新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

0×0=?

2022-06-22 16:51:01 | 悟得びと算数・数学




< 0はなぜ何をかけても0になるのか?ゼロの掛け算について|アタリマエ! (atarimae.biz) >

以上のサイトを参考に「0×0=?」について考えた。

そもそも…算数での「0」とは、とのような場合であるか?

[ ](箱)とするなら、
[ ●  ]とは箱に●ひとつ、[● ●]は、箱に●ふたつ、[●●●]は箱に●みっつ…

では、●が0個とは、[   ]であり、箱の中に●がない、
また、[〇〇〇]であっても、箱の中に●を求めるなら、●は0個、であろう。

算数の「0個」とは、目的とする物が0個であり、何もない…とは限らない。

目的物以外のものがあっても、目的物は「0」個もとなる。

「3×0=?」


初め見た時、机の上に[●●●]が、あった。
次に見たら、机の上に[●●●]は、なかった。

この場合は、現実的には、
ひとつ、机の上のその場所には、何もなかった⇒「0」と。
ふたつ、机の上には、別のモノがあるが●はない場合の「0」

これを数式にするなら、
初めは、●が三個入っている箱がひとつ、あった⇒3×1
次に見たら、●が三個入っていた箱がない、⇒3×0、となろう。


では、「0×3=?」、

ひとつ、[    ][    ][     ]てあり、空箱の中に●なし、がみっつ、
または、[〇〇〇] [〇〇〇] [〇〇〇]の場合に、箱の中に●を求めるなら、〇はあっても、●はない。

では、0×0=?


初めは、[●●●][●●●]⇒3×2  
つぎは、[●●●]⇒3×1
そして、[     ]⇒3×0(●が三個の箱がない)
次に、???…箱もなくなったなら、「0×0」


初めから[      ][     ]⇒●がない、空箱がふたつ⇒0×2
次に、[     ]⇒0×1、
そして、 ??? 空箱も無くなった⇒0×0=何もなくなった。

0×0とは、ある状態の変化の結果を数式で表す時に生じるモノ。
そこに初めから、何もない状態で「0×0」とは書き得ないのだろう。

では、足し算で考えてみよう。

[●]、[●●]、●一つ箱一つ、●二つの箱一つ、
箱は1+1=二つ、でも、●は1+2=3個。

[  ]、[  ●]、⇒箱は1+1=2、●は、0+1=1、

[  ]、[   ]⇒箱は1+1=2、●は、0+0=0、

そして、[   ]⇒箱は1+0=1、●は0+0=0、
最後は、??   箱も●もなし…0+0=0、


「0」or 零についての定義・概念は、以下のサイトを参考にするとよい、でしようね♪

<意外と知らない「ゼロ」の持つ意味と概念―あなたも「ゼロ」という数字から、知的探求、始めてみませんか?- |ニッセイ基礎研究所 (nli-research.co.jp) >

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悟得びと的「禅・公案の正解」

2022-06-16 11:59:02 | 禅問答・公案

以下は、去年の今日に、書いた自由びと的な「禅問答の正解」である。
そして、「禅問答の正解」の下の続編記述が悟得びと化している今日の私「禅・公案の正解」である。

このような正解を得られた理由は…

この一年間の実生活での「私の認識・内実の変化」と
今回の「自由学藝 第三号」の付録「2006年秋季関西例会レポート」を読んでの相互浸透の結果であろう。




禅問答の正解… 2021-06-15 19:11:16 | 禅問答・公案

ここ数日間、
「初めての『禅問答』」―山田史生―(光文社新書)
を読んでいる。

そんな中、本日、ふと…以下のような事に気づいた。
禅問答・公案は、言葉で書かれている。

その禅問答の正解は「言葉」ではなく「認識」である。
それも体現してしまった認識となろう。

「生命史観」によると、動物の像・認識は、その瞬間を生きる為のモノであり、
認識・像を自覚する=即運動・行動が起こり得るモノ。


問題に対する自己の認識の表現である言葉なら「正解」であるが…
予め問題を知っている場合、その問題の正解を言えたとしても、
それは自己の認識の表現としての言葉でない。
仮に正解を自分の言葉で表現できたとしても、
それは自己の真の実力とは言えない…


