新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「誠実」について~

2022-05-21 13:58:53 | 悟得びと語り
「誠実」について~


以下のようなコメントを頂いたので、
改めて「誠実」について考えてみる事にした。



▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
続・「対立物の統一」的に考えるなら~

……前略……


>自由びとさんの「学問への道と学問の道」という文言からは南郷先生への思慕・敬愛が読み取れますが、私が述べた「学問の誠実さ」とは5W1Hには直接は入っていませんけれど「誰に?」「誰への誠実さか?」ということが基礎となっています。
つまりは英語でいう「to whom?」ですけれど、それが自由びとさんの場合は「to Tsugumasa Nangoh」なわけで、私が考える誠実さとは「to everyone=全ての人に!」なわけです。

……後略……


▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
割り算に想う~

・コメントを書いた人
一村隆滝


・コメント
私としては誠実なコメントを送り続けているつもりですが、自由びとさんからの返信、若しくは反応が見られないのは残念ですね。

……後略……

誠実とは、辞書によるならば~
誠実―真面目で、嘘をついたりしない事。
誠を持って相手の事を考えながら行動する事。
「例解新国語辞典(第四版)」。

誠実とは、「真面目」、「嘘をついたりしない、「相手の事を考える」…


そもそも…
真面目な人間が自分の事を「真面目」と思うだろうか?
その人が本当の事だと思っている事は、その人にとっては「嘘」ではない筈…。

自分で自分の事を「誠実」だと思い込んでいる者は、本当に「誠実」者なのか?
自分で自分の事を「不誠実」だと思い込んでいる者は、本当に「不誠実」者なのか?

他人の事を「不誠実」者だと、決めつけている人物は、「誠実」者なのだろうか?
全ての人に、とって「誠実」だと思えるような事は、あり得るのだろうか?

他人のブログに自分の個人的な見解を一方的に、コメントし続ける行為は「誠実」なのだろうか?


ネットの記述だけで~「その者の真心」が分かるのだろうか?
リアル・現実界で知らない者のネット記述を、その言葉だけで「嘘」と決めつけ…よいのだろうか?


結論としては、
相手のリアルな現実の人物像全く知らないのに…
軽々しく「誠実」・「不誠実」という事を多用する者は~誠実な人物とは言い難い。

その理由は、真に大人として誠実な人物なら、
その事(誠実・不誠実)に確証・確信がない限り、そのようには言わない・書かないモノであろう。


即ち、相手が現実生活で「不誠実者」である確信・確証。
また、相手の言葉が、相手の現実でも虚偽である確証・確信。


主観的な自分の事実・真実は、
必ずしも客観的な他人の事実・真実と一致するとは限らない…


こんな簡単な事も分からない・思わない・考えない…で、
「誠実」という言葉を多用できる、この一村御仁が書いている
以下の言葉↓

「学問の誠実さ」・「全ての人への誠実」・「誠実なコメント」という言葉~


この言葉の中身とは、どんなモノであろうか?
それは、一村氏の全てのコメントに現れている?!

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ビューティフルワーズ

2022-02-16 15:50:19 | 悟得びと語り



先日、ラジオから「ビューティフルワーズ」と題して、
以下のような言葉が流れてきた。

「こんな事が何の役に立つのか!? 」と思うより、
「こんな事も出来ない自分が何の役に立つのか?!」と考えよう。

この言葉は私の心に響いてきた。

普通、人が「こんな事が何の役に立つの…」と思う時、
そこには、『こんな事やりたくない!』という感情があろう。

普通に考えて『自分が心からやりたくない事をやるのは非常にキツイモノであろう』
そんな時、「こんな事も出来ない自分が何の役に立つのか?」と自分に問いかけたなら…

もしかして…「やりたくない事だから役立たない」と考えたい、のか?
「こんな事も出来ない自分だから、何もできない…役立たない自分なの…」


こんな事もこんな物も…
それを役立つようにする・使うのは、その人の意識・認識である。

現実として絶対に役立たないモノ・コトはない。
役に立たないと現象するモノ・コトとは、
それらに関わっている人間が、それらを役立てられない…だけであろう…


モノ・コトに良いも悪いもない。
それら良し悪しは、人間の認識が決めたモノに過ぎない。


例えば「帯びに、短し襷に長し」…というような「布」があった時~

それを大人用にと思ったなら「帯に短し、襷に長し」であろうが…
子供に使うなら、帯なら一、二本、襷なら四、五本になり得る役立つ布となり得るだろうに…




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「ある」の多重性

2022-01-08 12:16:24 | 悟得びと語り

「ある」には、

そのモノ自体がある。
そのモノがある場所・状態にある。


例えば、犬が吠えている。
これは、ある特定の「犬」が、
「吠えている」状態にある。

「犬」という言葉・概念は「ある」。
しかし「犬」という事実は「ない」。
それでも、「犬という言葉がある」という事実が「ある」。

犬は「ある」が、犬は存在し「ない」…と言える。

これは、論理と事実の区別と連関であろう…
「ある」と「ない」はコインの裏表。

「ある」を見れば「ない」は見えない。
「ない」を見れば「ある」は見えない。

「ない」が「ない」なら…コインはないから「ある」もない。
それでも…「コインがない」状態がある。


私の存在があるから、世界がある。
私がいなくなっても、私のいない世界はある。

全ては、あると同時にない。
全ては、無限定・無条件なら「ある」モノ。
しかし、限定・条件しだいでは「ない」モノ。

ある視点なら「ある」モノでも…
別の視点なら「ない」モノになる。

俯瞰してみれば「ある」。
俯瞰してみても「ない」。
それでも、更なる「俯瞰」なら「あり得る」。


ここに、コメントを寄越す「お宅」は、たぶん「お宅の視点・観点・俯瞰」から「ない」との否定である。
それは「お宅は」には、お宅の「視点・観点・俯瞰」が全てで正しい…と信じ切っているからのだろう。

