新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・自由獲得への二つの道

2021-04-25 11:59:39 | 自由論


「自由」とは~
例解新国語辞典[第二版]三省堂
自由―他から制限されたり邪魔されたりしないで、自分の思い通りにできること。

自由が上記のようなモノならば…

不自由な状態とは、
「自分の思い」があり、それを「邪魔する何かモノ」がある。
または「何かモノ」があり、それが「自分の思い」の邪魔になる。

ならば、自由獲得への道は、
一つ、自分の思いを変える・断念する。
一つ、邪魔になるモノを変える・排除する。

自由獲得の方法は、
言葉にすれば上記のようにシンプルなのモノである。


でも、人には変えられない思いもあり得るだろうし…、
また、自力・人力では、取り除けない障害物もあり得るだろう。


主観的には、初めに「自己の思い」があり、それを邪魔する「モノ」がある。
客観的には、初めに「何かモノ」があり、それが「思いの邪魔モノ」になる。


「変えられない思い」とは、

今すぐには無理でも時間かければ変えられるかもしれない思い。
自力では無理でも他力があれば変えられるかもしれない思い。


人類の歴史には、不自由を自由に変えてきた数々の事実がある。
たかが64年間生きた結果の人生経験から、
絶対に変えられない思いがある!なんて思うのは思い違い、であろう。

しかし、変えられても、変えてはいけない思いもあるだろう。
それは、自己の生死に関わる思いである。

人間は生きて生活できて人間として存在する。
どうなに不自由を感じても、その思いを変える・断つ事は「死」であるなら、
その思いを変える・断つ事はしてはいけない事だろう。

人間としての不自由な状態から、自由になる為に死ぬのは、
本当に自由を獲得した事なのだろうか?

それは人間をやめた事であり、人間としての自由の放棄であろう。
自由を追求可能なのは人間だけであり、
不自由を感じられるのも人間だけである。


不自由を痛感できるのも、
そして自由を求められるのも、
生きた人間だから可能こそな事であろう。

不自由状態からの脱却は、その不自由を味わう・楽しむ心の余裕から生まれる。

もっとも…不自由を受け入れ・味わう事が「死」になり得る場合は、
己の生の為に死を賭けて邪魔モノを排除する事が最優先されようが…


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続・「実に残念な事」

2021-04-18 09:57:06 | 宗教論
続・「実に残念な事」


昨日・今日と休日なので比較的時間の余裕があった。
そこで、葬り去った沢庵おたくではなく、
残っているコメントをざっと見た。
そんな中南郷氏の著書「武道の理論」からの引用部分を読んだら…
なんと…今まで気づかなかった新たな観点から氏の論説が読めた。

確かに、南郷氏は、「宗教否定論」or「宗教不要論」を展開している。
しかし、それは南郷氏の個人的視点からの見解ではなく、
南郷氏の構築した、学問的観点・人類の歴史的観点からの論説である、という事。

だから、沢庵お宅の以下の言葉も間違ってはいなのだろう。

>お宅も本当は分かっているのだろ?南郷の宗教批判・宗教否定の考えを。
>それも、それは南郷個人による独創などではなく他人との相互浸透によってもたらされたものだということを。

その通り、
そもそも学問の構築には全人類規模の相互浸透が求められる。
それは、歴史的な学問・記述、歴史的な事実、
そして現代社会の現実…等との相互浸透の結果であろう。


例えば、空手の修業・修行においての「宗教不要論」は、
南郷氏が「神・神の道」を頼らず・使わずに
武道空手の達人への到達法を創造し得た結果の「宗教不要論」であり、

また、生活における「宗教論」は、
歴史的観点から人類にとっての神誕生から宗教誕生への謎を解き得た。
その結果の「不要論」である、という事であろう。


それに対して、
私が、南郷氏の持論だと言って展開した「宗教論」は、
私の個人的見解・持論という事になろうか…

ただ…葬り去った沢庵お宅には、全く理解できていない事実がある。
それは、空手組織における創価学会の会員についての南郷氏の対応である。

学者としての南郷氏の「宗教論」、
組織の指導者としての「宗教論、
社会的な個人としての「宗教論」、
それらは、本質的部分では一致していても、
状況・条件によって異なっている見えるモノである。