禅問答の正解は、瞬間的な自己の認識・表現の中身と言える。
それは、瞬間的に表れた表情、行動、言葉、感情の全てが
求める「禅的正解」と一致して初めて、「自分的正解」なのだろう。



禅の言葉に「日々好日」というのがある。
別言するなら「生きているって素晴らしい」となろう。

最愛の者が亡くなって死にたくなる程に悲しい時、
その悲しみを感じられる今の自分が素晴らしい…
死にそうに苦しくて死にたいと思った時、死にたいと思える自分が素晴らしい…
天に舞い上がる程に嬉しい時、そんな自分が素晴らしい…


何があっても、何が起こっても、生きている自分は素晴らしい、
死んでしまった人達は、自己の中で生きている事が素晴らしい、

自分が死ねば、全ては「無」、
何も感じない、何も感じない事さえ感じない。
「絶対的な無」となろう。

何もないより、何かある方が素晴らしい。
例え素晴らしいと思えない物事でも、
それが「ある」という事自体が素晴らしい。

以上を言葉ではなく、自己の認識・像として
今この瞬間に描ける事が「日々好日」なのだろう。





続・禅問答の正解

「自由学藝 第三号 2.現象・構造・本質について 禅問答の秘密」

…参考文…

~~引用~~
…前略…禅問答では何を答えるかよりも、まず何秒で答えるかが重視されている。これが禅問答の秘密である。
…中略…間違おうがなんだろが開き直れているかが第一段階で、内容というのは第二段階である。
…中略…有名な公案は「片手でたたく音は?」という隻手の音である。…後略…




以下のネットサイトで「隻手音声(せきしゅおんじょう)」について知る事が出来る。
禅問答入門 3 【隻手の音声】|恵仁|note

gokichikai.jp/essay-kouan-sekisyu.html


さて…この、「隻手の声(せきしゅのこえ)」・「隻手音声(せきしゅおんじょう)」とは、白隠慧鶴(1686年-1769年)が創案した禅の代表的な公案のひとつ。

この模範解答は、「禅師の片方の耳に片手で打ち付けた」と、
どこかのサイトに書かれていた、が…

これが模範解答である理由を考えてみた。

私の解答は、上記の模範解答を参考にして、以下のようなに考えみた。

禅師―「、隻手音声(せきしゅおんじょう)とは?」。む
悟得びと―間髪入れずに、片方の人差し指と親指を交差させて、親指の根本に当て「ピ・ピ・ピ…」音を立てる。
禅師―「それは指の音であり、隻手の音ではない…」


悟得びと―間髪入れずに、右片を禅師の左耳元で振る」
禅師―「それは空気の音であり、隻手の音ではない…」

悟得びと―間髪入れずに、自分の右手を禅師の左耳に直接当てながら…「この隻手の音を聞け!」と叫ぶ~


どのように考えても…
自分・他人の片手だけで音を出す事は不可能。
音は、モノとモノの運動(接触)結果が媒介物を通して人間の耳・聴覚から頭脳に達し感覚したモノが音になる。

この問題では禅師にとっての「隻手の音」であり、
他の人には「隻手の音」である必然性はない。

ならば、禅師に私の片手を直接ぶつければよい…
しかし、禅師の体にぶつけた音は、隻手と禅師の身体で発した…


しかし、耳を直接ぶつけるなら、「耳と隻手の音」ではなく、

何故なら、それは、耳できなく、
聞きたいと思っている禅師の聴覚に直接聞かせた音、
聴覚に聞かせた「隻手の音声」となろう。

換言するなら、
耳をぶたれた音ではなく、聴覚に直接聞こえる音を聞け。
聴覚にぶつけたなら、聞く為の聴覚なので、片手をぶつけたのではなく、片手の音を聞かせた…となろう。


でも、上記の記述は、時間に書けて考え出された解答であり、
しかも、模範解答を参考に論理的考えだけてモノである以上…

現実界での…禅的な正解はい言い難いが…








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一村コメントvs私コメント

2022-06-15 20:06:54 | 滅ぼし合う対立物の統一

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・コメントが届いた記事
お宅のコメントへの私コメント…



・コメントを書いた人


・コメント
>>科学の歴史は過去の仮説の否定・覆しからの新仮説の

>それは初めて聞きましたね。南郷先生が推奨していたシュテーリッヒの『西洋科学史』にもそんなことは書いてなかったように思いますね。

>自然科学の歴史は実験だとか実証だとか検証だとかで部分的な確かな知見が集積していって、それが結果として過去の哲学的な仮説や謬見が覆されることはあっても、科学そのものは既にある誰かの説を否定して覆えすためにあるのでも、覆すことを目的とするものでもないように思われますね。


