新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

集中から夢中へ

2019-11-28 15:24:15 | 弁証法


「集中する」と「夢中になる」。

集中は、「する」モノ。
夢中は、「なる」モノ。

大好きな事なら夢中になれる。
好きでないモノなら夢中になれなくても集中はできる。

夢を見るには、眠る事。
直ぐに眠りたいなら、眠れる環境をつくり、
眠ろうとする事に集中すればよい。


夢中になれない事、
好きでなかったり、
やりたくなかったりする事に、
夢中になるには…

好きになればよい!
それには、まず集中する努力をする。

嫌で嫌いでやりたくない事に集中する努力をする。
一生懸命に、その事に集中する努力をする事。


そして、
そんな嫌で嫌いで、やりたくない事に、
集中しようと頑張っている自分に快感・好感を感じ、
そんな自分を好きになる事。

嫌いな事をする不快感が、
嫌な事に取り組む不快感が、
やりたくない事をやり続ける不快感が、

そんな嫌いで嫌で、やりたくない事に
集中できている自分に対する好感・快感となり~

結果的に、
その連続が己の認識状態を集中から夢中へと変えていく。


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目的意識(の二重性)について~

2019-11-23 12:27:50 | 認識論


「目的意識」とは、目的を意識する事。

このブログの目的は、
「書く事は考える事を実感・痛感」する事である~

ならば、「書く事」を意識し、「考える事」を意識し続けて、
ブログを書き続ける事が、「目的意識」の達成への道であろう。

しかし…
本当にそれだけの目的意識で満足してよいのだろうか?


先ほど洗濯物を干しながら以下のような事を思った。

この洗濯物干しの目的は、
濡れた衣類…等を乾かす事、である。
この目的を達成にするなら、早く的確を干せれば完了。


いつもなら、(こう考えて・思って?)
無自覚にサッサと急いでハンガーに掛けて終了の私だったが…

しかし今日は、旧・心に青雲ブログの読後だからだろうか…
『ここは膝を意識して張りつつ…』と思いやってみた。


これは、目的意識の二重化である。
一つは、洗濯物を干す為の目的意識行為。
一つは、その行動過程での膝・下半身を鍛える為の目的意識。

もっとも…効率的な洗濯物干しの為なら、
一つ、洗濯物干しの目的意識。
一つ最短・最速を目的とした手足の動作意識。だろうが…


これは、言うなれば
全体的目的意識と部分的目的意識。

生きている人間の目的は、
一つ、生存の為に今を生きる
一つ、未来創造の為に今を生きる。


一つ、生物として今を生きる事。
二つ、人間的(or動物的)に今を生きる事。



洗濯物干しを目的としたの行為にも、

① 、効率的な洗濯物干しの為の行為・動作。
② 、身体の部分的鍛錬を目的した動作。

の二通りの意識が可能である。



ただし…②を選択した場合…
例えば、
下半身なら膝や足首…等の部分を意識する必要から、
全体的にぎこちない動作になり得るだろう。


最近の私は、加齢・運動不足の為か、
身体の固さを痛感するようになった。

そんな私は、日常生活・勤務中に可能な限り
五体・手足を伸ばす動作をしている。

しかし…忙しい日常では、
「『身体・五体を伸ばそう』と意識する事」
を思い出すのはなかなか難しいモノである。








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夢中と集中について…

2019-11-15 12:20:21 | 言葉・概念

例解新国語辞典[第二版]によると以下である。

夢中とは、
他の事は何ひとつ目に入らないくらい、
ある事に一生懸命にになる。

集中とは、
一か所に集まる事。一か所に集める事。

教員時代、何かに以下のような事が書かれていた。

集中力がないと思われている子供でも本当はある。
テレビ・マンガ・ゲーム…をしている時の彼らを視てみよ。

それ知った当時の私は、
『本当だ!その通りだ!』と痛感した。

それから…
ずっと今まで時々
「集中力」について思っていた。

そして、現在の私~
そう~スマホのゲームをしている自分の姿から気付いた。
それは、「ブロックパズルゲーム」であるが…
もっとも…
本当はゲーム名を記す必要もなく、
何のゲームでも、どうでもよいのだが…


今日は初めて、時計を確認してゲーム始めた。
開始が9時37分、終わり10時であった。
なんとビックリ!23分もやり続けていた。

これは、集中ではなく、夢中だと気付いた。
その理由は、
過去の空手の練習で気付いたら、
23分経っていた…なんてなかった。

最近やっているテレビ体操でも然り…
途中途中何度も、
『ああ…疲れた、後どのくらい続くのか?』と…
空手も体操も、
その集中の世界から幾度も現実へ戻り、
そして、また集中の世界へ戻るの~
繰り返しであった。