学問的には「宗教論」では、現代の人類に「宗教不要」でも、
現代の人類の中の時代遅れの人間には「宗教有用」であり、
自分と個人的な関係にある他人に「宗教不要論」は敢えて主張しない。


学問的な「宗教論」を現実への適用・使用の場合、
毒があるから不要論、
毒を以て毒を制すから有用論、
「無用の用」的な視点から肯定論…

学問的な「宗教論」とは、そのようなモノなのだろう。


南郷氏の「宗教否定論」も「宗教不要論」も、南郷氏の「宗教論」の一部に過ぎず、
それは、「宗教論」という氷山の一角に過ぎない論説である、と言う事であろう。


葬り去った沢庵お宅は
人間なら「木を見て森を見ず」か「鍵の穴から天覗く」
人間以下なら「井の中の蛙大海を知らず」ですね…

煽てても木に登れない「障碍ブタ」から「蛙」になっちゃった!
これって哺乳類から両生類に退化したという事?
それって進化している時代に逆行して退化しているって事!でしょう。


よかった♪♪♪もう既に葬り去ってしまっていて…



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実に残念な事…

2021-04-17 09:50:30 | 宗教論
「実に残念な事」とは、沢庵お宅のコメントである。

それは、この記事の一番下に掲載している、
記事「続・沢庵お宅コメントへの自由びと記述」へのコメント記述である。

沢庵お宅には、
以下のような連続投稿を実行可能な「熱意・執念」がある。

2021/04/15 (木) 3:06
2021/04/15 (木) 14:30
2021/04/15 (木) 18:35
2021/04/15 (木) 20:27

また、このコメント類には、私の主張・認識を覆すだけの内容が、
あるようにも思えるのだが…

しかし私の中での沢庵お宅は、もう死んで滅びいしまっている!
そんな幽霊的な沢庵お宅のコメントを真面目に読もうという意欲は今の私にはない。


それでも…以下のような大きな矛盾を発見した


2021/04/13 (火) 23:08
>佐藤錬太郎さんの『禅の思想と剣術』でも紐解いて(当然に南郷の『武道の理論』は廃品回収で処分して)勉強させてもらうが良い。

2021/04/15 (木) 3:06
>南郷の『武道の理論』(三一新書)のp28~36「宗教的思考と科学的思考」を読んでみろよ。
2021/04/15 (木) 20:27
>不自由びとに示すため数十年ぶりに『武道の理論』を読んでみたら、またまた南郷の間違いを発見したよ。


>…当然に南郷の『武道の理論』は廃品回収で処分して…
>…数十年ぶりに『武道の理論』を読んでみたら…


↑~
これって…どういう事?

古本屋で買い直した?
本屋で立ち読みした?
「処分した」のは虚偽?

まあ~もっとも…
こんな事は今に始まったモノではない…

今回の私が沢庵お宅を葬り去ったのは、
以下のような沢庵お宅の記述からである。


「>生阿片は不純物を多量に含み医療的効果が低いためモルヒネやヘロインに精製されて利用されている。

医療の現場で使われているのは阿片でなくてモルヒネなんだよ。」

↑~
こんなにも、物事の道理・論理が分からない
沢庵お宅とは、もう議論の余地がない!失望したからである。


直接使えないモノでも、加工して使えるなら、それは使えるモノ。
鉄の棒で紙は切れなくても、鉄製のハサミから切れる。

生アヘンは医療用に使えなくても、「ヘロイン」に調剤したアヘンなら使える。
そもそも医者がアヘンを、そのまま生で使う訳がない。
人間・人類は、直接使えないモノを加工して使用して来た長い歴史が…