私のブログ記述のどこに…「覆すことを目的」なんて書いていますか?!
そうか…お宅のコメント記述は、
私のブログ言説を覆る事を目的にしている…という事ですかね…
そもそも…科学者の前学説の否定は、
事実⇒真実⇒真理へ接近・到達する為の「滅ぼし合う対立物の統一」ですよ。





>私はもちろん真正の科学者なんぞではありませんけど、理化学研究所だとか大学の研究所での科学的研究を一般公開してるところに見に行ったりしますけど、科学の魅力は「今まで誰も考えなかったことを考えついて検証する」ところにあるように思いますし、実際の科学者・研究者がやってる研究には「え?そんなこと考えたんだ!」とビックリすることが多くて、「それは誰を否定しようとする研究なのかな?」みたいに思える研究者は少ないような気がしますけどね。
>ダーウィンの進化論なんかも結果としてラマルクの学説を否定する形になったのかも知れませんけど、重要なのはビーグル号でマダガスカルへ行って、そこで実際に見た生物から発想したというところじゃないかと思いますね。
>だから、そこに付随するのは「新しい事実の発見」で、医学の歴史なんかでも「既成の学説を覆す」よりも「新たな事実を発見する」ことが重要だった気がしますね。


W先生は、科学の歴史的な変遷・過程を俯瞰しての結論です。

お宅の言葉で書くなら、
W先生は、>科学史を新たな視点で俯瞰することで、「新たな事実を発見」しての言葉。
このように理解できないお宅の論理能力不足ですかね。




>その恩師のW先生の著書というのが公刊されているのなら教えてもらいたいものですね。

W先生は、渡辺康麿 - Wikipediaです。
御著書に書かれているかは、知りませんが…
私は、先生の御自身の生い立ち、就職、転職…
色々と苦悩した時の話の中でその言葉を聞きました。

まあ~先生の御本でも、お読みになって、
少しはまともな思考が可能なお宅化して下さいな!


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お宅のコメントへの私コメント…

2022-06-14 16:59:39 | 滅ぼし合う対立物の統一


▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
一村コメントへの私コメント
・コメントを書いた人


・コメント
>何かまた色々と言葉を書いてますね。



そうですね…
ネットで言葉ではない絵で描ける私だったら、
今よりもっと自由に表現できて、嬉しいのに…


>ネットからの引用でなく自由びとさん自身の言葉に戻ったことで自由びとさん本来の空虚な発言に帰りましたね。

↑~
お宅が「空虚」と感じるのは、私の言葉の内容内実を感覚不能で空虚と認識・像化するから
言うなれば、全てがお宅の誤解・錯覚…ですね、


>自由びとさんが書いているのは確かに文字であり言葉です。
>「ふーん、何か書いてるな」ぐらいが私の自由びとさんの記載を読んだ感想ですけどね。



この感想が、お宅の現在の認識能力ですね。
まあ~それは、それで、良いんじゃない…


>>「全面教育」でなく「全人教育」

>確かに「全人教育」という言葉はありますね。ですが、私が「全面教育」と記述したのは「庄司和晃の全面教育」を想起してですし、南郷先生が「子どもの理科教育としての仮説実験授業を宗教学を専攻していた庄司和晃が認識の3段階連関理論を構築しながら推進した凄さ」と述べ、薄井坦子先生の看護師教育の現場に庄司さんが招かれて認識論の手解きをした」という事実を想定しての「全面教育」という発言であり、小原國芳の「全人教育」ではありません。


そうそう大正解です>小原國芳の「全人教育」<!
だから、おこれは、宅と私の教育観の相違なのです。
私の教育を「全面教育」という言葉では、表現不能たからの「全人教育」なのです。
お宅って…このような、他人と自分の相違が理解不能なの?




