新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

より自由に認識する「空虚」

2024-04-30 11:55:30 | 自由論
改めて自由に「空虚な言葉の羅列」について~

「空虚」について辞書で再確認した。
>空虚とは、① 中に、何もない事。② 形だけあって、価値や内容が感じられなくて、むなしい事。


成る程…
前回、説いた「言葉・言語の映像化が不能」の空虚とは、
言葉・言語を認識(ここでは自由びと認識)として見て取れずに語彙・語句…
唯の文字・記号としてしか認識できない場合であり…

これで間違いなのだが…
でも言葉・言語を理解可能な普通の大人には、このような事は、ほぼありえないだろう。

ならば…弥勒お宅の「空虚な言葉…」とは、
このお宅が「私の言葉・言語の価値や内容が感じられなくてむなしい」という事なのだろう…

しかし…ここで問題が~
弥勒お宅が「価値・内容」と感じる言葉・言語と私の感じているモノが同一であるとは限らない事。
「無用の用」と言った~一般的には「無用・無価値」でも、それだから「使える(価値ある)モノ」のあり得る…という事であろう。

価値ある内容か否かの判断は、個人的な自由の範囲であろう。
それは、社会的レベルでも、人類レベルの全ての人々に価値あるモノは有り得ても…
全ての人々に無価値なのモノは有り得ない…のだろう…

モノコトは、そこにある・存在している以上は何らかの価値・内容がある。
モノコトは、その存在そのモノに価値があるのだろう。
「有」こそが「絶対的な価値・内容」であり、「空虚」という言葉には、
万人にとって表現価値があっても、現実に万人にとっての共通な空虚なモノコトはあり得ない。

ここは自由びとの個人ブログ~、
ここでの自由びとの自由な価値観の主張は、
全て(自由びとにとっては)「価値・内容」ある言葉・言説であろう。

その自由びと言説・主張に対して「空虚な言葉の羅列」記述・認識は、
ここ・この自由びとブログ内では…
それこそ、全く無意な「空虚な言葉の羅列」となり得る言語・認識であろう。

なんて…論理的な記述では、今ひとつ…ピンとこないでしょうから…

少し事実的に説いてみようかな…


大学四年生のT君が「俺は、東大現役一発合格だ!」と公言した!

それを聞いた中の良い三人の友達A・B・C…が以下のように答えた。

A-「よし!ガンバ!」
B-「空虚な言葉の羅列だね!」
C-「…………」」


この三人とも、今までのT君が、全く勉強をしていない事を熟知している。

そんなT君に~
Aは、日頃の彼の姿は棚に上げて一般論(頑張り続ければ可能)として「頑張れ!」
B君は、辛辣に、日頃から勉強していないAには、そんな言葉は無意味・無価値な「空虚な言葉…」
C君は、AとBの発言を聞いて双方に納得して…何を言えばいいか…迷ってしまい…「無言」

この場合の「空虚な言葉…」は、
日頃のT君を熟知している友達Bの言葉であり、
Tの希望認識vs現実・生活に対しての
「東大現役一発合格」という「空虚な認識…」は、
T君に対して友達として現実の直視を求めた忠告・アドバイス的なモノなのだろう…


このような言葉の記述・発信者を熟知しているモノからT君への「空虚」発言の場合は、
その発信者の現実・事実と、その言葉・認識の乖離の激しさからの「空虚」であり、
その「空虚」表現には、友達としての友情が含まれている。

しかし…ここでの弥勒お宅は、自由びと・私であるを知らない者~
私の日頃の生活を全く知らない者~
知り得ているのは、私がブログに書いている日頃であり生活である…
それら全てが、私の文字・言葉・言語的な認識表現である。

その言葉・言語表現から、それを私の認識・映像化するのは、
弥勒お宅の言語理解能力と人間一般に対しての理解・認識能力~

見た事も、会った事も、直接話した事もない…自由びと・私へ、「空虚」発言・記述…
しかも、この自由びと個人ブログ内でも、そのブログ主への「空虚」発言・記述…

この言動が意味する「人間性」に、
私は、大きな問題がある!ように見受けられる…

それは、例えば、全く見知らない他人の家に突然に訪問して、
開口一番~「この家! 汚い!不潔! だから何とかしろ!」~

そんな言動者のイメージが、
今回の弥勒お宅の「空虚な言葉の羅列」から、
私は認識してしまったが…

弥勒お宅に曰く、「私の幻滅は妄想」~
前向きな「学識豊かな弥勒お宅の姿」認識からの彼?に対する「私の幻滅」は妄想…
だそうだから~

どうやら、弥勒お宅を、私は、自分の都合のよい方に大きく誤解してしまっていたようである。
そこで今回は、そのような誤解無く、正しく、
ここでの、弥勒お宅の言動の現実・事実から上記のよう
弥勒お宅の姿・認識を判断したのであるが…


