新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

言葉で考える?

2020-10-28 11:53:32 | 認識論
言葉で考える?


昔昔…そう~
三十代の頃、私は『言葉で考える』と思っていた。

その後、師範の
「人は、言葉ではなく、像で考える」という言葉に出会って、
『きっと!そうに違いない!』と信じるようになった。


今ここに、
「言葉で考えるとは?」と「像で考えるとは?」について
思った事・考えた事を言葉で書いてみる事にした。


例えば、道で突然に見ず知らずの人から
「輪っと隊務伊豆一都綯う?」と声を掛けられた時…

私は、『???』と思うだろう。
それを言葉にするなら
「この人!何を言っているの?」となろう。

「この人!何を言っているの?」は言葉である。
でも、この言葉を発する前には、私の頭脳の中には、
この言葉の元になる像がある。

それは視覚の映像ではなく、「思い」像=感情像であろう。
「輪っと隊務伊豆一都綯う?」と言う言葉を、
理解できないという感情像。


人間の認識は「五感情像」である。
それは、視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚からなる五感情像。

『言っている言葉がからない』とは、
聞いた言葉を、像に変換できなかった、という事であり、
この「言葉なのに像に変換できない事」が「分からない」という像である。

より正確には、
言葉を像に変換したいのに、
それが、どうやっても出来ない。
となろう。

「言葉が像にならない、ああ~そうですね!」では、
「分からない像」も「分からない」という言葉もでない。

これは、五感情の総合像であり、
統一・総合的な感情像である言える、のだろう。


「輪っと隊務伊豆一都綯う?」

「ワット・タイム・イズ・イット・ナウ?」

「What time is it now ?」

「今は何時ですか?」


そうです。
「人は言葉で考える」のが真実なら、
英語を知らない人でも、英語を聞いて考えられる筈である。

もっとも、初めからその言葉が日本語でない、と分かっていれば、
この言葉の意味は日本語ではどうなるの?と考える事は可能であるが…


人は、自分が理解できない言葉を使って考える事はできない。
人は、言葉を理解できて初めて、その言葉で考える事ができる。

この時の言葉で考えるとは、その言葉を理解して、
その理解した像を元に考えている、という事である。


なので、その言葉の意味・概念…理解が異なっていれば、
その考えた結果も当然に異なってしまうのだろう。


誰かさんのように「思う」も「考える」の同じ!
「思うと考える」を合わせた「思考」も同じ!


なんて…そんな調子なら、
その者の頭の中の聡明も馬鹿も阿保…
全部が全部同じで一緒なのだろう。

全部が漢字二文字で書かれた同じ言葉なのだから…




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「運動と静止」について…

2020-10-10 13:28:46 | 認識論



「運動」も「静止」も言葉である。
どちらも、物・物体・実体のある状態を表現した言葉。

歩くのが運動ならば、
立ち止まるのは静止。

全力疾走も散歩も運動であるが…
この二つを同じ運動と表現していいだろうか?
「運動」で間違いはない、だろうが…

両者の運動強度・激しさには、大きな差…


歩行は「動く」に対して立ち止まるは「静止」。
しかし、人間は立ち止まっていても、内臓・血液・瞼・眼球…は動いている。

これは、全体的には「静止」と見えても、
個々の部分は運動している、という事である。


ここで、
歩行という位置の変化を「運動」とするので、
歩行から停止への状態変化も「運動」として表現できようか?


等速運動が、加速度運動に変化した時、
これは、等速運動という性質が、加速度運動という性質に、
変化した事になる。


変化とは、あるモノが別のモノになる・変わる事。
運動とは、その位置が変わる事。


変化も運動も同じ「変わる」である。
ならば、変化と運動の違いは?



変化はゆっくりした動き、運動は激しい動き、
どちらも「運動」と表現してもよい、のだろう。


さて…結お宅の以下のコメントによると、
>私は南郷さんの「乱取り、自由組手=運動、型=静止」という発言がどうにも理解できなかったのです。<


師範は、「自由組手=運動・型=静止」と表現している。
そして、結お宅は、その言葉を「どうにも理解できなかった」そうである。


この言葉の理解・解釈は、それ程に難しくない。


自由組手の動作は、相手の動作に即しての不規則的変化である。
それに対して、型は、型通りの全く同じ動き・動作を求めている。


このように
自由組手の不規則運動=運動、とするなら、
型の規則的運動=静止、と表現している、のである。



上記の師範の言葉を
結お宅が、「どうにも理解できなかった」のは、
「自由組手=運動・型=静止」という言葉・文字だけを見て、
現実の「自由組手と型」というモノから理解しようしなかった、からである。


