新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

~論点の相違~(元になる事実の相違)

2023-10-19 11:37:43 | ~ものは考えよう~
~論点の相違~(元になる事実の相違)



以下は、旧・「悟りを求めて…」の記事
「運がいい」とは?2023年10月14日
での空海お宅とのコメントのやり取りがある。


>この記事へのコメント

>何故か「新悟りを求めて」のほうにコメントできないので、こちらに書きます。

>>「武道の理論」に感激可能な認識力がなかった

>それは興味深いですね。具体的に詳しく説いてください。

>私の場合は最初は食い入るように読んだのですが、現在では「武道の理論」の「武道の道場から神棚を無くし科学化する」というマルクス主義的な考え方は「自然科学的」であって「社会科学的・国家論的」ではなかったのだと理解しています。

>それは武道場に神棚や鹿島大明神だとか香取大明神の掛け軸があることは日本の歴史における法に基づいて武力・強制力を発揮することを現していたからです。
Posted by 空海 at 2023年10月16日 13:07



「感激がなかった」とは、
この言葉通り「激しい感情の変化」がなかった。

言うなれば、
そのようなモノなのか(という感情)…です。
Posted by 自由びと at 2023年10月16日 13:34



>いいえ、そういうことではありません。
>私が自由びとさんの記述を「モザイク」だとしか反映できないのは私の認識力の問題だと、その実証が「武道の理論」を読んだときに「感激」がなかった、しかし「武道講義」や「学城」には感激があった、ということの説明です。

>つまり、最初は感激しなかったが、後に感激したという「特別な本としての「武道の理論」の意味」についての説明を聞きたいのです。

>そして、それが私が「モザイク」だと感じた文言が実はモザイク的な発言では無かった、ということの実証と、どう繋がるのか?という筋道立った説明です。
Posted by 空海 at 2023年10月17日 03:46


ここでの、私は、私が初めて「武道の講義」を読んだ当時の私の認識力の実力レベルと、
その後、月刊空手道誌に連載された「武道講義」を読んだ時の認識力の相違の事実を説いている(つもり…)。

「武道の理論」に比べて「武道講義」が特別、という事が言いたいのではありません。
それは、以下の事実からも言えます。

当然、その後、「武道の理論」を再読・再再読の過程で、
初めて読んだ時にはなかった「感動」があった(という事実もある…が、ここでは書かれていない)
より正確な言葉で書くなら、
何故に当時の私に「感動」がなかったかのか?
という事の理由が分かった・痛感した…という事実。

それは、
「感動・感激」した人達の感激・感動の理由が、
私の感情として理解可能になり得た、から…


このような私の記述が、
私の認識とその認識の表現である言語の相違でもある。

そもそも…お宅が私の言語表現を「南郷氏の言葉のモザイク」と感じるのは、
お宅が南郷氏の著書を読み込んでいるから、であり、
南郷の著書を知らず読んだ事のない者なら決して感じ得ない「感想」である、という事。

その言葉…お宅の言葉・表現は、お宅の認識力・能力ㇾレベルのなせる技、であろう、と書いている。

南郷氏の言葉を知らない者なら、
私のブログで事実・体験・経験…を書かれた部分と私の論理的言語の部分を突き合わせながら、
その言葉の意味・内容を理解しようとする筈である。
その時の感想は決して「南郷氏の言葉のモザイク」となり得ない。


そもそも初めから…お宅は、南郷氏の著書の読み方が間違っている。
本来の南郷氏の著書の正しい読み方は、
南郷氏が書いている事実的表現部分を「事実と信じて」、
その事実と彼の論理的表現部分を「重ねて読み続ける」事である。

当然、この「新・悟りを求めて~」ブログも、
自由びとの書いている事実的部分を「事実だと信じて」、
その論理的部分の表現・言葉を重ねて理解する必要がある!