>お宅は相手の発言を相手の立場に二重化して読み取る能力を持ってないようですね。


ここは私の個人ブログです。
お宅のコメントと私の記事に向かってのモノです。
お宅のコメントを求めていない私が!
何故に「お宅のコメント」と二重化する必要があるの?!
そんな事は、ここては、不要で無用なモノだと私は思っています。


私は、私の考えたい事の参考に「お宅の言葉」を利用している…です。
私が、お宅のコメントに二重化したら、私の書きたい事から乖離してしまう危険が大なのです。

>お宅は私がお宅の発言をお宅が伝えようと意図したとおりに読み取れていないと言う。ならば、お宅も私の発言を私の真意を理解せずに文字面だけで読んでるとは何故に思えない?


私は、お宅に、そんな思い・二重化は致しません!
何故に、私が「お宅が文面だけで読んでる」と思う必要があるのですか…

私に、私が「お宅が文面だけで読んでる」と思えない事に、お宅が不満を感がるなら、
コメントを寄越すのを止めれば、いいだけ…てしょう。

私は、個々では、私の自由に理解して、自由に書くだけです。
私の自由な言説が不満なら、お宅の自由・意志でコメント止めればいいだけです。

私は、お宅のコメントを「他山の石」として、使えるのでコメントを書いているだけです。
お宅が、私コメントを糞だと思えるなら、
こんなクソ臭いブログから避難・離れればいいだけでしょうが…

お宅は、お宅の自由意志で、ここへコメントを書き込んでするのです。
私は、そのお宅のコメントを廃品として利用させて頂いているだけです。



>私と言語の概念が違うお宅が、どうして私の言葉や文章を理解できるはずもないでしょう。
従って、私たちは互いに理解し合うことのない言葉の羅列をしているだけのことで、それにしてはお宅の文章は心の乱れがありありと読み取れるのは、お宅は私の書いていることを自分を偽り誤魔化しながらも理解できているということですよ。


↑~
私のコメントから、私に理解出来ない・理解しようとしてない…なんて思えるなら…
私に理解してもらえないお宅コメントを寄越し続けるのをやめれば…

糞は糞と理解して、トイレ・水に流す事も自己決定・自由意志。
自分の肥しとして、利用するのも自由意志・自己意志。



>私は理解できるように書いているのだから当然のことですけどね。


子供が、自分は大人に理解できるいる…と確信して話していても、大人が理解できない事は多々あります。
当然に、この逆もありますが…


>>南郷氏の言葉を人生で再確認して

>それはそれは、結構なことです。ですが、私はあらためて南郷先生という人は凄い人だと思っています。それは「一流の人生を生きる」というテーマで還暦すぎて若人に熱く語りかけて導くなんてことは生半可なエネルギーでは出来ないからですよ。
だから、その南郷先生の文章に応えるには「自身の人生を一流たらんとして頑張ること」だとも思えるのですが、私は嘗て自由びとさんが書いた「南郷氏は一流の人生とは書いたが、一流になれとは書いていない」という何とも阿呆らしき発言が記憶から消えませんし、そんな阿呆を放言しながら南郷先生が推薦した国語辞典に拘泥するくらいなら、「男は黙ってサッポロビール」で自分の人生の構築に努めることが「南郷先生の弟子」を公称できる条件だと思えますけどね。

↑~


「人生を一流たらんと…」という理解はお宅の誤解ですね。


私は、南郷弁証法を私のこれまでの「人生のその時々の仕事の変化」の内容から、
弁証法的な変化・運動を再措定しているのです。




>薄井坦子さんだとか本田克也さんだとか、紛れもなく「一流の人物」だと言って恥ずかしくない方々ですし、私も日暮れて道遠し、ではあってもと心中深く考えているんですけどね。


30年前私なら兎も角…
今の私は「一流」なんて求めていませんよ。
私が、今求めているのは、南郷弁証法の体感・体得ですかね…。


お宅は、最後の最後まで、馬と鹿の区別と連関が出来ずに、
知識を皇帝の言葉だと思い込んで、知識・現代学問の結果が全て正しい…
モノだと思い込んでの大馬鹿者ですね…

科学の歴史は、過去の仮説の否定・覆しからの新仮説の誕生の連続…だそうです。
これは私の恩師であるW先生が自力で科学の歴史から措定した科学観…ですが…


>自然科学へと向かうときに大事なことは「定説」が先ずもって正しいと信じることだと思います。


もっとも…↑なんて思い込んで言語化しているお宅には、
W先生の言葉は信じられない、でしょうが…~
可哀そうに…お宅は書けば書く程に、
真理から遠ざかっているように…私には思えますが…