これは、
言葉の相対性、
相対的な言葉表現、

言葉の弁証法的理解、
言葉の弁証法的解釈、
言葉の弁証法的把握、

が出来ないから…であろう。









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量質転化の目的論

2020-10-04 12:49:06 | 弁証法

量質転化の目的論


量質転化とは、量の増加の結果、質が変わる、という事。

練習・訓練の結果、上達する、という事。


前前回の「量質転化化の二重性」で
「歯磨き」についての量質転化化を取り上げたが…

そこでは、
量質転化化の目的の問題が
考えられていなかった。


歯磨きの量質転化化の目的には、
大きく以下の三通りが考えられる。


歯磨きの「習慣化」の量質転化か、
歯磨きの「磨き方」の量質転化か、
口腔内の「状態変化」の量質転化か、



「習慣化」なら、朝だけ、朝と夜、朝昼晩、または食べたら歯磨きの選択。
「磨き方」なら、色々な磨き技から基本的・効果的な技の選択。
「状態変化」なら、磨き技の効果的な使用法の選択。


別の視点からは、
歯磨きを、何時、どの様なやり方で、何処に対してどのように使うか、という事。

歯磨きの目的が「虫歯予防」であるなら、
究極的には、虫歯になり難い口腔内の状態の維持であろう。

それは、口腔内での虫歯の原因除去である。
その為には、何かを食べたら必ず歯磨き。
それも歯・歯茎を傷めず、口腔内の全ての食べカスの除去。
それには、歯の表面、舌の表面、歯の間…の食べカス除去であろう。



量質転化化での最重要課題は、
正しく適切な目的設定であろう。

例え、歯磨きの習慣化が量質転化化できても、
その、磨く時、磨き方、磨く場所、が正しくないなら、
結果的に口腔内の状態変化は得られず、
頑張っても、虫歯になってしまう…


なんて、骨折り損の虫歯儲け…であろう。


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書く事は考える事とは?

2020-10-04 12:06:46 | 想い思い考える
書く事は考える事とは?



「書く事は考える事」とは、師範の言葉であるが…

「考える」とは?
「書く」とは?
何をどのように書く事が、考える事になるのか?


そもそも…
書くとは、何かを言葉・文字にする事。
その何かとは、見た・聞いた・感じた何かの物・事。
それは五感で感覚した何かの物・事。

この感覚した物・事には、
現在感覚している物・事と過去に感覚した物・事がある。


「物」なら名前を書ければ表現できるが…
「事」となると、その言葉が問題である。


今、食べている物ならば名前で書ける。
その食べ方は、となると「箸で取って口に入れて噛んで飲み込む」…。
しかし、これが正確な今の私の「食べ方」になっているか?

私が、「今の私の食べ方」を書こうとする時、
既に、「今の食べ方」は「さっきの食べ方」になっている。
「さっき」の食べ方は、既に現実になく、私の記憶の中である。


ここから言える事は、
外界を書く・文字化するには、
外界を一度記憶し、その記憶を想起して文字化する必要がある。

何故なら、何かを感覚すると同時に書く事はでき難い…から。


外界・対象を正しく記憶するには、
対象を正確に五感で感覚する必要がある。


外界・対象を五感で感覚して、
脳内に五感情像を描く事を「認識」と言う。

正確に「何か」を書くとは、
その言葉・文字の内容が、
「何か」と正確に一致しているかの確認・検証が必要であり、
その確認・検証には、どのように確認・検証すべきかを「考え」、
その確認・検証の結果が、書いたモノと異なっていたのなら、
どうして、何故異なっていたかを「考える」必要が生じる。

このような「書く事は考える事」の解釈があり得るが…。


また、以下のような解釈もあり得る。


師範言葉に、「考えるとは、止めた像を動かす事」がある。


この「止めた像」とは、「思っている像」であり、
「思う」とは、普通は変化・運動している認識を止めて、
その止めた像を見詰めている状態である。


何かを書く・言葉にするには、脳内の何かを見詰める必要があり、
その何かを見詰めるには、脳内の運動・変化している認識を止める必要があり、
止めたら、それを見詰めて文字化する。


ここで、「記憶の想起」と「像を止める」と関係を考えるなら、
「記憶の想起」には。自然と意識的な想起があり得る。


何かを書こうと思いたって、
自然に想起してきた部分を、
繋げていく事で、なかなか想起できなかった部分が、
浮かび上がってくる事か多々あり得る。


想起の為には、先ずは思う事。
それも正しく思える事。

正しく何か「思う」には、
その何かに関連するだろう諸々事の全てを想起する必要がある。

全てが全て一度に想起されれば問題はないが…
普通は「芋づる式」に…であろう。


「芋づる」は、芋の生長に合わせた伸び方であるが…
記憶の中の事実の関連は、
その人物の個性で決まっている部分も大きい…
これはこれで、記憶の中の事実と現実の事実の相違が問題化する。


さてさて…
ここまで、「書く事は考える事」について、
思い・考え書いてきたが…


果たして正確な想起が出来ていたか?
正しく像を止められていた?
止めた像を見詰められていたか?
止めた像を動かす事が出来ていたか?






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