新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

tadaさんへ感謝を込めて「非言語認識の言語化」とは?

2023-11-02 21:17:34 | 新発見と新たな気付き

tadaさんへ感謝を込めて「非言語認識の言語化」とは?

tadaさん♪♪♪!

気付いてしまいましたよ!「非言語認識とは何か?」を~

そもそも…動物を見ても分かるように、認識は言葉ではない!のです。
なのに…
人間は言葉で認識を表現できています!・
また言葉を聞いて、その言葉が理解できると、その像が描きけます!

それは何故か?
この答えは、とっくに南郷氏の御著書に書かれていますね。

私が、tadaさんの言葉である「非言語認識・言語的認識」から、この数日間に思い描いたモノは、
私が補助に入っている小学一年生達の像、でした。

それは、国語の平仮名の授業の際に、
先生が「『あ』のつく言葉は?」と子供達に言わせた時の事です。

数人が挙手して、一人一人答えていると…
時々自分の順番になると「忘れました」と言う児童がいました。

私は想像しました―『この児童は、何故に忘れたのか?』を~
先生の言葉を忘れたではなく、自分が思い出した「『あ』のつく」言葉なのに…何故?どうして忘れるの…?

この答えを私は以下のように考えました。
その児童は、例えば「アリ」と言おうとしていました。

この児童が「あり」という平仮名を未習得の場合、言葉ではなく「アリの像)を描いている筈です。
何しろ、「あり」が書けないのですから…

この児童は、自分の番が来るまでに、他人の言葉、(例えば)「あし」、「アイス」、「アーモンド」…
を聞きながらそれらの「像」を描いているとします…すると、
その児童の「あり」像が消えてしまった…からだろうと…

大人でも時にあるでしょう!
他人との会話で、自分の思った事を言おうとしていたら、相手の言葉を聞いている内に忘れる事が…

これは、言葉を忘れたのではなく、その像が消えてしまたから・「忘れた!」なのでした。
意志で頭脳に描いた映像認識は、消えやすのです。
対象を感覚器官で描いた映像なら、対象が感覚可能なら消えても見れば現れます。

持ち歩けない対象なら、その対象を言語表現してメモすれば大丈夫でしょうね。


この児童は、目の前に「アリ」がいないのに…「アリ像」を描けています。
これは、人間が自分の意志で、アリ像を描く頭脳活動をしたのです。
でも、例えば、この児童が「アリ」を見た事がなく、「アリ」という音声・言語を聞いた事がないなら、
この児童にはアリ像はなかった筈です。

人間の認識には、感覚器官を使って対象を描いた映像認識があります。
そして、もう一つ、自分の意志で頭脳を使って描いた映像・認識があります。

例えば、人間が、今までに見た事も聞いた事もないモノを目撃した時、そのモノの名前を言えるでしょうか?
名前は言えなくても、見えている姿形は言えますが…

言いたい・伝えたいのに…言葉にならない!
見えている・分かっているのに…言葉にならない!

確かアリストテレスの有名な言葉がありましたね!
???

宗教家が、悟りを開いたのに、言葉にならない!



では、例えば、喋れる幼児が、初めて「イヌ」を見た時に、
それを「イヌ」と言えるでしょうか?無理ですね。

その理由は、その幼児の頭脳内のイヌ像に、
「いぬ」という言葉は付けられていない・教えられていない、から…


「非言語的認識」とは、外界から感覚器官を通した反映像なのです。
その反映像が言葉に結び付けられ、記憶できたなら「言語的認識」になるのです。


この記憶する時に「言語」も一緒に記憶したなら「言語的認識」です。
でも、その反映像・認識は記憶しても、言語が一緒ではなかった時は、未言語的認識、ですかね…

初めての「イヌ」が、「非言語的認識」でも、二回目のイヌは「イヌ」でしょうか?
初めに出会った「ミニダックスフンド犬」がイヌでも、二回目に「シェパード犬」では、
「イヌ」とは幼児なら認識不能で、イヌしは言えませんね。

感覚器官からの対象の反映は、その対象の概念化が、できない内は「非言語的認識」でしょね…



大人の認識は、殆どが「言語的認識」です。
言葉を全く知らない赤ちゃんなら非言語的認識です。
言葉・言語習得過程の児童達なら、非言語的・言語的認識、でしょうね。

過去・現在でも、私が「悟った」と思い込む時は、
私の中で今まで「非言語的認識」だったモノが、言語と結びついたから、のようですね。



言語習得過程での問題は?

「知る」⇒「識る」⇒「悟る」⇒「悟り・悟得る」とは?

