tadaさんへ感謝を込めて「非言語認識の言語化」とは?
tadaさん♪♪♪!
気付いてしまいましたよ!「非言語認識とは何か?」を~
そもそも…動物を見ても分かるように、認識は言葉ではない!のです。
なのに…
人間は言葉で認識を表現できています!・
また言葉を聞いて、その言葉が理解できると、その像が描きけます!
それは何故か?
この答えは、とっくに南郷氏の御著書に書かれていますね。
私が、tadaさんの言葉である「非言語認識・言語的認識」から、この数日間に思い描いたモノは、
私が補助に入っている小学一年生達の像、でした。
それは、国語の平仮名の授業の際に、
先生が「『あ』のつく言葉は?」と子供達に言わせた時の事です。
数人が挙手して、一人一人答えていると…
時々自分の順番になると「忘れました」と言う児童がいました。
私は想像しました―『この児童は、何故に忘れたのか?』を~
先生の言葉を忘れたではなく、自分が思い出した「『あ』のつく」言葉なのに…何故?どうして忘れるの…?
この答えを私は以下のように考えました。
その児童は、例えば「アリ」と言おうとしていました。
この児童が「あり」という平仮名を未習得の場合、言葉ではなく「アリの像)を描いている筈です。
何しろ、「あり」が書けないのですから…
この児童は、自分の番が来るまでに、他人の言葉、(例えば)「あし」、「アイス」、「アーモンド」…
を聞きながらそれらの「像」を描いているとします…すると、
その児童の「あり」像が消えてしまった…からだろうと…
大人でも時にあるでしょう!
他人との会話で、自分の思った事を言おうとしていたら、相手の言葉を聞いている内に忘れる事が…
これは、言葉を忘れたのではなく、その像が消えてしまたから・「忘れた!」なのでした。
意志で頭脳に描いた映像認識は、消えやすのです。
対象を感覚器官で描いた映像なら、対象が感覚可能なら消えても見れば現れます。
持ち歩けない対象なら、その対象を言語表現してメモすれば大丈夫でしょうね。
この児童は、目の前に「アリ」がいないのに…「アリ像」を描けています。
これは、人間が自分の意志で、アリ像を描く頭脳活動をしたのです。
でも、例えば、この児童が「アリ」を見た事がなく、「アリ」という音声・言語を聞いた事がないなら、
この児童にはアリ像はなかった筈です。
人間の認識には、感覚器官を使って対象を描いた映像認識があります。
そして、もう一つ、自分の意志で頭脳を使って描いた映像・認識があります。
例えば、人間が、今までに見た事も聞いた事もないモノを目撃した時、そのモノの名前を言えるでしょうか?
名前は言えなくても、見えている姿形は言えますが…
言いたい・伝えたいのに…言葉にならない!
見えている・分かっているのに…言葉にならない!
確かアリストテレスの有名な言葉がありましたね!
???
宗教家が、悟りを開いたのに、言葉にならない!
では、例えば、喋れる幼児が、初めて「イヌ」を見た時に、
それを「イヌ」と言えるでしょうか?無理ですね。
その理由は、その幼児の頭脳内のイヌ像に、
「いぬ」という言葉は付けられていない・教えられていない、から…
「非言語的認識」とは、外界から感覚器官を通した反映像なのです。
その反映像が言葉に結び付けられ、記憶できたなら「言語的認識」になるのです。
この記憶する時に「言語」も一緒に記憶したなら「言語的認識」です。
でも、その反映像・認識は記憶しても、言語が一緒ではなかった時は、未言語的認識、ですかね…
初めての「イヌ」が、「非言語的認識」でも、二回目のイヌは「イヌ」でしょうか?
初めに出会った「ミニダックスフンド犬」がイヌでも、二回目に「シェパード犬」では、
「イヌ」とは幼児なら認識不能で、イヌしは言えませんね。
感覚器官からの対象の反映は、その対象の概念化が、できない内は「非言語的認識」でしょね…
大人の認識は、殆どが「言語的認識」です。
言葉を全く知らない赤ちゃんなら非言語的認識です。
言葉・言語習得過程の児童達なら、非言語的・言語的認識、でしょうね。
過去・現在でも、私が「悟った」と思い込む時は、
私の中で今まで「非言語的認識」だったモノが、言語と結びついたから、のようですね。
言語習得過程での問題は?
「知る」⇒「識る」⇒「悟る」⇒「悟り・悟得る」とは?
見て知る・聞いて知る・匂いを嗅いで知る・食べて知る・触って知る。
見ながら・聞きながら・嗅ぎながら・触りながら・食べて味わって識る。
「識る」事の繰り返し結果の量質転化化が「悟る」。
「悟った」モノを論理的認識化出来た時に「悟りが開く・悟り方を悟る」。
「その悟り方」を繰り返し使い続ける事で技化・感情化出来た時が「悟得」