弥勒さんへ~どうですか?!
何か反論・異論・暴論・イチャモンはありますか?!









コメント (4)
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楽しい自由なお宅とのお宅の墓穴堀♪♪♪

2024-04-28 11:49:57 | 自由論
楽しい自由なお宅の墓穴堀♪♪♪


以下は、最新のコメント欄への弥勒コメント~

>・コメントを書いた人
>弥勒
>・コメント



>言葉を交わし合う価値もないほど相変わらず空虚な文字の羅列ですね。


もう何度目でしょうか…
お宅の>「空虚」な「言葉」の「羅列」という~

この「空虚な言葉の羅列」という記述の内容の事実を、
このコメント欄で、目の当たりにしたのは…

例えば、「田畑一」という漢字を見て「空虚」な「漢字」の「羅列」と言った者がいます。
しかし、この「田畑一」とは、「タハタ・ハジメ」と読み、人名であり、
その者を知っている者には、決して空虚な言葉の羅列ではない…
という事です。


言い換えるなら、
私の記事・記述・文面を見て・読み…認識・映像化可能な者達には、
私の言説は決して「空虚」でも「言葉の羅列」でのない!」という事。

逆から言い換えるなら~
お宅が自由びとの記述を認識・映像化不能だから~
お宅にとっての自由びと言説の多くは「空虚な言葉の羅列」的であり、
また、その「空虚な言葉の羅列」認識はお宅の自由の問題である…という事。


お宅には、自由びとコメントの問題点を上記のように自由びとが指摘したように、
お宅は、自由びと言説に即して、その問題点を指摘する能力がない!ようですね…

「問題がある」なら、それは(空虚な)言葉ではなく、
その言葉を使った者の、自由びとの言葉の意味・概念の把握・認識にある筈。


それなのに…お宅は、
相も変わらず「空虚な」・「言葉の羅列」という決まり文句しか書けていません。
こってれ…「全く進歩・発展が、ない!」という事実の証ですね。



>間違いなく私のお宅への信頼感はゼロですよ。薄っぺらい言葉の羅列、それが自由びとお宅の本質、真実なのですよ。


これまた「信頼感はゼロ」という、もう散々に見飽きた台詞…
「薄っぺい言葉」~これは、記憶にありません!「新鮮な台詞」ですね。


私自身が過去の私の「薄っぺらい認識・感情」に気付けたから…
そう…確かに最近自分の感情(悲しみ・怒り・喜び…)が以前に比べて厚く激しい感覚がありますね…

これを言っても…お宅には理解不能でしょうが…
真に感情が厚く・厚い言葉を発する者達なら…
「他人の薄ぺらぃ言葉」にさえ、「厚い部分を見て取れるモノ」なのですよ!

ここで…一旦、自由びとが「薄いが厚いか」は置いておいて…
その自由びとを「薄っぺらい」と言い切ているお宅も「薄ぺらい」という事なのですよ!





>「文は人なり」とは正に金言で、言葉が不自由で本当は立派な自由びとお宅を表現できていない、と自由びとお宅は思っているようですが、実際は書かれた中身のない空虚な言葉そのものが自由びとお宅という人間なのだということです。


確かに「文は人なり」ですが…お宅のような「薄っぺら認識」?!の者には、
その「文」の中に、的確にその「人」を読み取る事は、至難でしょうね…

もっとも…厚い認識の保持者でも…相手をバカして、
相手の力量・能力を見誤った結果「薄っぺらい」…もあり得ますが…

それは、大人が…「どうせ…幼稚園児・一年生だから」と…
真のその児童の姿が理解不能ような事です。





>「幻滅」とは良かったですね、お宅の頭の中に渦巻いている考えは文字通り「幻想」だからです。お宅の書いている「全てが幻想で妄想でデタラメの嘘つき」だという事実から信頼関係を作れないという本質を等閑視して「ここは自由びとのブログ」だという「ブログ開設したのは自由びとお宅」だということが「全ての権限は自由びとにあり投稿された文章も相手の許可なく手を入れて書き換える」という倒錯したことを行える人間がお宅だということですよ。


