~論点の相違~(元になる事実の相違)
以下は、旧・「悟りを求めて…」の記事
「運がいい」とは?2023年10月14日
での空海お宅とのコメントのやり取りがある。
>この記事へのコメント
>何故か「新悟りを求めて」のほうにコメントできないので、こちらに書きます。
>>「武道の理論」に感激可能な認識力がなかった
>それは興味深いですね。具体的に詳しく説いてください。
>私の場合は最初は食い入るように読んだのですが、現在では「武道の理論」の「武道の道場から神棚を無くし科学化する」というマルクス主義的な考え方は「自然科学的」であって「社会科学的・国家論的」ではなかったのだと理解しています。
>それは武道場に神棚や鹿島大明神だとか香取大明神の掛け軸があることは日本の歴史における法に基づいて武力・強制力を発揮することを現していたからです。
Posted by 空海 at 2023年10月16日 13:07
「感激がなかった」とは、
この言葉通り「激しい感情の変化」がなかった。
言うなれば、
そのようなモノなのか(という感情)…です。
Posted by 自由びと at 2023年10月16日 13:34
>いいえ、そういうことではありません。
>私が自由びとさんの記述を「モザイク」だとしか反映できないのは私の認識力の問題だと、その実証が「武道の理論」を読んだときに「感激」がなかった、しかし「武道講義」や「学城」には感激があった、ということの説明です。
>つまり、最初は感激しなかったが、後に感激したという「特別な本としての「武道の理論」の意味」についての説明を聞きたいのです。
>そして、それが私が「モザイク」だと感じた文言が実はモザイク的な発言では無かった、ということの実証と、どう繋がるのか?という筋道立った説明です。
Posted by 空海 at 2023年10月17日 03:46
↑
ここでの、私は、私が初めて「武道の講義」を読んだ当時の私の認識力の実力レベルと、
その後、月刊空手道誌に連載された「武道講義」を読んだ時の認識力の相違の事実を説いている(つもり…)。
「武道の理論」に比べて「武道講義」が特別、という事が言いたいのではありません。
それは、以下の事実からも言えます。
当然、その後、「武道の理論」を再読・再再読の過程で、
初めて読んだ時にはなかった「感動」があった(という事実もある…が、ここでは書かれていない)
より正確な言葉で書くなら、
何故に当時の私に「感動」がなかったかのか?
という事の理由が分かった・痛感した…という事実。
それは、
「感動・感激」した人達の感激・感動の理由が、
私の感情として理解可能になり得た、から…
このような私の記述が、
私の認識とその認識の表現である言語の相違でもある。
そもそも…お宅が私の言語表現を「南郷氏の言葉のモザイク」と感じるのは、
お宅が南郷氏の著書を読み込んでいるから、であり、
南郷の著書を知らず読んだ事のない者なら決して感じ得ない「感想」である、という事。
その言葉…お宅の言葉・表現は、お宅の認識力・能力ㇾレベルのなせる技、であろう、と書いている。
南郷氏の言葉を知らない者なら、
私のブログで事実・体験・経験…を書かれた部分と私の論理的言語の部分を突き合わせながら、
その言葉の意味・内容を理解しようとする筈である。
その時の感想は決して「南郷氏の言葉のモザイク」となり得ない。
そもそも初めから…お宅は、南郷氏の著書の読み方が間違っている。
本来の南郷氏の著書の正しい読み方は、
南郷氏が書いている事実的表現部分を「事実と信じて」、
その事実と彼の論理的表現部分を「重ねて読み続ける」事である。
当然、この「新・悟りを求めて~」ブログも、
自由びとの書いている事実的部分を「事実だと信じて」、
その論理的部分の表現・言葉を重ねて理解する必要がある!
