新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

多重の構造について…

2018-12-16 10:42:09 | 想い思い考える


京都弁証法認識論研究会の
2018年12月13日の
記事「堀尾輝久『教育入門』感想文(1/4)」の中の
以下の記述を読んで、思い、考えた事~

~~~~転写開始~~~~


………前略………


 ここで特に重要なのは、第二段落で書かれている「一般に、近代の教育組織が複線型(dualsystem)としてとらえられるのに対して、近代教育の三重構造を指摘した」というところになるだろう。この三重構造とは、『教育入門』では「支配者層(ブルジョアジー)の自己教育の思想」「支配者層による大衆教育の現実とイデオロギー」「労働者階級の人権としての公教育の思想と運動」(p.37)とされている。



 要するに、支配者層による支配者層に対する教育と思想、支配者層による大衆に対する教育と思想、大衆による大衆に対する教育の思想という3つがあるということになるだろう。通常ならば近代の教育は支配者層の教育(エリート教育)と大衆教育という二重構造(複線型)で捉えるのだが、教育する主体と教育される対象という観点から、そこに三重の構造があると指摘したということなのだろう。これは非常に納得のできる指摘である。

………後略……

~~~~転写終了~~~~
>そこに三重の構造があると指摘したということなのだろう。

① >支配者層による支配者層に対する教育と思想
② >支配者層による大衆に対する教育と思想、
③ >大衆による大衆に対する教育の思想、



ここに、思った事は、
「大衆による支配者層に対する教育と思想」が、
あれば、四重の構造となると…である。

だが…そこで思った~
現実的に「大衆による支配層に対する…」はあり得ない、と…

そこで、本当にそうだろうか?を
具体的な学校教育に置き換えて考えてみた。

学校での授業・教育場面では、
教師(先生)and学生(生徒)の二通りに分けられる。

これを大きく書くなら、
教育者と被教育者、
教える立場と教えられる立場、
教える者と教えられる者、
教える者と学ぶ者、

授業中に、
教師が教師を教育する場面や
学生が教師を教育する場面はない。

それでも、職員室で、
ベテラン教員が新米教員を教育する事はあり得る。

または、休み時間に担任教師が、
クラスの生徒間の関係性について、
生徒から教えてもらう事もあり得る。

更に、生徒同士が、
授業の内容について教え合う事もあり得る。


以上の事から、
抽象的な教育関係では、
教育者と被教育者、という一重の関係でも、

具体的な教育場面では、
教師が学生に対する教育、
教師が教師に対する教育、
学生が学生に対する教育、
学生が教師に対する教育、
の四重の構造が考えられる。

このような四重の構造を持ちつつも、
結局は、
教育をする者と教育を受ける者、の
一重の構造である。


ひとつから多くへ、
多くはひとつから、
という事なのだろう…?!







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意地の引き方

2018-12-09 12:19:00 | 教育

以下のような、お宅くんコメントの記述に、
以下のコメントの下のような私コメントを書いた。


[A]>最近、近所のデパートで4歳ぐらいの男の子を連れたお母さんが「◯◯したからアイスは買わないと言ったでしょ!」と泣き叫ぶ子を怒ってる場面に遭遇しましてね。何か決まり事を破ったらアイスクリームは買ってあげないと約束していたみたいなんですが、あまりにその子がギャンギャン泣き叫ぶからそのお母さん「約束破ったんだからアイスは買わないからね!」なんて怒りながらもキャラメルコーンを買ってあげてるのを見て「ああ、約束したことをお母さんのほうから撤回してしまったなら子どもが何だ約束破ったって別に平気じゃないかと軽く見てしまいかねないから、あくまでも約束事を守りながらも子どもの感情をコントロールしていくのか!」と主婦という仕事は頭を凄く使うんだなと驚きの体験をしたわけです。<