こんな簡単な道理・論理さえ理解でない沢庵お宅では…
このまま相手をし続ければ、うつると感じて滅ぼした…


アヘン

ケシの実から採取される果汁を乾燥させたもの…

ケシの実から採取される アルカロイド は オピエート と呼ばれ、

このようなアルカロイドや、合成化合物

モルヒネ 、 ヘロイン 、 コデイン 、 オキシコドン を含む。」



結局、害があるのは、
ケシの実でもアヘンでなく、
その中の成分という事…

アルカロイドや、合成化合物は、
高用量の摂取では昏睡や呼吸抑制を引き起こす…のである。







2021/04/15 (木) 3:06


▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
続・沢庵お宅コメントへの自由びと記述


・コメントを書いた人
沢庵

・コメント
バ~カ

南郷の『武道の理論』(三一新書)のp28~36「宗教的思考と科学的思考」を読んでみろよ。

「我々は歴史をふりかえることにより、科学は宗教との闘いを経てその座を獲得してきたことを知るのに、」

「創価学会にしても、その本質と抵触しない部分については、大いに科学的に動いているのを知ることができる。だが我々は現象によってその本質を判断してはならない。仮に社会事業に投資されるからといってバクチがよいわけがない。人間性をむしばむものは、それがいかに美しく飾られていようと、その本質的な部分をあばきだし、正しい姿を見せてやらねばならないのである。
 いわゆる宗教ないし哲学の存在価値を理論的に承認するということは、そこには科学の手が届かないということを、科学がそこでは無力であることを承認することになる。創価学会が主張するごとく、そこは科学の分野ではなく、宗教の分野であることを認めたことになる。科学の手の届かないところを認めるとすれば、現実の謎の解明が場当たり的となってしまって、原因不明となってしまうか、神罰のせいだとか、神の御利益だとかいうことになってしまいかねない。」

「創価学会式の原因究明によれば、事故にあうのは信心不足のせいだそうであるから、さしずめ、この事故なども幹部連中の信心不足を、わが敬愛する日蓮さんが怒って罰を与え給うたものと解釈すべきであろう。」

「モルヒネが、強壮薬が、一時的に役に立つからといってもその本質を見誤ることになると結局廃人になる以外道はないのである。宗教は阿片であるというゆえんは、人間性をむしばむからからである。」

「宗教の阿片性は科学的に証明されている。理論的に解明ずみである。しかるにその同じ宗教を心情的に支持し、積極的に道としてとりくむ武道家がほとんどであるというのが実情である。」

「我々の科学への志向は、宗教との闘い、しかも、生活の全分野に存在する宗教的な考え方との厳しい闘志を必要とするそれではなかったか。」(p32)

ハッキリと「武道の部分だけ宗教を排し、他の生活においては宗教を否定しない」などと南郷は述べていない。
科学と宗教とは敵対的な関係であり、非敵対的に両立し得るものではないのだ、というマルクス主義の唯物論的で無神論的、無宗教的な考えを文字に書き残している。

「生活の中の一部分でも宗教を認めたならば、やがては全体に波及することになるから宗教は否定して、社会科学や精神科学に取って変えねばならない」と。

南郷はハッキリと宗教否定論者であるし宗教不要論者だよ。何故なら南郷はマルクス主義者であるし無神論者だからだ。

実際に神を信仰している武道家や格闘家は少なからずいる。しかし、神を信仰しているから強くなれないとか上達できないということはないのだよ。南郷が自分が無神論者だから神仏への信仰を排除したかったからに過ぎない。
特に科学者になるわけでもない武道の実践家にとって信仰が強さを妨げるということなど無いのだよ、戯けが!