ほ!ほ~!
「私の頭の中…幻想」なら…
私の「元々、私に比べて知識も学識も豊富な筈の弥勒お宅なのに…」は幻想という事であり…
元々…現実のお宅には「知識も学識も豊富」てはなく、
ただの糞・ウンチ・小便・オシッコ…お宅というのが、現実だったのですね…
了解しました!
それなら、それで、今ここ瞬間から、私の幻滅は完全消滅ですね。

言葉は社会的なモノ…
お宅は、他人が使った事もない、お宅の個性的な新・造語の使用はなく、
一般的に誰もが使用・駆使している言葉です。
それを再利用して、何か不満なの?

お宅の使用している言葉を、私の認識に合わせて作り変えて何が不満なの?
そんなに「不満」なら、その言葉に特許・実用新案…登録でもしたら如何?



>作りごとの規範を強要するよりも相手と信頼関係を作れない自分の能力を悲しみなさいな。


え!不思議?「作りごとの規範」って何を、
どうように認識したら、そうなるの?

では~
「規範」とは、天か降ってくるの?
「規範」とは、神様の恵み?
「規範」とは、宇宙人からの贈り物?


そもそも…「規範」は、人類・人々・人間が、「考え作ったモノ」でしようが…
それを書くなら~「お宅の妄想での作りごとの規範」…が適切ですかね。

このように「お宅の言語表現」には、現実・事実性の欠如が見受けられます。
だから…私は私の事実に基づいて「お宅の言葉」を「自由びと言語」的に改良して駆使しています。

私は、信頼関係を作るから、当然に「相手を選びます」ね…
誰が、ネット上で、「空虚な言葉の羅列」という言語の意味・概念とその事実を分からずに…
平気で何回も何遍も相手が見飽き程に使い続けていられるお宅!
そんなお宅との「信頼関係を結ぶ」なんてありえませんね。

また、ネット上の宅のような者を信頼する人がいたなら、その人との信頼関係の構築も怪しいかも…
もっとも…本音の自己主張が普通の欧米に比べて
アジアの美徳とは、礼儀であり、建て前、互いに仲良く…ですから~
そのレベルの信頼関係なら、比較的容易にでき得ますが…

お宅の自由は自己中心・超の付く個性的なモノですね…
ここで「私がお宅と信頼関係を作れない」という事実があっても…
そこから、私が「(不特定多数の)相手と信頼関係を作れない…」と言い切れ所が凄い!

それなら、私から言わせて頂くなら、
そのような~「ここでの私の個別的な事実」を、
それを「私の人生全般・一般的な事実に適用する」のは間違っている!

例えば、ある人が「一言バカな事を言ったorしたら」~
「その人はバカ者」ですか?」⇒  違うでしょう!

その意味は、「普段なら、そんなバカ事はしないのに…今日はバカだね!」でしょう…

相手が、真のバカ者なら、その相手に「バカと言っても理解不能です」。
だから、「真のバカにバカ者!」とう人は、バカ者がバカだと分からない「バカ者」なのですよ。

同様な論理から~
自由びとが、「真の空虚な言葉の羅列」者な…
そんな自由人にその言葉をぶつけるお宅は、「真のバカ者にバカ!」と言い切れるバカ者レベル。

何故なら自由びとが「空虚な言葉の羅列」者なら、その、お宅の言葉の意味も分からない「空虚な言葉の羅列」レベルの理解だから…

己が「空虚な言葉の羅列」レベルなら、他人の言葉の意味・理解も、その「空虚…言葉…羅列」だから…



そもそも…ここでのお宅のイチャモン・反論・異論・暴論・コメント・自由な記述…の内容・方法が、自分勝手な自由過ぎる…
言葉は、個人的なモノではなく、社会的な道具の筈…
でも…その使い方が、お宅は我がまま勝手過ぎ…

そんな我がままお宅の言語でも、私の理解は社会的・自分的・自由ですから…
我がままお宅の思い通りの受け取り・理解の仕方は…私には至難ですね…

お宅のコメント文面は、お宅自身の墓穴を掘っている…ように私には思えていますよ!