<B>コメントありがとうございます。

親が子の手本・模範になる、
事は痛感しています。

よい手本を見せる事も必要。
悪い手本を見せる事も必要。

親が子に対して、
親の意地を引いてみせる手本も必要だと痛感しています。

今回の場合は親が子に対して、

「ゴメン!アイスを買ってあげたいけど、買えない。ゴメン!」
「だって、××とは、○○したら買わないって約束したでしょう!」
「ここで、アイスを買ったら、おかあさんが嘘つき・約束破りになっちゃう!」
「おかあさんは、××に嘘を付きたくないのゴメン!」
「××は、おかさんに嘘つきたい?嘘つきになりたい?」<>



今回、改めて<A>を読み返したら、
これは、これで、母親が自ら意地を引いている事に気付いた。

それは以下~

>「約束破ったんだからアイスは買わないからね!」なんて怒りながらも
>キャラメルコーンを買ってあげてる
……
>あくまでも約束事を守りながらも子どもの感情をコントロールしていく…



確かに、母親の心では約束―
>◯◯したからアイスは買わないと言った<ー
を守った事になる。


しかし…
その男の子にとっては、
それは
「○○しても…アイスはダメでもキャラメルコーンは買ってもらえる」
というモノである。

これでは、
「○○するという」ダメな事をしたから、「アイス買わないという」罰がある、
○○すると不快感・罰がある、という行為に対する感情・認識形成にはならない。

その理由は、アイスもキャラメルコーンも子供にとっては同じ「快」だから…

ならぱ如何にすれば、いいか?

ここで、言葉の登場・駆使である。

ここは、母親は「怒り」を収め、冷静に
「○○したからアイスはダメ!」
「でも…『頑張って○○しない』と約束できるなら…」
「今回はアイスはダメ!だけど…キャラメルコーンなら買ってあげれる」
「でも、また○○したらキャラメルコーンもダメだよ!」



もっとも…
「○○したらダメ」というより、
「●●しようね!の方が、
より理想的であるが…


確かに、このお母さんの努力は認められる。
しかし、今回は、それは、それで良しとしても…

次の時は、より納得・満足し得る行為が望ましい。
それは、過程は兎も角、結果的に母親も子供の笑顔で納得・満足し得るモノである。

この場合なら、子供が泣き止められて、
「うん、頑張る!約束する!」と確りと言えた、
なら…である。


そうそう…
ここでの問題は、
「『○○しない』という約束を守る」努力をしていない事。

これを一般化するなら、
「…努力をしていない(努力不足)」と言える。

さすれば、この場合に、
親がすべき行為は、
子供に「努力させる・努力を教える・努力を実感させる」
である。

その為には、
先ずは、親が子に努力を見せる事・努力。
それは、親の「怒り」を収める事・努力。

次に、子に「泣き叫ぶ」を止めさせる事。
そして、
親は冷静な状態で、
子に巻き叫ぶの止めた状態・維持で「約束を守る」努力の約束をさせる。


そう~
ここでの最重要課題は
感情コントロール・方法の体得・修得である。

○○しない約束を破って、○○してしまった時、
それは、「○○したい」感情が、「○○しない」約束を守る感情に勝ったからである。
もっとも…この場合「約束を守る」感情は、「約束破るとアイスはダメ」感情である。