2021/04/15 (木) 14:30

▼ コメント ────

・コメントが届いた記事
続・沢庵お宅コメントへの自由びと記述


・コメントを書いた人
沢庵

・コメント
明らかに南郷は宗教批判・創価学会批判を記述している。

にも関わらず馬場規子は創価学会も公明党も止めることなく玄和会の幹部となっている。

その人間世界の妙味だろうな。

般若心経の。




2021/04/15 (木) 18:35

・コメントが届いた記事
続・沢庵お宅コメントへの自由びと記述

・コメントを書いた人
沢庵

・コメント


不自由びと

お宅も本当は分かっているのだろ?南郷の宗教批判・宗教否定の考えを。

それも、それは南郷個人による独創などではなく他人との相互浸透によってもたらされたものだということを。

つまりは唯物論的弁証法の「対立物の相互浸透」であり「自分の他人化」であり、この場合は「南郷継正(高橋洋一)のマルクス化・エンゲルス化・レーニン化・三浦つとむ化」であったのは明らかだ。

マルクス主義者・共産主義者は宗教否定論者であり、それが現実化されたのがソ連の宗教弾圧であり、中華人民共和国やアルバニアの国家的無宗教なのだから。

現代社会において「アヘンの医療的利用」などという話しでは全く無い。誤魔化すな。







2021/04/15 (木) 20:27

・コメントが届いた記事
続・沢庵お宅コメントへの自由びと記述



・コメントを書いた人
沢庵

・コメント

不自由びとに示すため数十年ぶりに『武道の理論』を読んでみたら、またまた南郷の間違いを発見したよ。

それは宗教批判の所にあるのだが「科学は宗教との闘いを経て」というくだりだ。

おそらくそれは西洋のガリレオ裁判だとかを念頭に置いての記述だろうが、ああしたものは「科学と宗教との対決」ではなく「科学者と権力との闘い」なのだよ。

その歴史的現実を経て制定されたのが日本国憲法第20条の「信教の自由、そして政教分離」であり第23条の「思想の自由」ではないか。

しかし、南郷の理解では思想にも自由は無いし信教にも自由はない。憲法の無いソ連のような考えで、これでは何年受験しても司法試験に合格できなかったのも頷ける。

出版社の編集者も大学の学部や大学院を出た秀才揃いだから読んでレベルを見抜けるのだろうな。「南郷継正?レベル低いよ」と皆が言うからな(笑)



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自由獲得への二つの道

2021-04-14 17:14:05 | 自由論


自由獲得への道

初めに「自由」とは~
例解新国語辞典[第二版]三省堂
自由―他から制限されたり邪魔されたりしないで、自分の思い通りにできること。


上記の「自由」の意味を元に、具体的に以下のように考えた。

自由が上記の意味なら、
不自由は、自分の思い通りにできない・ならない…となろう。



身体的な自由~
右足でボールを蹴ってゴールへ入れたいと思った時、
右足が怪我をしていれば、思い通りに出来ず不自由である。
それでも怪我が治れば蹴れる自由だ。

生れ付き両目の見えない者が、空を見たい!と思って、
どんなに頑張ってもできない不自由だ。

社会的な自由~

医者になりたい!と思って頑張って勉強してなれる自由がある。
でも、天皇になりたい!と思って、どんなに頑張ってもなれない不自由だ。

精神的な自由~
自分だけで思いたいように思う事は誰にも邪魔されず自由だ。
自分の思いを全ての人に分かって欲しいと思った時は、
他人の心・思考が邪魔して無理がある不自由だ。


人間の「思い通り」には、
可能性のあるモノと絶対的に不可能なモノがある。

いつかは必ず死ぬ人間が「不死・不死身の身体になりたい!」と思った時、
それは絶対的な不自由。

でも、「百歳まで生きたい!」と思ったら、それは努力次第で可能な条件付き自由である。
条件付きとは、邪魔するモノはあるが、それを取り除ける可能性はある、という事。


「自由の結果」の二重性
一つ、達成可能な思いを抱いた時、その努力によっては可能で自由。
一つ、絶対的に達成不可能な思いを自由に抱いた時、絶対実現不能。


「自由獲得への道」の二重性~
達成可能な思いは、達成を可能にする条件に合わせて身体的努力をする事で自由へ。
絶対的に達成不可能な思いは、その思いを可能なモノに変更する事で自由へ。


不死・不死身の思いは、絶対的不自由であっても、

>ギネス認定の存命中の世界最高齢は日本人女性になっているようです。
>2020年9月19日現在ご存命中で117歳。
それを「117歳まで生きたい」という思いなら、
努力次第では可能であろう。