しかし、空海お宅は、事ある毎に「私の事実的表現」を否定して、コメントを寄越し続けている。
そんな、読み方では、自由びとの記述が「モザイク」と感じるは、避けられない事であろう。
理由は、私の論理の元にある事実と、お宅の中にある事実の間にに大きな相違があるから…


~なんて書いても、この空海お宅に、きっと私が何を言いたいか…理解不能であろう…
悲しい事に、それが空海お宅の認識・理解能力レベルの限定であろうから…


なので「>そして、それが私が「モザイク」だと感じた文言が実はモザイク的な発言では無かった、ということの実証と、どう繋がるのか?という筋道立った説明です。」


この「自由びと表現がモザイク…」という問題の二重性~

一つ、私が、私の認識を、空海お宅が「モザイク」と読み取ってしまうレベルでしか表現できていない問題。
一つ、空海お宅が「モザイク」と感じる自由びとの言説・表現から、その裏にあるその認識を自由びとレベルで読み取れない問題。



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弁証法的に考える「運」とは?

2023-10-16 14:49:19 | ~ものは考えよう~
弁証法的に考える「運 (幸運・不運)・(幸せ・不幸)」…

「考える」の二重化
一つ、自分の観念世界の中で思考する。
一つ、具体的な現実世界から思惟する。


前回は、「チコちゃんに叱られる」の以下の言葉を元に「運」とは何かを考えた。


質問~「何で運がいい人悪い日があるの?」

運はタイミング次第で誰にでもいい方向に進められる。
チャンスをつかむことができます。

「運がいい」は、事前の準備・経験で運がつかめている状態。
反対に「運が悪いは、準備ができていない為、運を逃がしている状態。
…という捉え方ができる、ということです。


そして、今回は、現実的事例から思惟する。


例えば、ジャンボ宝くじの一等賞に当たる事は「運がいい」と言える。
しかし、空から落ちてきた鳥の糞に当たるのは「運が悪い」と言える。

この場合の「運」とは、現実的な事実・事件・事柄に偶然に出会う事。

「運」・出会い・チャンスは、誰にでもある。
問題は、その「運」の使い方・役立て方、なのだろう。
その方法如何で、運が、幸運or不運になり得る。

この事例の双方ともに「運が巡って来た」とも言える。
この場合の「運が巡る」とは、今回は当たっても、次回は他人が当たる(他人に巡る)という事。
現実に、同じ人物が、二回・三回も連続で「宝くじ一等」や「鳥の糞」当たる事は、普通にはあり得ない。
普通なかなか出会えないような出来事に出会う事が「運」とも言える。

宝くじ一等が、幸運なのは、賞金を欲して宝くじを買い当選した(欲するモノの偶然の獲得)。
鳥の糞が、不運なのは、鳥の糞など欲していないのに偶然に落とされたから。

鳥の糞などは、あと数センチ違う位置にいたなら、当たらないモノである。
少しの違いで、もらえないモノなのに、もらえたから「運」とも言える。

さて、宝くじの当選は「幸運」であり、そして大金の獲得は幸福である。
しかし、その当選・大金獲得を当人は隠していたのに…
何らかの偶然で周囲に知られてしまい、親戚・友人一同から借金の要望で大変になったなら、それは「不幸」
そして、偶然に周囲に知られてしまった事件は「不運」。

幸運の結果獲得したモノが、必ず「幸福」に繋がるとは限らない。

またゴルフで「ホールインワン」をした場合。
ゴルフの上級者の「ホールインワン」は、実力+運であり、純粋に「運」とは言い難い。
しかし、初心者の「ホールインワン」は、殆ど「運」であろう。

上級者のホールインワンは、求めた結果なので「幸運」…
では、初心者のホールインワンは?
特に求めても、狙ってもないのに得たものなので「幸運」とは言い難い。
それでも「数万分の1の確率」なら、運は運である。

ネット情報
「それどころか、「ホールインワン」を達成した人は、周囲にお祝いする」という暗黙の了解がある。
ゴーファーなら一度は夢見るホールインワン。数万分の1の確率とも言われて一生の自慢になります。」