見て知る・聞いて知る・匂いを嗅いで知る・食べて知る・触って知る。
見ながら・聞きながら・嗅ぎながら・触りながら・食べて味わって識る。

「識る」事の繰り返し結果の量質転化化が「悟る」。
「悟った」モノを論理的認識化出来た時に「悟りが開く・悟り方を悟る」。
「その悟り方」を繰り返し使い続ける事で技化・感情化出来た時が「悟得」

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認識と言語~(始まりの前)~

2023-10-26 18:18:30 | 新発見と新たな気付き
認識と言語~(始まりの前)~

10月17日 火曜日の事である。

五年男子二人が、音楽の交流授業参加の為に音楽教室へ行こうとしない。
特別支援学級の担任が、行くように催促するが…なかなか行かない。
私は、彼らの音楽交流授業へ参加は、支援員としての仕事・義務であったので…
彼らの感情に訴えかけようと…
色々な角度から、音楽・嫌な授業・面倒な事…
をやり通す意味・意義を私の過去の体験を元に説き続けていた…
この時、久しぶりの感情的な高揚感…を感じた。

最終的には、担任の説得と妥協(音楽教室の前で聞く事)で一件落着。

その音楽教室の前で授業を聞いている時に、
KO君が「音楽ではなく、授業中のクラスの私語の五月蠅さ・雑音が嫌い」である事を話してくれた。
そこから、彼の父親や家族の話聞く事ができ…彼の色々な家族への思い・感情を知った。



その後、彼が「○○先生(通常級での彼の担任)の殺気を感じていた」と言った。
私は『殺気とは…○○先生は怖い顔していた?』と思ったが…
彼は「先生の声が聞こえた…」と…私は『声で殺気が分かるモノなのか?』と思った…

そこで、私は「○○先生の意見・反応」を見たくて…
「○○先生!」「KO君が、先生の殺気を感じたって…」と伝えた。
すると○○先生は「殺気が感じるとは、KO君は凄いね!」と答えていた。

その後、教室へ戻る途中に、ふと~気付いた…
KO君の殺気は、「殺す気」ではなく、単なる「気配」である事を…
KO君は、○○先生が近くに来た事を、遠くで彼の声が聞こえる事から知り、「殺気を感じた」と表現した。

なのに…
私は、彼が音楽教室に入れない事に後ろめたさを感じ、
彼の先生に何か言われるだろう被害的な認識から「殺気」と言ったと解釈した。

これは、私が、KO君の「殺気」・言葉を、私の認識で理解して、
上記のように解釈して、いたという事であろう。


その人の言葉は、その人の認識の表現である。
また、認識には、理性的認識と感性的認識がある。

話し手が、怒りの感情で言った「馬鹿野郎!」と呆れた時の「馬鹿だね!」とでは、
同じ「馬鹿」でも、その言葉の感情・認識が異なっている。

当然に聞き手が、
自分が怒りの感情の際中に言われて・聞いた「馬鹿野郎!」と、
反省の気分の時に言われて・聞いた「馬鹿野郎!」とでは、
その感情・理解・認識は、大きく違ってしまうモノ…

この「気配」と「殺気」とでは、言葉としての概念レベルが違っている。

気配の種類に、殺気・正気・嘘気・本気…が含まれるのだろう。


以上~久しぶりの連続投稿だ!…と書いても前回の連続投稿の記憶がない…
となると…私は、無自覚的な嘘を書いているのか?

「久しぶり」の確信が無く、なんとなく「久しぶり」と書いている…事。





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~tadaさんに読んで欲しい!~ 「認識と言語~(始まり)」⇒「概念の弁証法」へ

2023-10-26 13:22:04 | 新発見と新たな気付き
~tadaさんに読んで欲しい!~
「認識と言語~(始まり)」⇒「概念の弁証法」へ


認識と言語?or言語と認識?

認識が先?or言語が先?  タマゴが先か?or鶏が先?


赤子が誕生した時、既に世界言語で満たされている。
ならば、言語が先で認識は後!?

しかし、人類が、まだサルの時代には、言語は皆無。
本能的なサルから、本能が薄れていく過程で、言語が自然成長的に発生・誕生していった。
そこには、「言語をつくろう」意識はなく、あるのは「何か(事実・思い・認識)を伝えたい!」想いであろう。

言語の始まりは、そのサル叫び・唸り・沈黙…での認識の表現であった。
その後、サルがヒトへの進化の過程で、サルの声帯の変化…多種類の発声が可能…が起こったのだろう…

ならば、現代人にとっても、認識が先・言語は後、であろう。筈…

さて、昨日の事である。

私が洗濯を始めようとしていた時~
息子―「この服、色落ちするから…」と言いながら、その服を洗濯物入れから取り出そうとしていた。
私―『「色落ち」なら分けて洗濯かな…と思っていると…』