「不死・不死身の思い」を主観的に「達成可能だ」と信じる自由はある。
それでも、その思いは客観的には「達成不可能」な不自由なモノである。
その自己の思い形成は自由でも、その実現は肉体が邪魔をして不自由だ。



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続・沢庵お宅コメントへの自由びと記述

2021-04-04 14:48:41 | 想いのままに…
続・沢庵お宅コメントへの自由びと記述



>コメントを書いた人
>沢庵

・>コメント

>>私はお宅に合わせての

>私のせいなわけですか?www
>お宅のように他人のせいにばかりしている人間を「自由でない」(と自分では思っている)と言うのです。

↑~
「お宅に合わせて」の決定は自由びとの意志。
「責任」を問うなら自由びとの責任となり得る。

しかし、ここは裁判所法廷でない。
ここで責任の所在を問う必要なし。

本当は沢庵お宅って…
被害妄想狂なのかもね!



>「自由」とは「自分のことは自分で決められる」ということなのですよ。お宅の理解しやすい?小学校のペーパーテストを例にとれば「選択肢のどれを回答に選ぶかは本人の意志に任されている、自由だ!」ということであるが、その自由に選んだ回答が正解か不正解かを決めるのは生徒自身でなく学校教員だということ。


沢庵お宅と自由びと では「自由」に対する見解に多いなる相違がある。
自己の「自由論」の正解・不正解は、自分の人生の中で確認すべきモノ。

自由びとの個人ブログという私的場所で、
己の持論の強引なる押しつけは全く迷惑千万、
不届き者の行為、自由びと法の違反である。

それは不法行為であるから
即刻ここからを立ち去れ!



>それがヘーゲルの言う「昔はたった一人だけが自由だったが今は全ての人が自由となる」という意味であり、お宅が入学したい学校もお宅は自由に選択できるが、相手の学校のほうにだって選択する自由はあるのだから入学できるか?採用されるか?は双方の合意に基づかなければ成立しないということでしかない。

↑~
自由である事と自由に行動するは別物。
この二つは「相対的独立」関係にある。

人には、殺人の自由はあっても、
殺人者は不自由な刑務所犯罪者。

犯罪者は自由な思考はできても、
その行動範囲は非常に不自由だ。




>同様に、機械の力を借りずに自分の肉体の力で飛行したいと人力飛行機(自転車?)でチャレンジすることは何人たりとも邪魔できない。「自由」なのだよ。
しかし、その「自由」とは実際に鳥のように長時間・長距離の飛行が可能となることを意味しない。「チャレンジする自由」にとどまる。

↑~
人間には、
飛行機・機械で空を飛ぶ自由はあっても、
鳥のように自分の体で空飛ぶ自由はない。



>お宅の息子の述べた「真の自由など無い」との「真の自由」とは「私が帝王」との自由であるし「自分のことばかりか他人のことも自分一人が決める」という相手の自由権を侵害し蔑ろにする「自称、自由」なのだ。


ここでも誇大妄想狂癖が…
私の息子を知らない沢庵お宅に、
「息子の述べた…」事が正しく分かる訳なし!

そもそも…「帝王」も人間である。
人間に「真の自由」などありえない。
あるのは、「真の自由」ではなく、
生物的な限界ある「自由」である。


>お宅のような考えでは「世の中に自由など無い」し「人類、みな奴隷」という戯けた思想を未成年に植えつける百害あって一利なしの老害でしかない。


現代は幸せな時代なのか?
それとも恐怖の時代なのか?

沢庵お宅のような妄想狂が普通に社会生活を営める「幸せな時代」。
大人しい自由びと・ブログ書きが誹謗中傷を受ける「恐怖の時代」。


>直ちに子どもたちに関わることを止め給え。



真面目に子育てに励んでいる親に対して、
「関わることを止め給え」と命令される時代。



まあ~何も知らない、何も分からない、のに…
自分勝手な自由放題の妄想狂時代なのかも…






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