もっとも…存在・実存しない「真理なんてない…、求めても無駄!」思っている人もいるようですが…



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一村コメントへの私コメント

2022-06-14 15:42:42 | 滅ぼし合う対立物の統一



「音」について…

・コメントを書いた人
一村隆滝

・コメント
>国語の教科書を離れて理科の教科書へ、自然科学へと向かうときに大事なことは「定説」が先ずもって正しいと信じることだと思います。



定説の「結果・結論は信じても」…その「過程に問題があるかも」…と疑う。



>つまりは南郷学派の浅野さんが書いていたような「南郷先生が様々な専門分野の定説を覆えす形で講義をした」といったところに、頑張って頑張って定説の正しさを証明しようとすること、「学的世界における社会的な個」となるべく踏み止まることが学者になっていく道だと思います。


学者のなる事を求めるか、真理の追究を目指すかの相違。
または、現代の学者を目指すか、将来・未来に
「あの人は真の学者だった」と評価される学者を目指すかの相違。




>「音」の話しでいったなら、私が前の投稿に書いたように「空気の振動のうち聴覚で感覚できる可聴域が「音」であり、それ以外の振動は「音」では無い」というのが「日常生活的で常識的な」考え方かと思います。


それ以外は、人間にとっての「音」ではないが…
他の動物達には、「音」である。
だって…よく~、人には聞こえない「音」とう言っています。




>ですが、自然科学(物理学)の世界では、人間の聴覚可能な範囲を超えて振動一般が「音、サウンド」だとなっています。



え~物理の世界ではなく、普通に「イヌ笛」で音を出しているでしょう。


>弁証法の「相対的独立」という言葉は「相対的」という「関係がある、繋がっている」という言葉と、「独立」という「関係がない、繋がっていない」という相反する意味の言葉をくっつけたものですけど、
自然科学(物理学)の「音」の理解も「聴こえる」と「聴こえない」という相反することを「振動」という共通することで繋げて連続させています。



う~ん…
「聞こえる・聞こえない」ではなく、「音」として、感覚可能なモノ・刺激と感覚不能モノ・刺激。




>おそらく、これは科学・物理学の長い歴史の中で獲得されてきた世界観・科学観で、コペルニクスの地動説が「動いている」と「動いていない」とを別々のことではなく連続させ、それはアインシュタインの相対性理論にまで繋がっていく話しだと考えますね。



何と…見事な自分勝手な解釈ですね。
 


>そして、それは現在では心理学で正常と異常とを全く切り離された別々のことと理解するのではなく、光のスペクトルのように連続したものだと理解するに至ったものなのでしょう。



問題は、どのような原因・理由で、正常から異常に変化するのか?ですね!



>そうした「音」に関する理解は「人間の耳に聴こえる」といった日常生活を超えて、「音波」を「電磁波」と区別するための概念としたり、テクノロジーの発展によって人間の可聴域を超えた振動を増幅したり変換したりして可聴化するに至るのでしょうね。


だから、人間に感覚可能か?不能か?の問題ですね。
耳の鼓膜を振動させていても、その刺激が神経を伝わって頭脳に届いても、それを音と認識していない。
だって、耳に聞こえない「低周波音」でも、人体影響を及ばしている…
それは、その信号が頭脳に届いていての影響。
これは、鼓膜ではなく、全身の触覚が感覚するモノなのでしょうね…
同じ、空気の振動でも、聴覚から伝わり音と認識する場合と、全身の触覚から頭脳に伝わり「不快感」と感覚する場合がある…という事です。


>ですから自由びとさんが脳天気に「何の事はない、事実的なことは」などと小馬鹿にして述べた事柄だけでも、「全くもって自明なことではなかった、科学の発展によってもたらされた人類の叡智」だということが、青春時代に学問に励まずに「青春とは何だ!」なんぞをテレビで夢中で見ていた干からびた感性では理解できないわけです。




ヤッパリ誤解している。
ネットの図解で、耳の構造がハッキリした事が「何の事はない」なのです。
だって…ひと昔なら、専門の医学書を紐解いて初めて、あそこまで専門的の詳しい「耳の構造」を知る事が出来たのでしようね。



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