どうか~どうか~もっと・もっと大きく広い墓穴を掘り続けて下さい!
そのお宅の墓穴堀のお手伝いは、思いっきり楽しく自由にやり続けますよ!

自分独りで自分の墓穴を掘るのは全然楽しくありませんが…
お宅のお手伝いで、二人で一緒に、お宅の墓穴堀なら、喜んで楽しく掘れそうです♪♪♪


相手への反論・異論・暴論・イチャモン・自由論…を~
どうせ書くなら、上記のように書いて頂けたら…
もっと・もっと…楽しく・広く・深く・墓穴が掘れるでしょうね…

仮に、その墓穴が自由びとの墓になり得たら、
それはそれで手間が省けて凄く嬉しい事なのかも…

その時は、更なる新しい墓穴を目指して掘り続けるだけなのですが…






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~自由な人間~

2024-04-27 14:24:55 | 自由論

人間は自由だ!


今回の弥勒コメントを読で、幻滅してしまいました…
元々、私に比べて知識も学識も豊富な筈の弥勒お宅なのに…

これまで自由についても、書きたい放題・言いたい放題・思考放題だったのに…
なのに…「自由の本質」にちっとも近付けていない今回の弥勒コメントには超の付く程の幻滅ですね…

具体的に指摘するなら~

例えば>「先に殴ったか否か」なんてことを保守的に言うこと自体に不可思議というか自己を他者との関係の中で正当化したい欲求が見えてはいます。<という文面ですが…

「先に殴ったか否か」が問題なのは…>保守的<という事ではなく、
その喧嘩・事件発生の「原因」の探求なのです。

そもそも…一般的に「ケンカ(は悪い事)を避けたい」理由は、その結果が悪い方向へ向かう事が多いから…
原因から喧嘩に発展して、双方or片方が不愉快・怪我…をするから…なのです。

だから…徹底的な喧嘩の結果、互いに理解し合い、
双方が有益に終了した喧嘩の原因の追究はないし、その原因が「悪い」と言えません(どころかかえって「良い」かも…)。

そもそも…「自己正当化」は、人間なら誰もがしているモノでしょう。
自由な人間なら、その自由な行為・行動を「正当だ!」と思っているから、するのでしょう。
誰が、自分で不当だと思っている行為・行動を堂々とするでしょうか…
確かに法律違反(法律的には不当)とは(頭・知識的に)思えても…
それでの実行するのは「感情的にやりたい事をやる」(正当)なのでしょうね…

殺人者だって、自己の殺人の正当性を主張するでしょう…
でも…その「加害者の正当性」は、「被害者からは不当性」という事なのです。

「自己の自由」と「他者の他由」が衝突する時、
互いの「不当性の理解・納得」の為に「人間の法律」が創られたのでしょう。
その人間的な「法・法律」以前には、自然法、暗黙の了解、掟、リンチ…だったのでしょう。

誰もが「自己正当化」の欲求の塊ですよ!
そもそも…弥勒お宅の上記のコメント文面も「正当化したい欲求が見えてはいます」ですね…

なので…
そんな自由な人間にとって当たり前・必然事を改めて書いている
弥勒お宅の言説には、狭く浅い自由底・概念が露出してしますね…



>私が何かを述べると無意味な自由びと氏の発言とは乖離して深い意味の言葉となりますから、屁理屈述べて2円だけ支払っている自由びとに数万円の言葉で表現された情報を与えるのは如何なものか?と思案していますね。<



「深い意味」とは、そうですね~
「深くどす黒い悪意」は感じられても…「深く・広い自由意識は皆無」ですね。

ほ~ほ…自由びとは「2円」で、お宅は「数万円」ですか…
大自然のサバイバルの中で、「数万円の札束紙」と
「一円硬貨アルミニュウム金属」では、どちらに価値がありますか?
ここは、自由びとブログ…このコメント欄での私は数万円より、二円の方に価値を感じていますが…


「屁理屈」とは、常に「屁」ではなく、環境・状況の変化・運動中では、正当な理屈・論理・理論…となり得るモノ。
言い換えるなら~
如何なる環境の中でも、自己の屁理屈?!を正当な論理・理論として生かせるか否かは、その者の認識力次第なのですよ!

