表題は何?
テーマは何?
私は何を書きたいのか?
初めは、「忘れる・忘れる事」としようと思った。
その理由は、最近の私は忘れる事が多いから、である。
その忘れる過程を見つめてみると、以下のような事が分かった。
例えば、朝、顔を洗うために洗面所に行こうとする。
入る前に洗面所が暗い事に気付き電灯のスイッチを入れる。
(この時、毎回入れたスイッチは切る事、と思うようにしている)
顔洗いが終わるとダイニングでの食事を想い洗面所を出る。
そしてダイニングの椅子に座って『さあ~食べよう!』と思い、
フット現実を見る、横の洗面所の明かりに気付き、
『しまった!スイッチの切り忘れだ!』…となる…
今日この頃である。
習慣的に「入る時に入れたスイッチは、出る時には切る」となっている筈…
なのに、出る時にスイッチの切り忘れとは如何に?
その理由の私的推論は以下である。
去年、二十年近く暮らしたマンションから父親の家に引っ越した。
以前の家では、この習慣が観念的・認識的な「入れたら切る」でなく、
現実的な「このスイッチ入れたら切る」に変質しているのでは?
観念化された習慣から行動であったモノが、
長年の同じ家での生活からパターン化された行動の習慣化となった。
それも一般的でなく、我がマンションの中での習慣化だったのかも?
でも…父親の家でも、洗面所を出る時に、スイッチに気付けば切ってる。
「スイッチに気付く」のが可能なのは、
私が頭脳の中の像=「さあ~食べよう!」ではなく、
今の目の前の現実を確り見ているからである。
そして、また私がこの事に気付けたのは、
日々の失敗=電灯の切り忘れ=電気の無駄遣いを痛感…、
洗面所に入る⇒顔を洗う⇒洗面所を出て朝食…
この過程の繰り返しの中で、消し忘れの過程を振り返り、
その振り返りを元に「洗面所に入る」という繰り返しの結果である。
こんな日々の現実的な失敗を振り返り、
そこから、技を「創ると使う」が連想され、
技の「変化と崩れ」も連想されている。
習慣とは、現実生活で役立つ、または必要な行動形式を習い、
それに慣れ、それを無意識的に可能にする事・可能になった物。
私の場合、過去のマンションでは無意識的にスイッチを切れた。
しかし、今の父親の家では、他の事を思ったり・考えたりして、
意識が次の行動・展開へ行っている時には、スイッチの切り忘れである。
それでも、慣れていない他人の家や場所ではスイッチの切り忘れは殆どない。
その理由は、慣れていない他人の家や場所では、
そこから出る意識がないと、そこから正しく出られない。
でる意識があればスイッチは、入る・入れる⇔出る・切ると観念としての習慣が発生する。
ここでの連想は、技と習慣、技と体操、技と技でないモノ、
最近、NHKのテレビ体操を健康維持と老化予防の為にやっている。
その繰り返しの中で、体操動作と武道空手技の習得過程に大きな相違にも気付けた。
そんなこんな事を思ったり、気付いたり、考えたり…して、
連想されたモノは、論理・論理能力であった。
こんな~あれやこれやで、
表題は「忘れる・忘れる事」とか、
つぎに、「技の創出と使用」とか、
または、「技の変化と崩れ」とか、
そして、「論理と論理能力」とか、
結局は一つに出来ずに「?」と決定した。
最後のおまけ~
ネットからの転写~
タイトルは、表紙に書く大きな字のことです。
テーマとは、そのレポートで中心になる話(言葉)のことです。
タイトルと、テーマの言葉は、使い分けますが、
中心になるテーマの言葉が、
そのままタイトル(題名)になることもあります。
タイトルは、「題名」「表題」という意味で広く使われている。
テーマは、「主題」という意味で使われる。
本や音楽など物事には何らかのテーマがあり、
それに基づいて既述あるいは作曲が行なわれている。
ほ~ほ~
上記の解説からするならば、
タイトル・表題は、決めかねても…
テーマ・主題は「悟りを求めて」ですかね。