息子―「…室内に干して…」と衣服を私の前に出しながら続けた。
私―『「室内とは?」…そうか「色落ちではなく、色焼け」の事か!』と確信した。

息子は、「衣服の変色する事実」を「色落ち」と表現した。
私は、「色落ち」を「洗濯中に色物の色が落ちる」と理解した。

実際は、洗濯物を外の強烈な太陽光線の元に長時間干した「色焼け」であった。
私に言葉「色落ち」に対する誤解はなかった。
しかし、初めの私は、息子の「色落ち」を息子のレベルで理解していなかった。


今さっき、ネットで「色落ちと色焼けの違い」をネット検索したら、
「色落ち」とは、衣類摩擦や汗…(物理的)での変色」、
「色焼けとは、化学的変化で染料分子が分解されて変色」と書かれていた。

この双方とは、共通概念の区別と連関~


抽象的概念―  どちらも、「色の変化・変色」。


具象的概念―
「色落ちは、物理的原因での変色」、
「色焼けは、化学的原因での変色」。



具体的な原因には、
「色落ちは、衣類の摩擦・汗…での変色」
「色焼けは、染料の分子が分解されて変色」、

現実的な理由―
「色落ちは、洗濯(機)での衣類間の摩擦や汗をかいて運動する身体と衣類間の摩擦」、
「色焼けは、長時間・長期にわたる日当たり」」


以上は、色落ちとお色焼けの「概念の「抽象⇒具象⇒具体」の変化運動と言えようか…






さてさて・そろそろ~この記事のまとめを書こう!

息子は、「衣服の変色する事実」を「色落ち」と表現した。
初めの私は、「色落ち」を「洗濯中に色物の濃い色が落ちる」と理解した。

その後、私は、息子の言葉―「外に干さないで!」から~
息子の「色落ち」とは、洗濯物を外の強烈な太陽光線の元に長時間干した変色であり、
それは、私にとっては「色焼け」であった…と理解できた。

初めの私は、息子の「「色落ち」言葉を具体レベルの洗濯中の摩擦での変色」と理解した。
この理解は、正しいモノであったが…
しかし、息子の「色落ちとは、抽象レベルの変色」であった。
その事を、私は、息子の言葉を最後まで聞いて確信できた。

このように、相手の言葉の「言語概念レベル」が、
「抽象レベル・具象レベル・具体レベル」のどれかの判定が可能な能力―
自己の相手の言語に対する理解・認識レベルを相手の認識に合わせて、
意識的・意図的に変化・運動させる事を「概念の弁証法」と言うだろう…


「言語は、認識の表現である」
逆から説くなら~
話し手の認識の正しい理解には、聞き手の弁証法的な言語・理解・認識能力が必要である。



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起こり得る事実から考える「運とは?」

2023-10-22 11:40:34 | 新発見と新たな気付き
起こり得る事実から考える「運とは?」


以下のような仮定的現実・事実から思惟する「運とは?」

ある学生が、大学に入試の当日に、たまたま電池時計の電池切れで、
目覚ましが鳴らずに…寝坊してしまい、「入試開始時刻に遅刻」確実になってしまった。
それは、下手すると入試を受けられない可能性のある程の遅れであった。

それでも、その学生は諦めずにJRに乗って、私鉄乗り換え駅まで来た。
その時、たまたま私鉄車両が不具合ストップしていた状態から、やっと電車が動き始めたタイミング。
その学生の大学到着時刻は、当人の予想通りに、多々幅に遅れてしまった。
しかし、第大学側は、私鉄のストップ・アクシデントを考慮して、入試開始時刻を引き延ばしていた。
結果的に寝坊遅刻でも、入試受験に問題はなかった。

この時、このように、この学生に起こった出来事を「運」(幸運・不運)の視点で考えるなら~
電池時計の電池切れは、どの電池時計にも起こり得る「必然性」。
また、それが、大学入試受験の日のタイミングで起こるのは「偶然性」。

このような必然性ある物・事(電池切れ)が、ある重要なタイミング(受験日)で発生する事を「運」と言い得る。
この場合の「電池切れ」は、「入試時刻に間に合わせる」目的を阻止する出来事。
それは、運は運でも目的遂行を邪魔するタイミングの出来事であり「不運」と言い得る。

さて、同様に「電車ストップ」も「入試時刻に到着」を阻む「不運」である。
でも、この場合、それは、この学生にとっては、「電池切れ・遅刻」を帳消しにしてしまう「入試開始時刻の変更」となり得た。
それは、普通なら、電車ストップは「不運」(時刻に間に合わない)という「不運」が、
これは、この学生の場合は普通(間に合った)に変えしまった「幸運」となり得た。