そうそう~
ここでの、弥勒お宅の使えない「数万円」の札束でも…筆記用具さえあれば、メモ用紙として活用可能ですが…



>2チャンネルの玄和スレッドが停止していても、玄和への批判的な考えはX(ツイッター)の投稿で理解できますね。やはり南郷先生が他流派他団体を批判しまくったことが受け入れ難い団体だとの認識を作っているように思います。


「他人への批判」の何が悪いの?それも、その人間の自由です、

また「自己の他者の自由な批判結果から~他者から批判も他由なのです」
互いに、やり合いたいなら、やればいいだけですよ!

問題は、その「批判の内容」でしょうね…
その「自由」と「他由」の衝突の中で、第三者・世間が、どちらの正当性を認めるか、「世論」の問題でしょう。
または、社会に対する貢献度…ですかね…
玄和会には、多くの大学教授・教師・看護師・医者…がいて、社会的貢献度が高いでしょうが…


空手界では、受け入れがたい団体でも…
会員・個人は、各分野で受け入れられている…ようですね…

だから…他の空手団体の認識は、玄和会・組織・団体にとっては、問題外でしょう。

そうそう…過去に「極真会」は、他の空手・団体に受け入れてもらえず、
世界的規模で極真空手独自の団体を創り上げたモノですが…

玄和会は、空手組織の団体化を求めず、
一匹で闘う「ローンウルフ」的な組織化を求めたようですね…





>その「司法試験に落ち続けていて、収入のために空手の指導を選んだ」だけではなく、「嫁さんがお茶の水女子大を出て東大の大学院を出た」という学歴差に苦闘して「俺は凄いのだ!」と自流の支部のある大学生に自画自賛のメッセージを送っていた南郷先生が噴飯物ですよね。



「司法試験…」が事実か否かは不明ですが…
空手を選んだのは、著書にも書かれているから、事実でしょうね…

「俺は凄いのだ!」とは、己の自由の表現です。
それは、事実的現実的な現在の己の姿に負けそう・ダメそうになり、
そこからの自己の脱却為の自己武勇!ですかね…

人間には、
「自分はダメだ!もう終わりだ…」と思い込む自由も、
「俺は出来る・やれば出来る・凄い奴!」と思い込む自由があります。


どちらの自由を選択するかは、当人の自由なのです。
「出来ない・ダメな現状」だからこそ「俺はやればできる!きっと出きる・だからヤレ!」が必要です。
本当に「真にできる人間には、自己賞賛」は不要ですね。
だって、大谷選手の如く、多くの他人からの賞賛・羨望…の眼差しがあり得るからです。


教師が、自分ダメ人間だと思い込んで、人間の自由な可能性を否定して…
未来ある子供達の教育が可能でしょうか?

そんなダメ人間的な態度・表情の教師から、立派な大人は、育つでしょうか…
もっとも…その教師が自己のダメさを自覚して、
ワザワザ児童の前で、その自己のダメさ批判を見せつけたなら…
その言動・行為から、子供達の自己ダメさ批判も可能でしょうが…

「墳飯物ですね」のお宅には、
未来ある「若者教育」への教育者の姿が分からないようですね…





>菅野幸子さんの護身科なんてものが成立する前は、そんな「お遊び」の稽古などなく「指導者が生徒を殴り付けるような稽古」だった、としたならば「殴ってしまった弊害」というのは団体の最高責任者である南郷先生が請け負うものでしょうね、当然に。


え~!?

「指導者が生徒を殴り付けるような稽古」だった、としたならば「殴ってしまった弊害」…

何を言っているの…

玄和会の稽古では、「生徒を殴る必要は皆無」です。
その声・顔付きで、「一発!カツ入れれば即・解決」ですよ。

児童・生徒・学生を「殴ってしまう・手を出してしまう」先生は、
未熟な者・自己に自信がない者、または自信がないのにあると思っている者…
私も…実際に私は、未熟な過去の自分の姿を、最近痛感しています。

その痛感の理由は、
今の私が過去に比べて、教師として大きく成長できた!からでしょうね…
それは、特別支援学級(知的・自閉的障害児・知的でない情緒障害児)の補助員・通常級の補助員の体験・経験…の結果~
特に、ここ四年間の毎年の新・一年生の補助の連続体験から強烈な認識の変化を実感しています。

