新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

表題は「?」

2018-08-29 12:42:50 | 言葉・概念

表題は何?
テーマは何?
私は何を書きたいのか?


初めは、「忘れる・忘れる事」としようと思った。
その理由は、最近の私は忘れる事が多いから、である。

その忘れる過程を見つめてみると、以下のような事が分かった。
例えば、朝、顔を洗うために洗面所に行こうとする。
入る前に洗面所が暗い事に気付き電灯のスイッチを入れる。
(この時、毎回入れたスイッチは切る事、と思うようにしている)

顔洗いが終わるとダイニングでの食事を想い洗面所を出る。
そしてダイニングの椅子に座って『さあ~食べよう!』と思い、
フット現実を見る、横の洗面所の明かりに気付き、
『しまった!スイッチの切り忘れだ!』…となる…
今日この頃である。


習慣的に「入る時に入れたスイッチは、出る時には切る」となっている筈…
なのに、出る時にスイッチの切り忘れとは如何に?


その理由の私的推論は以下である。
去年、二十年近く暮らしたマンションから父親の家に引っ越した。

以前の家では、この習慣が観念的・認識的な「入れたら切る」でなく、
現実的な「このスイッチ入れたら切る」に変質しているのでは?

観念化された習慣から行動であったモノが、
長年の同じ家での生活からパターン化された行動の習慣化となった。
それも一般的でなく、我がマンションの中での習慣化だったのかも?

でも…父親の家でも、洗面所を出る時に、スイッチに気付けば切ってる。
「スイッチに気付く」のが可能なのは、
私が頭脳の中の像=「さあ~食べよう!」ではなく、
今の目の前の現実を確り見ているからである。

そして、また私がこの事に気付けたのは、
日々の失敗=電灯の切り忘れ=電気の無駄遣いを痛感…、
洗面所に入る⇒顔を洗う⇒洗面所を出て朝食…

この過程の繰り返しの中で、消し忘れの過程を振り返り、
その振り返りを元に「洗面所に入る」という繰り返しの結果である。

こんな日々の現実的な失敗を振り返り、
そこから、技を「創ると使う」が連想され、
技の「変化と崩れ」も連想されている。

習慣とは、現実生活で役立つ、または必要な行動形式を習い、
それに慣れ、それを無意識的に可能にする事・可能になった物。

私の場合、過去のマンションでは無意識的にスイッチを切れた。
しかし、今の父親の家では、他の事を思ったり・考えたりして、
意識が次の行動・展開へ行っている時には、スイッチの切り忘れである。

それでも、慣れていない他人の家や場所ではスイッチの切り忘れは殆どない。
その理由は、慣れていない他人の家や場所では、
そこから出る意識がないと、そこから正しく出られない。
でる意識があればスイッチは、入る・入れる⇔出る・切ると観念としての習慣が発生する。

ここでの連想は、技と習慣、技と体操、技と技でないモノ、
最近、NHKのテレビ体操を健康維持と老化予防の為にやっている。
その繰り返しの中で、体操動作と武道空手技の習得過程に大きな相違にも気付けた。


そんなこんな事を思ったり、気付いたり、考えたり…して、
連想されたモノは、論理・論理能力であった。


こんな~あれやこれやで、
表題は「忘れる・忘れる事」とか、
つぎに、「技の創出と使用」とか、
または、「技の変化と崩れ」とか、
そして、「論理と論理能力」とか、

結局は一つに出来ずに「?」と決定した。


最後のおまけ~

ネットからの転写~

タイトルは、表紙に書く大きな字のことです。
テーマとは、そのレポートで中心になる話(言葉)のことです。

タイトルと、テーマの言葉は、使い分けますが、
中心になるテーマの言葉が、
そのままタイトル(題名)になることもあります。


タイトルは、「題名」「表題」という意味で広く使われている。
テーマは、「主題」という意味で使われる。

本や音楽など物事には何らかのテーマがあり、
それに基づいて既述あるいは作曲が行なわれている。


ほ~ほ~

上記の解説からするならば、

タイトル・表題は、決めかねても…
テーマ・主題は「悟りを求めて」ですかね。


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ヤッパリ可笑しい!

2018-08-26 16:46:56 | 弁証法


愚案君の「国民は国家の細胞論」はヤッパリ可笑しい!
以下は、談話サロン天寿堂からの転写である。



[2897] 大事な事は何か

愚按亭主 - 2018年08月21日 (火) 10時15分

というのは、本来国家の個々の成員すなわち国民の権利は、勝ち取るべきものではなく、当たり前のように守られるべきものだからです。人間の身体を想定してもらえば分かるように、個々の細胞が人権を主張して闘ってばかりいたらどうなると思いますか?日本の国家においては、天皇の臣民は、大御宝といって、とても大事にされました。これが本来の国家のあり方であり、国家第一主義のあり方です。







国民の権利が「当たり前のように守られて」いるモノなら、
誰が、何故にどうして「人権」を主張するだろうか?