これは、
「○○する」快感と、「○○したら」不快感、という対立である。
「快感を得たい」感情と「不快感は避けたい」感情の対立である。

この方法だと、快感の制止には、より強度の不快感が必要である。
それは、子供の失敗の度に、より強度の不快感を与える事になる。

だから、理想は「○○したいと思った時は●●しよう」である。

そして、
子供が●●にならずとも、
少しでも●●に近づけた時、
そこは大げさに褒め称える・快感を与える事である。

それは、お母さんの快感の全身表現であり、
そして、子供の身体への快感を表現でもある。
その時、母親の快感と子供の快感の共鳴で、
更なる快感の増幅が起こり得る。


○○しない約束では、したら快感、しないと不快感…
●●しよう約束なら、少し・一部でもできたら、快感…

コメントの例なら、
泣き叫ぶ事を、ほんの少しでもできたら褒める・快感。
次回の努力約束が言えたら、誉める・快感。

不快感は、一つの劇薬的モノである。
教育過程でも、使い方は、毒を持って毒を制す、的である。

これは、体罰の使用にも言える事であるが…


そうそう~
一つ忘れていた事を思い出した。
それは、
意地と意志の区別と連関である。


この場合、
母親が「怒り」を鎮めるのも、意志なら
子供が「泣き叫ぶ」を止めるのも、意志である。

母親は、将来子供の為を想い、自分の怒りを鎮め。
子供は、将来の自分の為に、自分の泣き叫ぶを止める。
…が理想であるが…



母親は、回りを気にして怒りを鎮め、
子供は、母親に叱られて泣き叫ぶを止める。

人間にとっての意志とは、
その始まりは、自分の為であり、
決して、それは人の為ではない、
のだろう。

自分にとって、対象がこの上なく大事な時、
己の感情に逆らう意志の誕生なのでは?


感情に従うのも意志なら、感情に逆らうのも意志。
意地になるのも意志なら、意地を収めるのも意志。

動物と違って、本能的でない人間にとっての意志とは?

意志の行使・停止の判断・決定や如何に?
そこには、
感情的な判断・決定と理性的な判断・決定とが、考えられる。

人間にとっての感情とは?
その個人の感情とは?

人間の理性とは?
個人の理性とは?


感情の裏には、
この感じが、俺だ!・正しい…といった理性的判定が…

理性の裏には、
この考え方は正しい・間違いない・過去に上手くいった感じ方が…


私にとって、
「意志と意地」は、
今後も考え続ける課題でもある。
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概念化・再措定について…

2018-12-08 10:28:33 | 言葉・概念



コロコロとHDを変えて投稿してくる
お宅くんのコメントから以下の記述に
惹かれた。

その理由は、
「同じ言葉なら、その概念も同じなのか?」
である。





…………転写開始…………

もっとも南郷さんの「武道の理論」の「技を作る、使う」という発想が宮本武蔵の「五輪書」の「剣術の修業を鍛練という刀の製造工程に例えた」ことの盗用だとも知らないお前に他人に何かを語り教えようとする資格も能力も有りはしない。

千日をもって鍛、万日をもって錬、という考えを、古流剣術の研究者たちは「昔日の剣術家たちは己自身が日本刀になろうと欲した」と評する。

南郷さんの「創出使用」論の出る幕はない。

…………転写終了…………


剣道の例なら~
初段レベルの剣士が、
無手で刃物を持った相手と対等に闘えるだろうか?


剣道の達人レベルなら、
その刀剣の極意を、
無手で体現可能だろう。

さて、その無手の達人剣士が空手的技を駆使して、
相手を倒した時、それは空手技の盗用なのか?

それは違う。
その達人は、
刀剣の極意を空手的に体現したのである。

鉄を日本刀・真剣をつくり変えよう、
という意識は比較的簡単に持ち得る。

ならば、自身を身体を日本刀・真剣に創り変えよう、
という意識はどうだろう?

確かに、真剣・日本刀を持って、
それを駆使して、
真剣的な身体の使い方は創れる、だろう。

ならば、
初めから無手で真剣的な身体を創り得るだろうか?

他人と同じ言葉を使ったからと言って、
その言葉の概念が、その他人と同じだとは限らない。


同様に、
他人と異なった言葉を使っていても、
その言葉の概念が同じ場合もあり得る。

そもそも…「盗用」とは?

他人の日本刀を持ち主に無断での使用が盗用である。
他人と同じ日本刀を自ら創出し使用した時は?
他人を真似て日本刀を創出した時は創出法の盗用か?

ネットで公開されている方法を真似たら盗用か?


そもそも…誰もが知り得ているだろう言葉…
「技を作る・使う」という言葉を堂々と使っているなら、
それを「盗用」と言うのは如何なものだろう。

剣道の「技を作る」とは、
刀の使い方・技を作る事であり、
刀そのモノの作る事ではない。

日本刀を創るには、鉄・金属が必要である。
果たして誰が、鉄・金属から作り始めよう考えたか?


