼い始めて10年が経った今、息子にも私にも、とても懐いています。
もっとも…それは「イヌの懐き」とは、違った猫的なモノですが…

柴犬と雑種のトラ猫を比べた時、共通性が゜見られます。
私の飼っている柴犬は、過去に飼っていたゴールデン・レトリバー犬に比べるなら野性的です。
一説によると、それは「西洋犬と日本犬の違い」だそうですね。
日本犬は、オオカミの血が濃いらしいです。



>それで少し調べてみたら飼い猫の爪を切っておくのは引っかかれて感染症にならないために絶対に知っておかなければいけない知識らしいですね。
しかも自由びとさんの場合は血統書つきの綺麗な猫ではなく拾ってきた野良猫ですから、雑菌は比較にならないくらいあったでしょうね。


外で生きている野良猫なら、そうでしょうが…
私の家のように、室内で飼われている猫の場合は、爪に危険な雑菌が付着する可能性は低い、ようですね。
現に、私は何回も飼い猫のマニャに引っかかれていますが…
多少痒くなりましたが…今日まで全く問題は発生していません。

拾って来た当時は、家内が動物病院へ連れて行って、予防注射を打ちました。
医師が言うには、生後2週間位だ、そうです。



>『野良猫の飼い方』なんて本があるのか知りませんけど、ペットショップで買った猫なら店員さんだとか詳しい人が知識を授けてくれたでしょうに、何も知らずに引っ掻かれながら体得していくなんて類いの話じゃないと感じますね。


家内は医者に色々と聞いたり、ネットで調べたりして…当初は牛乳を飲ませていました。
当時、小学生の息子は、段ボール箱で、マニャ用の二階建ての家を作ってくれていました。
一回をトイレ・スペース、二階が生活スペースにしていました。

>時として猫というのは女性の喩えとして持ち出されますけど、野良というのは迂闊に家に入れると金目のモノを持ち出して逃げたりしますから気をつけたほうが良いでしょうね。


私の場合は、マニャの外への出入りは禁止・制限して家の中だけでした。
困った事は、大きくなった当初、その辺に置いてあるお菓子の袋を破いて自由に食べあさった事でした。
その後、食べられないように、置き場所に気を付けました。が…

父の介護で現代の家に移ってからは、二階をマニャの生活空間としています。
それでも、うっかり息子が部屋にお菓子の袋を置き忘れると、あっという間に食べられますね。


コメント (8)
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雲海and自由びとコメント

2023-02-25 11:03:42 | …絶対矛盾…
▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
絶対矛盾コメント

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/6e1f2a7ea5296e1c861793f68c459e13

・コメントを書いた人
雲海

・コメント
>まあ、また自由びとさんお得意のご持論が始まったわけですね(笑)。


自分のブログで「持論を書いて」何が悪い!
最も…悪いとは書かれていないが…

それでも(笑)と馬鹿にしているようである…
自由びとの自分のブログでの持論展開する事への(笑)か?
それとも、その持論の内容への(笑)か?
その両方への(笑)か?

いずれにしても…他人の個人ブログ記述・内容への
(笑)コメントとは…なんと礼儀知らず者なのだろうか…
社会的な礼儀作法を知らない無知者だろう。
このお宅は、礼儀の知識なんかより、
お宅が、役立つている信じ込んでいる「知識」の方が、大切なのだろう。



>私は記述したように自由びとさんが独りよがりに考えていることを否定してなどいませんから。


このお宅には分かっていない…
己が数々の否定的なコメントを書き込んでいるのに、
その記述行為が、その内容が、「否定的である」事を分かっていない…

それとも、分かっていながら~
わざわざ「否定してなどいません」と書いているのだろうか?


>ただ私とは住む世界が違うだけの話しで、私は南郷氏独自のヘーゲル論だとか空手論だとかを非公開にしているのに世に出させて知りたいとも思いませんから、自由びとさんが「どんどん変化して昔発表したものとは比べ物にならないくらい進んでいるから追いつけない」なんて言って安堵しようとしても全然気にならないんですよ。


「バカか?」こいつ!
「住む世界が違う」なら、価値観・考え方・思い認識…が異なって当たり前!
従って、こいつの、ここへの書き込みの全てが、否定的になってしまう…
そんな簡単な道理に事に気付けていない…

>「どんどん変化して昔発表したものとは比べ物にならないくらい進んでいるから追いつけない」なんて安堵しよう…<

これって…どうやら「絶対矛盾」の事のようである。
この理解も「絶対的に違う」=絶対的矛盾であろう。

現実と認識の「絶対矛盾」とは、人間が現実を頭脳内で認識した瞬間、その現実は変化・運動している。
だから、「人間は現実を正確に認識できない」のは変えられない現実であろう。
確かに、「自分は正確に認識できない事実」には安堵できるだろうが…
しかし、その現実を正確に認識していない自分には不安であろう。