また、以下のような考えられる別の事例から考えるなら~


ある商社マンが、重要な商談でお得意さんの会社へ出かける日の事。
彼は、十分余裕をもって家を出た、すると事故で電車が運転見合わせ。
そこで、駅からタクシーでその商談場所へ向かったら、電車事故による影響・交通量の増加で大渋滞…
結果的に、商談に間に合わず、相手は仕事で外回りでてしまい…
到着出来ても、商談は出来なかった。

この商社マンの場合、第一の「不運」・電車運転見合わせを、タクシーでカバー可能性な程の余裕をもって出発であった。
それでも、「交通渋滞」という「不運」の連続で、結果的に「目的が達成できなかった」という「不幸」になってしまった。


このように「運」とは、人と物事との出会い「場所・時刻」のタイミングと言えよう。
その出会いは、「必然性」でありながら、そこには(合都合or不都合な)「偶然性」のタイミングがあろう。

出会う物事でも、物事によっては、出会う事が必ず「不運」という物事。
出会う事が「運」でも、「幸運・不運」は、その出会った者の状態次第な物事。


例えば、強盗との出会いは、誰にとっても「不運」。
それでも、何とか逃げられたら、「不幸中の幸い」であり、出会いは「不運」でも、逃げられて「幸運」であろう。


地震や火事の出会い(不運)の時、
日頃から、それらに対する、避難訓練・準備が、出来ていたら、
その被害が少なる可能性がある。

しかし、睡眠・熟睡中の地震・火事の場合、
出会いが「不運」なら、その出会いのタイミングも「不運」…「不運の二乗」で、「超・不幸」であろう。


上記のように「運」を考えられるなら、以下の「チコちゃんの言葉」~



質問~「何で運がいい人悪い日があるの?」

運はタイミング次第で誰にでもいい方向に進められる。
チャンスをつかむことができます。

「運がいい」は、事前の準備・経験で運がつかめている状態。
反対に「運が悪いは、準備ができていない為、運を逃がしている状態。
…という捉え方ができる、ということです。

上記の言葉の意味が、より深く・感情レベルで理解可能であろう。


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私と「武道の理論」・「武道講義」~

2023-10-19 16:31:35 | 新発見と新たな気付き
「武道の理論」・「武道講義」と私~


この表題は、どこかでお目にかかったモノに似ているようだが…
う~ん…過去の玄和会の昇段審査でのレポートの課題に似ている?!

さて、私は、今回の空海お宅のコメントから想い出した事がある。
それは、「武道の理論」を初めて読んだ時の理由・状態…である。

当時の私は、大学のサークル「松濤館流空手道愛好会」所属の大学三回生。
大学図書館で色々な空手関係の著作を読み漁っていた。

そこでの、私の気持ちは「空手が強くなりたい」。
空手の試合(寸止め)・空手の自由組手(寸止め)…で勝ちたい・強くなりたい!であった。

そんな当時の私だから、「武道の理論」よりも、「武道の復権」…の方に魅かれいた…ようだ。
それでも…「感動」というより、そんな風に考えられるとは、凄い…だった。

それが、試合での勝敗の決め方の以下の二通りの視点。
「技の形の優勝さの判定」と「技の使い方・強さの判定」
これには、当時の私に、新たな気付きが与えられた。


そんな私が、その後、月刊空手道誌連載の「武道講義」との出会いでは、大きな感動を得た。
その理由は、当時の私が空手・武道ではなく、日々の暮らしの中での仕事・遊び・恋愛・人生の生き方…に関心があったから、だろう。

「武道講義」との出会いの当時は、一度「青雲塾」へ入会(教員時代)して、その後中途で挫折して数年後であったが…。
その時は、教員を止めて、父のパチンコ店の手伝いをして、それも父との口論で止めて…
その後、父の知り合いのパチンコ店の事務手伝いをしていた頃…。

言うなれば、そんな「人生の迷い人」時代の私が、
出会った「武道講義」だから、非常なる感激・感動が感じられた、のだろう。


人生・環境の突然・急激な変化は、個人レベルの新発見・新たな出会いがあり、
そこには、個人レベルでの新たな気付きが起こり得る。

もっとも…この認識は、今ここでの振り返りをしたから…
今の私の認識で、過去の私の人生を振り返ったからの起こり得た気付きであろうが…


まあ~これも、
私が空海お宅のコメント(時に糞が混じり臭いが…)
と真面目に関わり続けた恩恵であろうか…

糞コメントに出会う「不運」、そんな臭い思いをした「不幸」を、
「新発見・新たな気付き」のと出会いの「幸運」を、
そして、それらを生かして更なる「幸福」を掴み取る為に~








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