組織の「最高責任者」が体罰否定であれば…
その体罰の結果は、その体罰指導して、被指導者・保護者から賛同・同意を得られなかった指導者当人の問題です。
その責任の取り方は、何としても、自己の熱意・思い(自由)を、被害者・保護者の納得・了承を得る事・熱意・思いの深さ…ですなね。

「人生意気に感じる」ですよ!
手を出してしまった程の指導者の「意気・熱意」を実感してもらう事ですね…




>宗教的に倒錯しているお宅=お前には理解できないかも知れませんけどね。



弥勒お宅に「宗教の何か」分かるのでしょうね…
現代で「オーム真理教」が、カルト・宗教の代表のようで…
宗教=悪しきモノ・団体…と思われていますが…


人類の歴史を振り返るなら、キリスト教の教会は、当時は「学校・教育機関」
日本の御寺は、寺小屋・教育機関…

そもそも…当初の人類は、神を人類・人生の拠り所にしていたでしょう…
また、現代の武道会でも「養神館」と…自己の中に「神」を養成するモノもあります。


まあ~この弥勒お宅の言う「宗教的倒錯」とは、
宗教レベルの信心を「玄和空手」に抱いている…という意味でしょうが…


ただ…それでも言える事は、
人間同士の信頼関係とは? 他人の言葉を信じとは?


その人間同士の信頼感のレベルが「宗教レベル」だと、何か問題があるのではしょうか?
それは、裏切られた時のショック・打撃・被害の甚大さ…でしょうかね…

私が「玄和会を宗教レベルで信心しているか否かは不明」ですが…
南郷氏曰く「私の言葉は論理であり事実ではない」から分かるように…

「信頼・信心は論理レベル」であり、実践するのは「自己の自由」…
それは、その論理の自己の現実への適用は、自由であり、適用した者の自己責任…という事なのです。

南郷氏の言葉を信じて実践して不成功なら、
それは自己の事実的選択・決定のミス!という事でしょうね…

南郷氏が成果を出した論理・理論で、自分が出せないのは、自由の問題です。



最後に、「本能依存の動物(ペット家畜以外)には自由は皆無。
しかし、現在人類・人間は、完全に自由です。
その自由の「結果の思い通りの成功・自由」も自由なら、
その自由の「結果の不成功の失敗・不自由」も自由です。


ここでの弥勒お宅のコメントの文面・感情・認識も、弥勒お宅の自由なのです。
この内容が、不快感でも、快感でも、…全ては、弥勒お宅の自由・自己責任なのです。


他人の言動を「愉快と思うのも自由」・「不愉快だと思うのも自由」
「他人の言動」とは、その言葉・行動の「他由」であり、
その「他由」に対する「不快・快感」は、俺の「自由」意志なのです。

特に、視覚以外の他の四感への直接的な刺激が不可能なこのブログでは…

視界的不快(画面の光の強烈性)だけですね。
後は、読み手の認識・理解・想像力次第ですかね…




だから…このコメント欄への「私的な言説への批判・否定・異論・暴論」…全ては、お宅の「自由」です。
それに対しての、自由びとの反論・異論・暴論・反撃論…へのお宅の感じ方・捉え方もお宅の「自由」です。

お宅が、そして私が愉快・不愉快になるのは、
お宅の「他由」であり、また私の「自由」なのですよ!


ここが、そんな所だから、
ここは、「自由びとブログ」なのですよ。






弥勒
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自由・不自由・他由~

2024-04-25 11:08:57 | 自由論

自由・不自由・他由~


自由の二重性~

一つ、自らの目的・目標の選択・決定の自由性。
一つ、自らの目的・無目標達成の為の実践・行為(手段・方法)の選択・決定の自由性。

人間は、自分の思い通りの目的・目標を持てる。
そして、その目的達成の為に思い通りの実践・行為が可能。

思い通りの目的・目標の決定は可能でも、
思い通りの行為・実践をして、必ず目的達成可能だとは限らない。

自由な目標に自由な行為で、目標達成、なら「自由・自由」。
自由な目標に自由な行為で、目標未達成なら「自由・不自由」。
自由な目標に(自由でない)他由な行為で、目標達成なら「自由・他由」。