「全ては疑いうる」とは、
己の信じるモノも「疑いうるなら、
己の信じないモノも「疑いうる」であろう。

「現象論・構造論・本質論」から、

個々の「本質」はまちまち。
全ての「本質」は一つである。

個々の構造はまちまち。
全ての構造は一つである。

個々の現象はまちまち。
全ては一つの現象として現れている。


一つ一つもあれば、まとめて一つもある。



普通でない人の普通は、普通の人にとっては普通ではない。
普通の人の普通は、普通でない人にとっては普通である。

異常者の異常は、正常者の正常。
正常者の異常は、異常者の正常。


これは、条件・状況しだい…であるが…







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「ある」も『ある』・「ない」も『ある』

2022-01-04 21:17:41 | 悟得びと語り



ここに、犬の置モノがある。
ここに、犬の置モノがない。


ここに「犬の置モノがある」状態がある。
ここに「犬の置モノがない」状態がある。

ここに「モノがある」
ここに「モノがない」

ここに「モノがある」状態がある。
ここに「モノがない」状態がある。


「ある」とは「ある」という状態がある。
「ない」とは「ない」という状態がある。


「ある」の「ある」はある。
「ない」の「ない」もある。

(+)×(+)=(+)
(-)×(-)=(-)

という事なのだろう…

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「武道」について…

2021-12-28 14:32:23 | 悟得びと語り


武道とは、武技を用いて生命を賭けた勝負の道…と南郷氏は定義・概念規定している。



「定義」 という表現は、 「ある物事の意味・内容を他の物事と区別できるように、言葉で明確に説明して限定 (規定)すること」 や 「ある用語・事物の意味を、言葉 (数式も含む)ではっきりと規定 (説明)すること」 を意味しています。 論理学における 「定義」 の意味は、 「概念の内包 (概念内部に包摂される意味)を明確にして、その外延 (意味するものの限界)を確定すること」 になります。


「定義」は「ていぎ」と読みます。

意味は、「ものごとの意味や内容を、他と区別できる様に、明確な内容を述べて限定すること」になります。

「概念」は「がいねん」と読みます。

意味は「ものごとの大まかな意味や内容のこと」「倫理学で、ものごとの本質をとらえる思考法」になります。

「定義」は、「ものごとの条件を限定して言葉に表すこと」です。

「概念」は、「ものごとの本質的な考え方や内容に対する共通認識のこと」です。


さすれば…
武道の概念は「武の道」となろうか…
武道の定義が「武技を用いて生命を賭けた勝負の道」となろうか…

まあ~ここでは「定義」と「概念規定」の相違が問題ではないが…
上記の解説では、私には…今ひとつ意味不明である。


ただ言える事は、概念と概念の言語化の相違であろうか?
「概念」とは、己の頭脳内の対象の姿形・認識であろう。
それは、言うなれば、頭脳内の変化・運動性を持ち得ている観念的な認識像…?
それを言語化する時、当然にその対象の己の概念像を規定する必要が生じる…?
さてさて…そのような事は、私の妄想という事で…次へ進もう!


武道とは「武技を用いて」「生命を賭けた」「勝負の道」…
と聞くと「生命を賭け」即「殺し合い」…と連想する者がいて…
それなら「武道とは殺人者へ道」と思い込む事だろう…

しかし、「自分の生命を賭ける」事は、直接に「相手を殺す」事にはならない…

そうそう…
以前に「人を殺せば死刑になれる」と言って、電車内の無関係な人々を殺そうした者がいたが…
その者は、自分の生命を賭けて人を殺そうとした訳ではない。
自分が死刑=殺してもらう為に、人を殺そうとした…


そもそも…「勝負の道」に必ずしも「生命を賭ける必要はない」…
人殺しが、他人を襲う時に、襲ったら逆に殺されそうな人間を狙うだろうか?
人殺しが、自分の生命を賭けて、他人を襲うだろうか?
そもそも…人を殺す事が「勝負の道」なのだろうか?


己の弱さの克服の為に武道にすがる者は、
何も…他人を殺せる武技を求めてはいない。
求めるモノは
「自信ある己」、
「闘いで勝利を求めるならいつでも獲得可能な己」、
「いつでも・どのような状況でも理不尽な事に意見を言える己」、
「『やろう!』と思えば実行可能な己」、


「生命を賭けられる」強さは、「人を殺す」事でも「人を殺せる」事でもない。
「勝負の道」は、決して「人を殺して勝利する道」ではない。
「武技を用いる」事も、決して「武技で人を殺す」事ではない。


南郷氏の「武道の定義」の裏にある…
「強靭な人間的な精神の養成」…
「勝負に人間的に勝利する道程」…
「人間的な武人としての武技と使用法の体得」…

そのようなモノが読み取れない…のだろうか?


この「人間的」しとは、南郷氏の説く・説いている…
理想的な「人間像・人間論」的な、人間を目指し、
そのような己の創出を目指し果たそうしている人間であろう…


そもそも…
「人を殺したい者」には、武道の習得は不要!
相手に、凶器を用いて、襲い掛かれば終了!





コメント (2)
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