しかし、空海お宅は、事ある毎に「私の事実的表現」を否定して、コメントを寄越し続けている。
そんな、読み方では、自由びとの記述が「モザイク」と感じるは、避けられない事であろう。
理由は、私の論理の元にある事実と、お宅の中にある事実の間にに大きな相違があるから…
↑
~なんて書いても、この空海お宅に、きっと私が何を言いたいか…理解不能であろう…
悲しい事に、それが空海お宅の認識・理解能力レベルの限定であろうから…
なので「>そして、それが私が「モザイク」だと感じた文言が実はモザイク的な発言では無かった、ということの実証と、どう繋がるのか?という筋道立った説明です。」
↑
この「自由びと表現がモザイク…」という問題の二重性~
一つ、私が、私の認識を、空海お宅が「モザイク」と読み取ってしまうレベルでしか表現できていない問題。
一つ、空海お宅が「モザイク」と感じる自由びとの言説・表現から、その裏にあるその認識を自由びとレベルで読み取れない問題。
以下は、旧・「悟りを求めて…」の記事
「運がいい」とは?2023年10月14日
での空海お宅とのコメントのやり取りがある。
>この記事へのコメント
>何故か「新悟りを求めて」のほうにコメントできないので、こちらに書きます。
>>「武道の理論」に感激可能な認識力がなかった
>それは興味深いですね。具体的に詳しく説いてください。
>私の場合は最初は食い入るように読んだのですが、現在では「武道の理論」の「武道の道場から神棚を無くし科学化する」というマルクス主義的な考え方は「自然科学的」であって「社会科学的・国家論的」ではなかったのだと理解しています。
>それは武道場に神棚や鹿島大明神だとか香取大明神の掛け軸があることは日本の歴史における法に基づいて武力・強制力を発揮することを現していたからです。
Posted by 空海 at 2023年10月16日 13:07
「感激がなかった」とは、
この言葉通り「激しい感情の変化」がなかった。
言うなれば、
そのようなモノなのか(という感情)…です。
Posted by 自由びと at 2023年10月16日 13:34
>いいえ、そういうことではありません。
>私が自由びとさんの記述を「モザイク」だとしか反映できないのは私の認識力の問題だと、その実証が「武道の理論」を読んだときに「感激」がなかった、しかし「武道講義」や「学城」には感激があった、ということの説明です。
>つまり、最初は感激しなかったが、後に感激したという「特別な本としての「武道の理論」の意味」についての説明を聞きたいのです。
>そして、それが私が「モザイク」だと感じた文言が実はモザイク的な発言では無かった、ということの実証と、どう繋がるのか?という筋道立った説明です。
Posted by 空海 at 2023年10月17日 03:46
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ここでの、私は、私が初めて「武道の講義」を読んだ当時の私の認識力の実力レベルと、
その後、月刊空手道誌に連載された「武道講義」を読んだ時の認識力の相違の事実を説いている(つもり…)。
「武道の理論」に比べて「武道講義」が特別、という事が言いたいのではありません。
それは、以下の事実からも言えます。
当然、その後、「武道の理論」を再読・再再読の過程で、
初めて読んだ時にはなかった「感動」があった(という事実もある…が、ここでは書かれていない)
より正確な言葉で書くなら、
何故に当時の私に「感動」がなかったかのか?
という事の理由が分かった・痛感した…という事実。
それは、
「感動・感激」した人達の感激・感動の理由が、
私の感情として理解可能になり得た、から…
このような私の記述が、
私の認識とその認識の表現である言語の相違でもある。
そもそも…お宅が私の言語表現を「南郷氏の言葉のモザイク」と感じるのは、
お宅が南郷氏の著書を読み込んでいるから、であり、
南郷の著書を知らず読んだ事のない者なら決して感じ得ない「感想」である、という事。
その言葉…お宅の言葉・表現は、お宅の認識力・能力ㇾレベルのなせる技、であろう、と書いている。
南郷氏の言葉を知らない者なら、
私のブログで事実・体験・経験…を書かれた部分と私の論理的言語の部分を突き合わせながら、
その言葉の意味・内容を理解しようとする筈である。
その時の感想は決して「南郷氏の言葉のモザイク」となり得ない。
そもそも初めから…お宅は、南郷氏の著書の読み方が間違っている。
本来の南郷氏の著書の正しい読み方は、
南郷氏が書いている事実的表現部分を「事実と信じて」、
その事実と彼の論理的表現部分を「重ねて読み続ける」事である。
当然、この「新・悟りを求めて~」ブログも、
自由びとの書いている事実的部分を「事実だと信じて」、
その論理的部分の表現・言葉を重ねて理解する必要がある!
しかし、空海お宅は、事ある毎に「私の事実的表現」を否定して、コメントを寄越し続けている。
そんな、読み方では、自由びとの記述が「モザイク」と感じるは、避けられない事であろう。
理由は、私の論理の元にある事実と、お宅の中にある事実の間にに大きな相違があるから…
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~なんて書いても、この空海お宅に、きっと私が何を言いたいか…理解不能であろう…
悲しい事に、それが空海お宅の認識・理解能力レベルの限定であろうから…
なので「>そして、それが私が「モザイク」だと感じた文言が実はモザイク的な発言では無かった、ということの実証と、どう繋がるのか?という筋道立った説明です。」
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この「自由びと表現がモザイク…」という問題の二重性~
一つ、私が、私の認識を、空海お宅が「モザイク」と読み取ってしまうレベルでしか表現できていない問題。
一つ、空海お宅が「モザイク」と感じる自由びとの言説・表現から、その裏にあるその認識を自由びとレベルで読み取れない問題。