初心者が、狙って求めた訳でもないのに、訳も分からずに「ホールインワン」して…
多額の祝賀会・記念品…その他の多額の出費は、「不幸」となり得る。

上級者から「ホールインワン」は歓喜であり「幸運」
その祝賀会…の費用も、その多いなる歓喜に比べれば「不幸」になり得ない。

そんな初心者にとっての「ホールインワン」は、「ホールインワン」は「幸運」で、多額の出費は「不幸」。

ある出来事の出会いが「幸運」でも、その出来事の先の結果が「不幸」になり得る。
そして、「不幸」な結果になったので…
入った瞬間は「幸運」だった筈の「ホールインワン」も、結果からみれば「不幸」・「不運」になってしまう。
しかし…ここで「ホールインワン保険」に加入してれば、「多額の出費」という不幸は回避可能であろう。


この「ホールインワン保険に加入」とは、チコちゃんの以下の言葉が活かされる、だろう。

>「運がいい」は、事前の準備・経験で運がつかめている状態。
>反対に「運が悪いは、準備ができていない為、運を逃がしている状態。
>…という捉え方ができる、ということです。






コメント (2)
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空海お宅へ「幸運・不運の弁証法性」

2023-10-15 22:32:28 | ~ものは考えよう~
空海お宅へ「幸運・不運の弁証法性」


今回は、以下の空海コメントへの私コメント記事である




>・コメントを書いた人
>空海

・コメント
>>今回の「運」「不運」は、「万事塞翁が馬」ということです。

>それはビックリしましたね。自由びとさん(能力的に低劣だから「さん」づけせずに呼び捨てでも構わないレベルの実力だと判断していますけど、敢えて「さん」づけします)の元の記事だと私のようき「運とは運ばれてくるモノであり、それには良きモノが運ばれてくることと、悪しきモノが運ばれてくる場合とがある」という理解ではなく、
「運とは受け取るものであり、条件次第で受け取れないことがある」という考えですから、「悪い運を受け取る」という考えは無かったわけです。



>「万事塞翁が馬」とは「悪いことがあっても、また良いことが起こり、そしてまた悪いことが起こったり良いことが起こったりするものだから、小さな事で一喜一憂することなく生きて行きましょう」ということだと思いますね。

>「その時の「幸運」が後の「不運」へ、またその後の「幸運」になり得る」ということではなく、
つまりは「広島や長崎に原子爆弾が落とされて多くの日本国民が被爆者として苦しんだ」という不運が、
この「被曝」ということが後の幸運になるということではなく、


嫌な事ですが…
不幸・不運な「原爆の結果」が、(アメリカの勝利)終戦という「幸福・幸運」になり、
終戦の結果、更なる多くの人々の死を回避できた「幸福・幸運」です。

幸運・不運は同じ者には同時にきません。
同時にあり得るのは、対立した者達です。


>その不運・不幸とは全く別の方向から別の事柄として幸せとして訪れるから、未来の幸せを見据えて今の不幸を嘆くべからず、みたいな話しだと思いますね。

>不幸が幸せに、幸せが不幸に繋がるという理解だと、幸せになるためには不幸を目指さないといけないという、過去の様々な拷問だとかの不幸を「幸せに転化するための前提」みたいな《阿呆きわまる乞食の観念》として理解する徒花の思考だと判断できます。





この空海には、「言語」社会性が全く理解されていない!

相手への「さん」付けは、言うなれば社会性の現れであり、普通の社会人なら、相手の能力・人格に無関係で使用している。
それを以下のように~この空海お宅はワザワザ

>(能力的に低劣だから「さん」づけせずに呼び捨てでも構わないレベルの実力だと判断していますけど、敢えて「さん」づけします)<


と書き込んでいる…余程のバカ・アホor社会性欠如状態の者なのだろう。



そもそも…この「幸運・不運」の概念の一致がない自由びとと空海お宅なら、同じ説明・言葉・認識になり得ないのは当然であろう。
そんな判断も出来ずに、このブログ記事への反論とは…思考・概念の相違(良し悪しではなく)が理解不能な者である。