夢中とは、「夢の中」であり、夢は自ら喜んで進んでみるモノ。
集中とは、自ら意志で、一か所に集めるモノ。

この「夢中」の場合、意志よりも感情が優先される、のだろう。
好きなモノだから「夢中」になれる。
嫌いなモノには、「夢中」になれない。

好きなゲームに夢中になれても、
嫌いなゲームにはなれない。

夢中になっていた好きなゲームも、
飽きて好きでなくなれば夢中になれなくなる。

それは、始まりも終わりも、
その人の感情が意志よりも優位されているのだろう。

ならば、集中はどうだろうか?
始まりは、一か所に集めようという意志であり、
終わりは、疲れたから出来ない・もう止めようという意志。

これは、感情より意志が優位。
もっとも、感情も無視できない。

感情が意志よりも、強烈な場合~

意志が集中しよう・させようと頑張っても、
分からない・出来ないから嫌だ・逃げたい的な感情から、
結果的に、集中する事が出来ずに終わってしまう。



ここから考えられる、集中力の鍛え方とは~
「夢中」になれるモノの中で、
一か所を定めて「集中」させようとする。

または、「夢中」になれるゲームの全体を
常に一つの一か所と捉えて「集中」させる。

「集中」したい一か所の中で、
「夢中」にかれる部分を見つける。

または、
「集中」したい一か所を拡大して、
「夢中」になれるモノと関連付ける。


言い換えるなら、感情と意志を、
その中身を自己の目的達成の為に、
統合して駆使可能にする。

普通なら
「不快」と感じ得る辛さ・苦しさの中に、
「快感」を発見求めて~


自分の意志で、自らに強く、以下のように言い聞かせる。

「やりたくない・やろうと思えない事だからできない」を
「やりたくない・やろうとおもえない事だからやろう」にする。

そして、こう言い聞かせつつ、兎に角、その事をやり始める。
その事に、夢中も集中も、出来ても出来なくても…やり続ける。


修行とは、『ダメだ!出来ない!』も思える事をやり続ける事。
修業とは、『皆が出来る事だから、私も出来るに違いない』と確信して続ける。

もっとも…
上記のような事を独力・自力だけでやれるとは思えない。

そこには、指導者の存在が不可欠である。
その指導者の始まりは、その子供の親である。

親は、自分の子供にとって、
将来的に必要だと思える事を、
厳しく躾ける必要がある。


その最重要事が、
「嫌いでも、食物なら食べさせる」
「やりたくない事でも、必要ならやらせる」
「親の言い付けは必ず守らせる」
「子供が納得しない言いつけは強制的に納得させる」

私が思うのは以下のような事~

現代の学校では、
正しい意志を駆使できない子供達が多い…

自分の個人的感情で、自己の意志を駆使する事は得意でも、
他人の感情に合わせて、自己の意志を駆使する事は至難。

教師に説教されて従う児童の少なさ、
教師に叱られて従う児童も少なく、

教師に怒鳴られて従うならまだまし…
説教も叱咤も怒鳴られても、全く従わない児童の多い事…

もっとも…
私の教員時代の、
私が勤務した私立学校との比較なので…
なんとも言えないが…

現代日本社会の教員達は、
なかなか真剣に怒鳴れない・怒れない、ようだ。

子供の教育においての、
教師のその子供への真剣な怒り・怒鳴りとは?

それは、
指導者・立派な大人としての人間性と
被指導者・未熟な小人としての人間性との、
ぶつけ合いであろう、
と私には思えてしかたない…のだが…

私には、それが
空手で言うところの
「約束組手」のように思える。


そんなこんなで…数日前も特別支援学級の担当児童ではなく、
交流に行った学級の児童の胸倉を掴んで恫喝してしまった。


それは、その児童が、私の目の前で
私の担当している児童を後ろから押して、
他の児童達にぶつけて迷惑をかけたにも関わらず、
その通常級の児童は、
自分の非を認めずにしらを切ろうとしたからである。

自分の意志で押したにも関わらず、
その事実を認めようとしない態度、

それは、私の人間性への否定であり、
彼の人間性・意志の否定でもあろう。

私なら、しらを切っても許される。
本当の事を認めなくても大丈夫。
そんな思い・甘えがあったのだろう。

小人が大人を、
児童が先生を、
舐めてしまう事は、
その子供の成長ににとっては、
大きなマイナスであろう。


それは、自らの感情の優先が認められ、
自分勝手・我儘な非社会性の始まり、
と言ったら大袈裟だろう?!