「武道の理論」の「技を作る・使う」の発想とは、
剣道で例えるならば、
真の日本刀に相応しい金属から創ろうというモノである。

決して、
そこに、あるがままの鉄・金属を
加工して日本刀を作ろう。ではない。


他人の言葉を「盗用」という決めつけから始める事に何の御利益があるのか?
他人の言葉の意味・意義・概念を知り・識って、それを吟味する事から御利益が生まれる。


そこに「ない」が「ある」なら
ある「ない」が「ない」から始め、

そこに「ある」なら「ない」から始め、


初めに「盗用がある」と思うなら、「盗用はない」、から始め、
初めに「盗用がない」と思うなら、「盗用はある」から始める。


そもそも、そこに「盗用」があるか・ないか、
という事は、私が判断するモノではない。

私のすべき事は、その事物との関わり中から、
可能な限りの御利益を得られようとする事。
御利益の得られるような関わり方をする事。


「技を創る・使う」という言葉・概念を剣道ではなく、
武道空手で「創り・使う」事が、最重要課題であろう。


それを「盗用」なんて書いて満足している、
お宅くんの頭脳ではない頭の中身が想像できるね!
















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・全てはひとつ・ひとつは全て・

2018-12-07 09:20:34 | 言葉・概念



ポリティコス・コメント
>プラトンやデカルトのやった仕事は子供の遊びで大人のやるこっちゃないというわけですか(笑)。

奴は、
↓以下の月研ぎ氏の「外に連れ出す」を読んで、
どうして、↑のように理解するのだろうか?





月研ぎ

・タイトル
外に連れ出す

・コメント
マラソンの高橋尚子を育てた
小出監督があるテレビ番組で
「子供は大人の言葉は聞かないけれど、
態度の方はちゃんと見ていて、
それを学ぶ」と言っていて、
本当にそうだと共感します。

偏差値教育・詰め込み教育に
染まっている子供たちは、
学校という枠から離れているという
実感を得るためにも、
正解の見つけられない問題を
いつまでも考えることを欲しています。

考えるという本質的にゴールが無い
トンネル堀りは、
彫り進んだ壁面のすべてが、
次に掘る=考える手掛かりになります。
これって面白いですよね。

ひとりでああでもないこうでもないと、
なかば思考しなかば空想したりしている
状態を一日中生きているのが子供で、
そういうトンネル堀りの状態に
耐えられなくなった人から
順番に大人になっていきます。

プラトンやデカルトのような哲学者は、
生涯トンネル堀を続けた人でなのです。

OK君と自由びとさんのやりとりの
「わからない」部分は、
人間を通常の安定した言葉の領域の
外に連れ出すから、とても面白いのです。






上記の月研コメントの、
どこにも「子供の遊び」とは書いていない。
当然に、「大人のやるこっちゃない」とも書いていない。



なのに…奴は
>プラトンやデカルトのやった仕事は子供の遊びで大人のやるこっちゃないというわけですか(笑)。
と言い切っている。

どうして?
なぜに?