人が、当人の自由な「目的・目標」を設定して、自由な実践を実行して、失敗した時、「不自由」。
そこで、その人が、「他由」である他人の方法で成功しようと、するのだろう。
それでも、その他人が成功し方法・手段で、自分が、目的・目標達成できる、とは限らない。

その時は、自分で思い付く色々な自由な目的な方法・手段を実践して、目的・目標到達を試行錯誤する、だろう。
または、思いつく、多くの他人の実践を真似して、試行錯誤の実践・行為であろう。


自由な目的・目標が、自分の為だけなら、「自由」
自由な目的・目標が、他人の為なら、「他由的な自由」
自由な目標・目的が、自分と他人の為なら「自由かつ他由かつ自由」






>自由とは、自分の心のままに行動できる状態、または束縛や障害がないことを意味します。哲学上は、人間が行為する際に一つの対象を必然的に追求するのではなく、それ以外の対象をも選びうる能力を指します。

また、仏教では「自らに由る」という意味があり、自らの意志をよりどころにすることを意味した言葉です。執着から解き放たれた状態である「解脱」を表すこともあります。

日本語の「自由」という言葉は、福沢諭吉がliberty(freedomという説もあります

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続・「他由と自由について~」

2024-04-22 17:04:40 | 自由論

続・「他由と自由について~」


前回の<「他由」と「自由」について~>の思考は、少々足りなかったようだ…
そこで、今回は続編として、再思考する事にした。



そもそも…前回は、戦争における国家レベルの思い「他由」と国民レベルの思い「自由」の比較がマズかった…ようである。当初から「他由と自由」を分けて思考を開始したたから…であろう。


では…どこから始めれば上手いのか?
それは、人間の「赤子」からであろう。


人間の「赤子」は、言うなれば「本能の塊」。
快不快の感覚が本能的なら、その不快の解消法も本能的…
しかし…人間の大人は本能レベルの快不快は持ち続けていても…
その解消法は社会的(非本能的・躾・教育的)。


赤子は、その誕生直後に、
その時代・場所での「不快感の社会的な解消法」を周囲から躾けられ始める。


この周囲の躾は、(まだ自我のない)本能的な赤子には、
言うなれば訳も分からずの「他由」の押し付けであろう。

そして、その赤子⇒乳児⇒幼児へと成長過程で、自発的に「社会的な解消法」に従えるようになり得た時、その「他由」だったモノが「自由」へと量質転化化した…言えよう。


「戦争と戦争責任」・「国家的・国民的・個人的」についても再考した…

徴兵制で、国民の参戦が義務化(他由)であっても…
その参戦・不参戦の決定するのは、国民の自由(意志)。
参戦・兵隊へ行くのも「自由」から、行方をくらまして逃げるのも「自由」。


国家の「他由」を強制されても、それに反発する自由・意志はあり得る。
参戦するのも「自由」なら「逃亡・脱走兵」も「自由」。


ただ…国家意志・法律に反する国民・個人的な「自由」行為・行動の結果には、国家的な処罰がある、…というだけであろう。

本来の戦争責任は、戦争を決定した最高責任者が負うべきモノであり…
直接戦争を指揮した者達の責任だけではない…のに…


それでも…最高責任者が責任を取ったら…
その国家は、国家として存続可能であろうか…という問題が…

だから…


今回の私の精神活動である「自由について」の思考の上記のような発展…
そのキッカケは、弥勒お宅の「他由」という言葉・概念の提示があった事であり、
「他由」と「自由」を相対的独立的思考から、対立物の統一的思考へと、
私が発展的に思考させた結果であろう。


個体としての人間の始まりは、ひと的な本能レベル「赤子」から…
人類の始まりなら、人類以前のサル類から、
国家の始まりなら国家以前の原始共同体から…

モノコトは、そのモノコトの生々(生成)から始める方が、
思考・精神活動が、より深く・広く・豊かに展開可能であろう。

ただ、その思考の展開・活動(正確さ)は、現在の私が持ち得ている(正確な)知識の範囲であろうが…

それでも…このブログでは、
私に比べて非常に知識豊かな弥勒お宅の反論・異論・暴論・罵倒・侮辱…のお蔭で…
私は、私の実力以上(私の範囲以上)の思考・精神活動の発展・展開をし得ている、ようである…









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