彼の「国民が国家の細胞論」からすると…
細胞の癌化は、細胞の反抗・反乱で、その病化の責任は細胞だろう~
本当は、その人の認識・頭脳の生活・生き方が拙かった為なのに…

国民は国家の細胞論を展開するのに、
細胞は頭脳の統括下であるという条件を失念するとは、
これは、全くもって非学問的な論説と言えよう。


国家第一主義について…

革命によって誕生した新国家が、多くの国民の為のモノたり得た時、
それは多くの国民が、現国家を否定し「新・国家誕生第一主義」
だったから革命が可能だったのだろう。

愚案くんの「国家第一主義」には、現実の現国家が忘却されている。
それもこれも、絶対的観念論者たる彼には理想的人倫国家だけが国家であり、
他の国家は、国家たり得ないのだろう。


それは、現実界での精神は、
普通精神と絶対精神との混合体である事が分からない。

唯物論には唯モノ論と唯物論がありえる事も分からない。
分からないというより想定不能であろう。

それもこれも、
絶対的観念論は絶対的真理だ!との思い込みからであろう。






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「老いゆく」事~

2018-08-26 16:08:57 | 言葉・概念


15年と9ヵ月、大型犬としては…
超長生きだった愛犬のゴールデン・レトリバー~

奴は~
川泳ぎ大大大好きだったのに…ある日を境に川に入らなくなった。
頭を上げ尻尾ふりふりの散歩も、気付いたら、どちらも垂れて歩いていた。
滑り台の階段側からの登りも、
「ワォー」と雄叫び上げてのボール追いも…
いつしか全く見られなくなった…

そして、ついにある日、奴は歩けなくなり、
寝たっきりで餌も食べなくなった。
そしてついにある日、一言の叫びをあげて逝ってしまった…


89歳の父親にも、同じような「老い」を視てしまう。
昨日まで覚えていた事が、今日は忘れてしまっている。

昨日、脳内科の医師から
「この人(私を指して)誰ですか?」と聞かれて、
父親は「従兄弟」と答えた。

また、「この人(私の家内)は?」と聞かれて、
父親は、「姪っ子」と答えていた。

なんと息子とその嫁が分からない!
とビックリしたが…

しかし、よくよく考えると、息子とその嫁と認識していても…
息子・嫁、または、子供・奥さんという言葉を忘れているのかも…

私・家内に対しての概念的把握はあっても…
その概念を表す言葉を忘れてしまっていては相手に伝えられない…


まあ~そんな事はよい!として…
動物・人間にとって老いてゆく事は必然である。
それでも、自然界の動物は、死ぬ瞬間まで、動物=動く物たり得る、のだろう。
しかし、忘れてしまう人間は、動く事・動き方を忘れてしまう、ようだ…

動けても、動きたくない面倒だ!
面倒だから忘却しよう!
そんな感じで、歩く事を止めてしまうのかも…

動物・人間にとて「老いてゆく」のが必然であっても、
その「老いてゆき方」、老いてゆく過程のあり方は十人十色である筈だ。
それは、人間が認識的実在である、からだろうが…


身体・実体は老いていっても、認識・精神は若くありたいモノである。
認識・精神は機能であるから、身体・実体が老いれば、それなりに老いてゆく…
それでも、実体と機能は、相対的独立関係にあるだろうから…
機能を技化し、その技を保持し続ける事が可能ならば、
身体・実体は老人でも…認識・精神は若者!も可能なのだろう…

その為の方法は?
それは、
技の創出・使用、そして技の保持の問題であろう。

創り創られるのが人間ならば、
年老いてゆく己の中に、年若い己の創出を~であろう。

「老いてゆく」事は、今まで通りの考え方・やり方を続け、
「若く幼い」事は、考え方・やり方を習得・修得し続ける。

「幼く若い」とは、身体・実体を使いながら、使い方・考え方を創っている。
「年より老人」は、認識・精神を創る事も使う事もなく、
敢えて、考える事無く、習慣的に身体・実体を使っている。


技を、新たに創る事無く使い続けるから技が崩れてゆく、
そうであるから…


ここは、技の使用・駆使は避け難いだろうから、
そこは、使用・駆使の中に創出を求めよう。

そこで、最近の私が心がけているのは、
手の小指と足の踵の意識的使用である。


モノの持ち方・立ち方の形は同じでも、
今までなかった小指・踵を意識する事は、
身体・実体を使いながら、認識・精神を創る働きである。


ここで、意識・認識を創るは言えても、
更に、精神を創ると言える理由、
それは、一回だけではなく、
その意識・認識を続ける努力をする事で、
出来ない事・違和感ある事・嫌な事を
やり続ける精神の養成・創出があるから…である。