私は、「運⇒幸運・不運」があるのではなく、
その人間が、ある事実・物事に対して、自己の立場から勝手に「幸運・不運」と決めつけている、と考えている。

ただ、そのある事実・物事が、非日常的であり、偶然性が強いモノに限られる。
普通に得られる結果(予想可能なモノ)を人は、幸運・不運とは思わないだろうから…

「運を受け取る」とは、私にはない考えである。

例えば、歩いていてカラスのウンチを浴びたとする。
これは、「運を受け取る」ではなく、
運悪く、ウンチをもらった事にある。
運が悪いとは、不運な事に見舞われた(受け取った)事であり、「不運を受け取った」のではない。

運・不運とは、なかなか起こり得ないような事に出会った…そんな事だと考える。
または、そのような、不幸が起きる契機・幸運が起こせるチャンス…とも考えられる。

受け取ったのは、「運」ではなく、
ある事実・物事(契機)であり、人は、その物事の経過・結果に対して「幸運・不運」の判断・評価が生じてくる。


「万事塞翁が馬」の場合は、「馬を失った」事が不幸、で始まっていますね…

そうそう知っていました~
「学研現代国語辞典辞書」の「幸せとは良い運に恵まれている(幸運)」
「不幸」の類語は「不運」ですよ。

だから、「万事塞翁が馬」なのですよ!

空海お宅には、「幸福・不幸の意味が幸運・不運」となり得る事が分かっていない…
チャンと辞書も調べずに、自分勝手に別物と理解している、ようですね。

言語は認識の表現ですよ!
問題は、言葉・言語ではなく、その言語を発した者の認識です。

「人間万事塞翁が馬」の概念を「幸運・不運」で考えるなら~

例えば…
ある日・ある深夜に、暴走野郎が、いつもの道路を暴走していたとします。
その夜、たまたまパトロールしていた白バイ警官に発見され、追跡された、とします。

暴走野郎が超猛スピードで逃げ、それを警官が猛スピードで追う。
その時、たまたまその白バイが不具合で追えなくなった、とします。

暴走野郎は白バイの故障で逃げられて「幸運」、
白バイ警官たまたまの故障で追えずに「不運」。

でも、暴走野郎は逃げられて、スピード出し過ぎで道を渡る犬をひいて事故⇒「不運」
白バイ警官も故障なく追っていたら、一緒に事故かも…逃げられた事の「不運」が、実は「幸運」




>その不運・不幸とは全く別の方向から別の事柄として幸せとして訪れるから、未来の幸せを見据えて今の不幸を嘆くべからず、みたいな話しだと思いますね。

>不幸が幸せに、幸せが不幸に繋がるという理解だと、幸せになるためには不幸を目指さないといけないという、過去の様々な拷問だとかの不幸を「幸せに転化するための前提」みたいな《阿呆きわまる乞食の観念》として理解する徒花の思考だと判断できます。



「幸せは幸運」・「不幸は不運」で、辞書的には同じモノ。

運がいい事が幸せ、運が悪い事が不幸。
どちらも、ある同じ事実・物事を評価した言葉。

空海お宅って、
こ難しい言葉・知識ばっかり詰め込んでいて、
その現代国語力が、小学生以下なのでは…ないのですか?

不幸が幸せにつながる場合とは、
NHKドラマの「おしん」とか、
「苦労(不幸)は買ってもしろ」とか、
「可愛い子には旅(の苦労)をさせよ」とか、

何の苦労のない生活から、ワザワザ「苦労を買う」のは、不幸ですね。
幼い「おしん」のような生活環境は、不幸です。

それで、その不幸に耐え続けて頑張った結果が幸せ・幸運、でしょう。

「不幸一般」の問題ではなく、
どのような「不幸」が、幸福に繋がるか、が問題です。

空海お宅には、
幸福に繋がる不幸と、
更なる不幸になり得る不幸、の区別がない!ですね。


全くもってして…弁証法性が零零零の空海お宅でした。





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二重性・二重化について…

2023-10-14 11:46:08 | ~ものは考えよう~
二重性・二重化について…


全てのモノ・コトは、二重に捉える事・二重化が可能である。

モノには、その形と機能の二重性がある。
生物にも、その姿形と機能がある。
コトには、始まりと終わりがある。

モノの形には、全体の形と部分の形がある。
その全体と部分の関係には、構造としての形がある。

コトの始まりと終わりの間には、その過程がある。
コトの始まりには、「その始まり」の「始まりと終わり」が、あり、
コトの終わりには、「その終わり」の「始まりと終わり」が、ありえる。