自分の認識は、自分的・個人的には・的確な認識。
でも、社会的・事実的には、不的確なモノ。







>『学城』だとか『全集』だとかをパラパラ眺めて「ふーん」ぐらいの感想しかなく、「つまらんこと書いてるな」ぐらいなんですね。


ここでお宅のそんなクダラナイ事実の披露なんて…
こんな、どうでもよいお宅の個人的な事実を書き綴って…
それは、場違いな内容でありであり、
それは、私の読み方への「否定」でもある。


>ただ、私は自由びとさんが言うのとは反対に南郷学派はもう思考が枯渇していて今後の発展は無いだろうと予想してますね。その根拠は論者たちの問いかけ方なんですが、まあ自由びとさんは腹を立てずに「素人のヤブ睨みだね」ぐらいに笑ってくれれば宜しいかと思います。


分かっていないね…
「城学」は、学術雑誌であり、理論・論理…の展開の場である。
その理論・論理の実証は、現実の社会である。
社会で実践的に実証された理論な、個別的な書物で展開されてゆく、だろうに…

試しに「現代看護教育に求められるもの」 神庭 純子著 現代社」を読んでみると分かる。
そこでは、実際の看護の事例を使って、
その正解・不正解を「弁証法的」に、「認識論的」に、「弁証法認識論的」に説いている…




>自由びとさんの珍奇な屁理屈とは裏腹にココは自由びとさんの個人宅ではなくグーのブログですから、そこに存在するのは単なる書き手と読み手という人間関係ですよ。自由びとさんの「私(雲海)の思考を自由びとさん色に染めろ」という要求は何ら守る必然性は無い自由意志に任されたもので、互いに気にいらなければコミュニケーションを取るのをやめれば良いだけのこと。その方法が自由びとさんのほうは投稿されたものを削除する機能を持っていることで、私のほうは投稿を拒否する権利をもっている、ただそれだけですよ。

↑~
だから!
何度書けば理解できるのだろう?

私からすれば理屈でも、お宅からすれば屁理屈の展開は、
この自由びと記事・記述の内容であり、それは、自由びと精神の世界である。

その私の精神的な理屈を、この「グーブログ」とい現実の世界へ当てはめているお宅だから「屁理屈」となっているのに…

私の理屈は私の精神界の理屈であり、これをそこままストレートに現実界へ出すのでありません。

それの現実界への出し方は、私の理屈に沿って、私にも周囲にも矛盾なきように私の行為・言動を駆使して発現・行動…するのが正解です。

分かりますか?分からないだろうね!
知識は、知識のままでは人生に役立てられません。
その知識を、己の身体で自由自在に使えて初めて役立つモノでしょう…

知識を自分が使えるように工夫できた時、その「知識が智慧に量質転化化」するのです。
私からすれば理屈・お宅すらすると屁理屈は、
私の日々現実の人間関係・動物・モノ関係…で実際に試しているモノ・理屈なのですよ。




コメント (6)
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絶対矛盾コメント

2023-02-12 11:17:48 | ~哲学~
「絶対矛盾」コメントの実例


以下は、記事「分かった!絶対矛盾」へのお宅コメントである。

このコメントに書かれた言葉・認識と雲海の行為は
絶対矛盾していると感じて、ここに記事にした。



Unknown (雲海)    2023-02-11 12:11:55


>「自由びとさんのコメントを否定するつもりはありません。」  

と書かれているが…
雲海の行為―他人である自由びとブログに反論を自分から進んでコメントを寄越した時点で「否定」になり得る。
本当に否定するつもりのない人々なら「否定するつもりはありません」とは書き込まないだろう…。
何故なら、自由びとは、他人の意見も持論も異論も共感…
他人の中を求めて書いていない、から…
だから、「ここは自由びとの精神世界」と言い切っている。
もっとも…求めてはいないが、自ら進んでコメントを寄越してくれる事には感謝している。

確かに、互いの議論・討論の中でなら、
自分の見解として「否定するつもりはありません」と言い切る事はありえる。

しかし、この議論・討論の場ではない、
自由びとブログに雲海持論の展開という行為そのものが「否定」と捉えられる。

この雲海のコメント記述・認識は「否定するつもりはありません。」であるが、
その雲海のコメント投稿した行為が「否定」となり得る。


「否定するつもりがない認識」で「否定する行為」の連続」を「絶対矛盾」と言わずに何と言う?!