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 学問について…

2018-08-26 14:37:20 | 言葉・概念


学問とは、
先ずは「学びて問う」モノ、
最終的には、体系的理論的な認識として完成されるモノ。


天寿堂の愚案亭主は、
掲示板「談話サロン天寿堂」で
「そもそも人権という概念は非学問的概念」
と言い切っている。

これは真理なのだろうか?
正解は二通り!
愚案亭主にとっては真理、
普通の人にとっては非真理、
である。

絶対的観念論者の愚案亭主にとって、
人権という概念は、既にあるモノ・完成されているモノ。

でも弁証法唯物論者にとっては、
人権という概念は、時代とともにに形成されていくモノ。
それは、人類の進化・文化発展とともに変化・形成されていくモノ。

哲学は時代の哲学であり、学問も時代の学問である。
過去の学問は、その時代の学問であっても、
現代では学問とは言い難い事も有り得るモノ。



そもそも愚案亭主が、人権を非学問的とする理由は、
国民一人一人が「人権」を主張するなら国家は成り立ちがたい…
という理由だろう…


国民が人権を主張なら、国家は、その人権を尊重しつつ、
国家の目的達成を目指せばいいだけであろう。

それは国家・指導者の手腕次第であろう。
なのに国民の人権思想を否定する事で国家を保とうとする事は、
己に政治的手腕がない事の証明であろう。


人間にとっての人権は、初めからあるモノ・あったモノではなく、
世界歴史の進化・推移・変化…の過程で、
弱者が自らの努力で、強者から獲得したモノであろう。

それは、対等な人間として扱われなかった人々が、
自ら闘い勝ち取ったモノであろう。

その勝ち取った人権に対する理論・論理的解説は、
その時代・時代の言葉でなされる、のだろう。

「人権」と言う言葉は同じでも、
その中身・内実は時代時代によって変わっている、のだろう。

その時代の人権の解説・説明は、時代の説明・解説であっても、
それを、人権の概念と言い切ってはマズイのだろう。

概念と説明・解説の違いは?
概念とは、そもモノ自体・実体を表し、
説明・解説は、そのモノの現象形態の表現…かな?!

愚案くんの尊敬しているヘーゲルも、どこかで書いているらしい…
「ない」から始める事はでき「ない」。
全ては「ある」から始める事で「ある」。

世の中「ない」事は「ない」からであり、
全ては「ない」事が「ある」から始まる、のである。


「人権概念」が非学問なのではなく、
愚案くんの概念が学問になり得ていない、のであり、
それは、
人権概念が、非学問なのではなく、
学問がない愚案くんだから、
非学問と見えているだけのモノである。



それは、人権の概念が非学問的概念なのではなく、
愚案くんが、人権を学問的に概念化し得ていないだけであろう。


学問的概念化には、
人権がなかった時代から、
人権が発生・形成されていく時代、
更に小集団のから社会のへ、
そこから国家の人権へと変化・発展していく過程の
全てが視て取れて、やっと可能なのだろう…









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「思う」と「想う」について…

2018-08-17 15:12:38 | 言葉・概念


思う~

意味 :自分の脳の中で感じる心。
使い方:美味しいと思う、自分の思い通り、やっとの思いで…

『思』という漢字は「田」と「心」から成り立っており、
「田」の語源は「(子供の)脳」です。

したがって、「思う」=「自分の脳の中で感じる心」を意味します。

「田」を使った四字熟語で「我田引水」
(他人のことを考えず自分に都合がいいように言ったり行動したりすること)
といった使われ方もしますよね。

自分が感じることなので、
図で表すと「→→●←←」のように矢印は自分自身に向きます。

『思』を使った漢字に「思考」「思案」「意思」などがありますが、
これらは全て自分の脳で考えていることです。

「(自分は)こうだと思う。」「(自分は)そうは思わない。」など、
自分の意見や自分が感じたことに『思う』を使います。



想う~

意味 :相手を想う心。感情が込もった “おもい”。
使い方:相手を想う気持ち、故郷を懐かしく想う、愛する妻を想う…

『想』という漢字は、「相」と「心」から成り立っていることから、
『想う』=「相手を想う心」を意味します。
感情を込めたい時やある対象を想像して思い浮かべる時に使います。


相手を想う感情が込められているので、
図で表すと「●→→→→」のように矢印はその対象に向かいます。

『想』を使った漢字には「回想」「空想」「理想」などがありますが、
これらは全てある対象を想像(イメージ)して思い浮かべていますよね。


「好きな人を想う」「故郷の母への想いを伝える」「片想い」…といったように
『想う』は思慕(しぼ)の情や恋焦がれる気持ち(愛情)など、
自分の感情をより強く伝えたい時に使うと良いでしょう。



「思う」と「想う」の違いを知る事で、
自分の頭の中で、
二重の「おもう」をイメージできる。

これは、「おもう」の意味を「思う」と「想う」の
二重化する為の第一歩であろう。


さっきまでの私は「思うと想う」について想い…
そしてネットで「思うと想いの違い」を検索した…

そして今の私は「思うと想うの違い」を思っている。

そんな私~

想うを思い、
思うを想い、
想うを想い、
思うを思う。

そして
「思うと想うの違い」を想い・思っている私である。





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