あるコトの終わりは、別の事の始まり、
あるモノの姿形の終わりは、別のモノの姿形の始まり…

その姿形の終わりは、その機能の終わり…
その機能の終わりは、別の機能の始まり~
別の機能の始まりは、新たな姿形の始まり~


人間にとっての今は、「今この瞬間」を自覚した時には、既に「今さっき」である。
「今は今」であるが、実際は「今ではなくさっき」である。


人間は、今を生きているにも関わらず、今を生きていない存在であろう。
因みに、人間以外の生物は、「今」しかない…のだろう。

その理由は、人間以外の動物には「今」という概念・感覚・認識が、ないだろうから…
それらには、生まれて死ぬまでの全てが「今」なのだろう。
そこには、過去も未来もなく、ただ「今」が続いているだけ…
それは、認知症の老人の感覚・認識と同一なのだろう…









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「運がいい」とは?

2023-10-14 11:18:53 | ~ものは考えよう~

「運がいい」とは?


本日のNHK番組「チコちゃんに叱られる!」で「運がいい」について以下のような事を言っていた。

運は誰にでも巡ってくるモノ。
運がいいとは、準備がしっかりできていて、巡ってきた運を手に入れられた状態。
運が悪いとは、準備が出来てなく、巡って来た運を手に入れられず、逃がしてしまった状態。

上記のような「運」についての表現に、今の私は観念論的だと感じた。
その理由は、初めから「運」というモノがある、という前提で説いているから…である。
本来、唯物論的に説くなら、先ずは「運とは何か?」から始めるのが正しいのだろう…

もっとも…NHK・チコちゃんの説明に、
「なる程~」と納得してしまった私がいたから、この記事を書けている、のも事実であるが…


では、「運とは何か?」から始めよう!

抽象的には、「運とは、自分の求める幸せ」。
具体的には、「その時々に自分が欲して求めているモノ」。
言うなれば「現時点での欲求」であろう。



ただ…問題が…ある。
それは、「欲求の二重性」であろう。
一つ、その時点で自身が自覚している、「今必要な欲求・モノ」。
一つ、今は自覚ないが「将来的に必要になり得るモノ(現時点で欲求ではないモノ)」。




「運がいい」と言う自覚がある場合とは、その欲求が簡単には得られなかった欲求・モノが…結果的に得られた状態。
「運がいい」筈なのに、自覚できない場合とは、将来的に「必要となるだろう筈のモノ」が、結果的に得られた状態。
これは、「運がいい」の二重性、自覚ある「運がいい」と自覚ない「運がいい」であろう。



上記のような「自覚ある運」と「無自覚の運」から思惟するなら、
現在の「運がいい」が、将来的に「運が悪かった」と言い得る事。

ここで、一つの気付きに、私は気付いて、それは、「私は間違っていた!」。
ここまで私は、「欲求=モノ」と捉えていた!
しかし、実際は、「欲求」と「欲求を満たしてくるモノ」とは、別モノであろう。

現時点の自分の欲求を満たしたモノが、将来的にも自分の欲求を満たし続けてくれるモノとは限らない…
実際の現実では、ある・そのモノは、比較的長期間ある・そのモノのままであろうが…
人間・自分自身の欲求・感情は、ある・そのモノに比べたら、死ぬまで激しく変化し続けるモノだろうから…










ここで、NHKプラスで再確認した番組で「チコちゃんの言葉」は、以下である。


質問~「何で運がいい人悪い日があるの?」

運はタイミング次第で誰にでもいい方向に進められる。
チャンスをつかむことができます。

「運がいい」は、事前の準備・経験で運がつかめている状態。
反対に「運が悪いは、準備ができていない為、運を逃がしている状態。
…という捉え方ができる、ということです。



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