私は以下のように理解した。

学校の教科書は、子供たちの身近な現実から目を逸らし、
大人の現実(子供のとっては非現実)へと目を向かせ、羽ばたかせるモノ。

大人にとっての現実・社会と子供にとっての現実・社会は異なっている。

子供達の課題は、
学校で教えられた、子供達にとっては、非現実的な大人の現実を、
如何に自分の思考・空想の世界の中で、自己の現実と結びつけられる事。





「プラトンやデカルトのような哲学者は」、
普通の大人にとっては非現実的な「理想・社会」を、
現実的なモノとして、思考・空想し続ける人達…

他人の思考・理想と自分の思考・理想の一致を求めてこそ、
己の成長・発展が起こり得る、と私は考える。

相手との一致とは、
相手を理解した上で、
その一致・不一致を認識し得てこそ、ある。


その根底には、
相手への信頼感、
相手も自分の世界の一部と言う体感・一体感、

しかし、
「信頼感」も「一体感」も感情であり移り変わるモノ、
時には唯の思い込みでさえあり得るモノ、

だからこそ、
人類すべてに共通な哲学・学問が、
いつの世も求められていく、のだろう。

当然に、
このブログでも、
求め続けらてゆく
そんなモノである。




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~意地~OK君の場合は…

2018-12-02 20:07:04 | 日記

OK君は、小学校中学年の児童で、
体格は比較的大きく、体重も結構重く、
怒りっぽく乱暴である。

そんな彼の事を殆ど知らず…
プールの授業補助の時である。

気が付くと、彼がプールサイドの児童見学席の上を歩き回っていた。
男子数人は、傍に腰かけていたが…
女子二人は、席に腰かけられず下に直接座っていた。

教員が気付いていないようなので、私が近づいてKO君に注意した。
何度か注意したが、なかなか腰かけようとしないので、
仕方なく、きつく言ったら…

なんと私に向かって蹴ろうとして来た!
そこで、私がドスを聞かせた低音で、
「ほ~やるなら…遠慮しないぞ!」と脅したら、
大人しく腰かけた。

そこで、少し説教と思い色々と説いて聞かせていたら…
口答えもなく、静かに聞いていたと思っていたら、
なんと~突然、立ち上がって、出口の方へ向かって歩き始めた、のである。

私が、止まるように声かけをしても、
黙ったまま出口の方へ歩き続けた。

プールの階段を下りて、更衣室の横を通って、
もう直ぐ出口に到達…

私、「どこへ行くの?」と尋ねると、
OK君、「教室へ…!」
私、「教室には誰もいないからダメ…」
OK君、「じゃ…家に帰る!」
私、「家に帰るなら校長先生の許可を…」
OK君、「何で?」
私、「学校では一番偉いから…!」
OK君、「関係ない!…」

………………

この時、私は非常に困った。
普通の児童なら、「校長先生」と言ったら、
諦めてこちらの指示に従うのだが…
しかし、OK君には、その手が通じない…

私が担任教師だったら、
「ふざけるな!プールに戻れ!」と
大声で一喝すれば収まるのだろうが…
補助員の私には、それは…でき難い、のである。

以前の小学校でベテラン教諭に補助員について質問したら、
補助員は、教員の補助なので、教員の指示なく、
補助員の判断で、児童の直接的な指導は出来ない…
と言われていたので…

かと言って、ここで他の教員の助けを借りるのは…
私としては不甲斐ないし…
そこで、必死に考え出したの以下のよう事・言葉である。

………以上は、後に自分を振り返っての感想であるが……


私、「OK君って男らしいな!」
私、「そこまで意地を張れらなんて…」
私、「私もOK君を見直した!凄い!…」

と、言うように、彼の意地を認め、褒め称えたのである。
もっとも…本当の所は、呆れて、万策尽きたのであるが…

すると…なんとビックリ、OK君は、黙って振り返り、歩き始めた。
そして、そのまま、元居た児童見学席へ戻って腰かけた、のである。


この体験には、私も少々驚いている。


昼休みの時に、通級の担当に会って、
事の次第の説明と彼の様子を尋ねたら、
「OK君から聞きました。今はもう普通ですよ!」
と言われ、少々安堵した。

更に、
当日のプールは、急な時間割の変更で…、
OK君は水着を忘れてしまい泳げずに、
とても不機嫌だった…事を
教えてくれた。

そして、言うには、
不機嫌な時の彼には、理屈・道理は通じませんよ…
といったような事だった。


この五年間の経験から、私が思う事は、
教師でない今の私は、児童によって、
その子に意地を張らせてダメ…
なのだろう…

低学年なら、補助員も担任も同じ先生として同等であるが…
中学年や高学年になると…補助員は格下と思っている、ようである。









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