もっとも…
五・六年の思春期・直前の子供達なら別であろうが…





















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後悔と反省

2019-11-14 13:21:36 | 言葉・概念


後悔とは、(辞書によると)
自分のしてしまった事がまずかった事に気付いて、
しなければよかったと残念に思う事。

反省とは、
自分のした事を振り返って、
良い悪いかよく考えて、二度としないようにする。



後悔する事、そこには強烈な感情が…
反省する時、そこにどんな感情が?

特に快も不快も感じない、
普通事に反省は生じるだろうか?

習慣化している事に、後悔・反省は生じるか?

人が反省するのは、
自分のした事の結果に失敗を感じるから?!

では、感情なき反省は?


後悔すべき事を後悔しない者。
後悔はしても反省しない者。
何をやらかしても、後悔も反省もしない者。

「出来ない」とは、やろうとしてもやれない。
「しない」とは、やれば出来るのにやろうと思わない。

もっとも、
やれるのに、本人はやれるとは思っていない場合もあるが… 

人間以外の動物・生物に、後悔・反省はあるか?

後悔も反省もできる者。
後悔も反省もない者。
後悔も反省も出来ない者。
後悔も反省もしない者。

後悔はしても、反省しない者。
後悔はしても、反省は出来ない者。

人が後悔した時の、
その感情が強烈過ぎる時、
そこに、反省は生じ難いだろう。


有益な正しい「反省」には、
前向きなプラス方向の感情が必要だろう。

でも…人が「後悔」している時、
そこには、後ろ向きなマイナス感情が…


人の成長には、後悔が必要だろう。
軽い後悔なら、軽い反省だろう。

重く苦しい強烈な後悔なら、
強烈な反省だろう。

それでも、強烈な後悔に潰れ・潰されて
反省へと進めない時もあり得るだろう。


後悔すべき事に、気付かず反省ない時もあれば、
後悔がないのに、反省できる時もある。


後悔ない反省とは?


自分は成功・正しいと確信していても…
他人から指摘を正しく理解して、
自己の思い込みを排除して、
客観的視点から、
その事・結果を再考できた時、
そこに、自力では到達不能だつた反省が~





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自由についての気付き~

2019-11-07 12:59:43 | 悟りシリーズ

先ほど、ネットで「禅問答」サーフィンをしたら…

そこには、禅において、
仏性を悟る為の道として二通りある、書かれていた。

一つは、公案に書かれた禅問答を通しての自由自在獲得への道。
一つは、座禅を組み通す事での無我の境地獲得への道。

そんな事を読みつつ私はフッと気付いた。


今の私が自由に生きるとは?

それは、特別支援学級補助員として、自由に振舞える事。
それは、高3男子の息子の父親として、自由に振舞える事。
それは、一人男性社会人として、自由に振舞える事。


今の私が、時々勤務している学校で『不自由』を感じるのは…
補助員の私が、私自身に教員としての言動・行為を求めた時~
その瞬間に、私が教師ではなく、補助員だと痛感した時である。

犬は、犬の本能で犬として自由に生きられる。
しかし、
人が犬に猫を求めたら、その飼い犬には自由はなくなる、のだろう。
飼い主から、犬を求められた猫は、きっと不自由なのだろう。
もっとも、本能のままに振舞っている犬・猫が、不自由を感じる事はないが…


翻った我々人間にとっての自由とは?
人間とっての自由に生きるとは?


それは、時々の環境・状況・状態…に即して、
己の実体・身体と機能・認識の最大限のベスト状態の
創出・維持可能な言動・行為の選択なのだろう。


それは、社会的自由と個人的自由の統一、なのだろう。


授業中、
普通のクラスでは、殆どの児童は教師の言葉を聞き、
その行為を見詰め従っている。
しかし、
学級崩壊しているクラスの多くの児童は、自分勝手な事をしていて、
教師の言葉も行為も全く気にしていない。

その児童達の自分勝手とは、
その時々の自分の思った事・したい事をする、であり、
そこには、「自分勝手」という一貫性はあっても、
社会的・全体的な一貫性はない。


学校で求められるべきも、根本的か「勉強」とは~
それは、
個人的な自分の勝手な言動を、
社会的な自分の考えに即して、
自分で制御する事。


今の私が、不自由を痛感する事無く、自由に振舞えるには、
私の中の、教師的私を滅して、補助員的私を貫く事であろう。

言い換えるなら、
それは、私の児童達への想いの体現方法の変換である。

そう…既にあるモノを「滅する」の無理だろう。
だから、「滅する」ではなく「無視する」と言える。


教師的心を、教員的に体現する、のではなく、
教師的心を、補助員的に体現する。

それも、これも…

教師も補助員も社会的な職業だから、
なのだろう。

主観的には教師であっても、
社会的には補助員である…
今の私…

そこに、
非常なる不自由さを日々痛感している私でもある。










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