>私は自由びとさんよりも実年齢としては随分と若者でしょうけれど、自分と異なる見識に強硬に反逆するには少し齢を重ねてしまっているのでしょうね。


反論コメントの連続書き込みが「強引な反逆」と書かずになんと書く?
度重なる反論・異論コメントの連続で」ありならも…
「強引な反逆には少し年齢を重ねて…」とは、
ここでも認識と行為の絶対(的)矛盾。



>「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」といいますが、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」で解っていけば解っていくほど相手に対して優しくなれる自分がいますね。


雲海自身の言動の矛盾に気付けずに、雲海自己正当化・自己美化の連続…
何の為に、この「自由びとブログ」を読み続けているのか?
その当初の目的and時々の目的意識は何のだろうか?



>乞食に対抗意識をもつ職業人もいないでしょうし。

そうでしょうか…
人間関係のしがらみ・苦しみに囚われない生き方・自由に憧れが無くはない…ですが…
また、会社・社会・相手と約束・拘束に縛られない日々自由にも…

乞食ではないですが…
職業人を止めて、ホームレスに転身する人達のいますよね。



>解ってくれば解ってくるほど、南郷氏の述べた「学歴コンプレックス」ということが著述の核心として理解され、自由びとさんに対して優しい気持ちになっている私がいますね(笑)


「馬鹿に付ける薬はない」如く「雲海お宅に書くべき言葉なし」

南郷氏の述べた言葉である「学歴コンプレックス」を、
雲海認識で「解れば解ってくるほど」、南郷氏の「学歴コンプレックス認識」から遠ざかっているのに…

なのに、雲海自身は「解れば解ってくるほど」に解かったつもりになって、書いている。

ここで言葉ではない、二者の「学歴コンプレックス」の認識・像を見た時、
雲海お宅と南郷氏とでは、その認識・像の一致はない…
なのに…雲海は「南郷氏の言葉」として学歴コンプレックス」を引用している。

他人の言語・認識・概念と自己の言葉・認識・概念の一致について…

この雲海お宅は、
他人の言語と自己の言語の一致が、
他人と自己の認識・概念の一致として確信している(本来は誤解・誤信なのに…)。
この場合の雲海お宅の認識と外界(南郷氏認識)は「絶対(的)矛盾」。


雲海氏が、南郷氏の引用ではなく、
雲海自身の「学歴コンプレックス」と言い切っていれば…
この「矛盾の発生」は無かったからである。


人間が、どんなに頑張って努力しても、
絶対に止められない阻止できないから矛盾だから「絶対矛盾」なのだろう。

もっとも…
他の人なら、上記のこのような事は「絶対的矛盾」であろうが…


馬鹿は死んでも治らない的なお宅だから、
「絶対矛盾」とい確信して言い切っても間違いはない…だろう。
↑~
さてさて~
上記の私的な記述・認識・像とお宅の実体は~
「絶対真理」?「絶対的矛盾」?「絶対矛盾」?






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「アキレスと亀の競争」について…

2023-02-11 08:38:37 | ~哲学~
「アキレスと亀の競争」について…


俊足のアキレスは、鈍足の亀に追いつく事だけを考え必死?に走った…。
それは正しい事か?

亀の現在地点目指して走ったゼノン。
その地点に到着したら、今度は先にいる亀の地点を目指して走った…、
どんなに鈍足でも走れる亀は、前の地点より必ず前に移動している。
その移動した亀の地点を目指してゼノンは走る。


何が拙いのか?
そもそも…競争の目的は、誰よりも早く「ゴール到着」である。
なのには、ここでのゼノンはゴールを目指さずに、
亀のいる地点を目指して、その地点との一致を目指して走っている。

本来の競争では亀のいる地点は、通過点であって、到着点ではないのに…

本来の教育は、教科書を教えるのではなく、教科書を通して教える。
教科書の知識は、ゴールではなく、ゴールへの通過点である。

ゴールは、教科書の学習を通して、現実世界像を描かせる事。
なので…ゼノン的な俊足秀才がテストで満点を取り続けても、
ゴールである現実世界を目指していないなら、絶対そこにゴールへの到着はない。


絶対矛盾とは、俊足ゼノンは競争で勝利を目指して、
前を行く鈍足カメを追いかけているのに…
それでは、絶対にゴールできない・勝てない。

勝利を求め確信しての行為が、絶対にゴールできない・勝てない行為。
主観的には「勝てる」⇔現実的には「勝てない」…そんな矛盾。


ゼノンは、眼前を亀の地点をゴールへの通過点として考えて走れたら…なら、
「ゼノンの絶対矛盾」的な思考はなかっただろう…

それは、走る「目的意識が異なっている」から…
これ程に、人間は目的意識的な存在であろう。

その目的意識の二重性~
習慣的・無意識的「目的意識」と自覚的・意識的な「目的意識」。

使う意識はあっても、創る意識の欠如。
創る意識はあっても、使う意識の欠如。
「使うと創る」の関係性であろう。


また…亀はゴールを知っていて、ゼノンがゴールを知らない場合?

……つづく……



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