前回(→こちら)の続き。
2012年ウィンブルドン準決勝、アンディー・マレー対ジョー・ウィルフリード・ツォンガの試合。
マッチポイントのマレーのショットが「アウト」の判定。マレーはすかさずビデオ判定の「チャレンジ」を要求した。
大一番の大事なシーンでの微妙なジャッジに、観ている方も緊張感が高まるところだが、驚いたことにツォンガはすでに、試合終了の握手をするべく、ネットでマレーを待っていた。
それも笑顔で。
私は、にわはかにその意味がわからなかった。
ラインパーソンは高らかにアウトを宣言したのだ。つまりは、それはツォンガのポイント。試合はまだ続くのだ。
マレーはチャレンジしたとはいえ、その判断が誤っている可能性だってある。
だがツォンガはすでに試合は終わったものとして、さわやかな笑みを浮かべて立っていた。
「チャレンジ? 入ってただろ、そんなことする必要あるの?」
と言わんばかりに。
果たして結果は「イン」であった。マレーのフォアは、サイドラインの外側に紙一重で、かすっていた。
ゲームセット、アンド、マッチ、マレー。こうしてマレーの決勝進出、イギリス人選手として74年ぶりにウィンブルドン決勝の舞台に立つことが決まった。
うれしさと、プレッシャーから束の間開放されて涙をこらえられないマレーの肩に手を置いて、ツォンガは二言三言声をかけた。おそらくは「ナイスショット」「決勝もがんばれよ」みたいなことを言ったのだろう。
そうして、感極まってしばらくイスから立ち上がれないマレーよりも先にツォンガは荷物をまとめると、静かに立ち上がり、サインを求めるファンに応じてペンを走らせ、清くセンターコートから立ち去った。
敗者である彼にも、観客は惜しみない拍手を送った。
この光景を見て、私もまた先崎八段のように信じられない思いであった。
どうしてツォンガは笑えたのであろうか。ウィンブルドンの準決勝だ。それに負けたのだ。
なのに、どうしてそんなさわやかな顔を見せられるのか。ましてや、マッチポイントで微妙なジャッジがあったのに。
おそらくツォンガは、そのすぐれた動体視力でマレーのフォアがエースになっていることを確信していたのであろう。
そして、自分は精一杯戦ったし、相手であるマレーもまた力を出し切り、勝利に値するテニスをした、そのことを理解していた。
だから笑えた。
それはわからなくもない。けど、マッチポイントで相手のショットをアウトと判定されたのだ。いくらインに見えたとしても、自分の見立てが間違っていたということもあり得る。
だったら、せめて最後までビデオ判定の結果くらいは待つのが普通ではないのか。
あれがアウトなら、第4セットは取れるチャンスは充分すぎるほどあったのだ。万に一つにすがりたくなっても、それが人情というものだろう。
まあ、結果はインだったんだから、ツォンガの見立ては正しかったんだけど、それにしても清すぎるのではないか。
百歩ゆずって、負けは負けとしても、私ならあんな表情はできない。
ふざけるなと毒づくだろう、ふくれっ面を見せるだろう。どうせここでおしまいなんだから、当てつけがましく、歴史に残るふくれっ面をしてやるのだ。
そらそうではないのか。ウィンブルドンだ、しかも勝てば決勝進出、あの選ばれた2人しか立てないファイナルの舞台でプレーできる。
そして、勝つことなんてあれば、永遠にテニス史にチャンピオンとして名前が残るんだぜ。
昔読んだ本に、こんな場面があった。
ある偉大な男が死の床についている。彼はその才能と人望によって周囲から絶大なる尊敬の念を集めている。
だが死に瀕した場での彼はちがった。無に帰すことへの恐怖からか、妻や弟子たちに当たり散らし、時には暴力を振るう。死ぬのが怖いと、情けない泣き言を言う。
これに対して弟子が、
「あなたは偉大な人だ。我々は皆あなたを愛し、尊敬しています。そんなあなたが、なぜこのような醜態をさらすのですか」
問うと男は
「そんなことはわかっている。でもな、オレはこの世になにも嘘を残して逝きたくないんだよ」。
この気持ちは、私にはなんとなく理解できるが、ウィンブルドン準決勝での敗者は、そうは思わないのだろうか。
私はこのときのツォンガを、シビれるほどかっこいいと思った。
どれだけ口惜しくても、それは心にしまって精一杯笑う。それがたとえ強がりでも。変な言い方になるが、強くない人間には、強がることすらできないものなのだ。
そうしてホテルに帰って、シャワーを浴びて、人心地ついたところで「あー、オレは負けたんだな」と実感するのだろう。
そうして敗北により失った大舞台へのチャンス、賞金、プライド、様々なことが頭をかけめぐり、ここでようやっと「冷静」になる。
そのあとは人それぞれだろう。友人や恋人に電話して、言い訳をするもよし、布団にくるまってワンワン泣くもよし、酔っぱらって店じゅうのグラスをたたき割るもよし、好きにすればよい。
でも、栄光ある勝者の前では、たとえビルから飛び降りたい気分の時でも明るい笑顔を。
アーネスト・ヘミングウェイはこんなことを言ったそうだ。
「スポーツは懸命に戦って勝つことを教えてくれる。だが同時に、公明正大に戦って負けることも教えてくれる」
ツォンガはまさしく公明正大な敗者だった。顔で笑って、ホテルのベッドで一人涙にくれる。
先崎学八段が言ったように、私も彼のような、かっこいい男になりたいと思った。
■マレー対ツォンガ戦の映像【→こちら】
■マッチポイントの様子【→こちら】
2012年ウィンブルドン準決勝、アンディー・マレー対ジョー・ウィルフリード・ツォンガの試合。
マッチポイントのマレーのショットが「アウト」の判定。マレーはすかさずビデオ判定の「チャレンジ」を要求した。
大一番の大事なシーンでの微妙なジャッジに、観ている方も緊張感が高まるところだが、驚いたことにツォンガはすでに、試合終了の握手をするべく、ネットでマレーを待っていた。
それも笑顔で。
私は、にわはかにその意味がわからなかった。
ラインパーソンは高らかにアウトを宣言したのだ。つまりは、それはツォンガのポイント。試合はまだ続くのだ。
マレーはチャレンジしたとはいえ、その判断が誤っている可能性だってある。
だがツォンガはすでに試合は終わったものとして、さわやかな笑みを浮かべて立っていた。
「チャレンジ? 入ってただろ、そんなことする必要あるの?」
と言わんばかりに。
果たして結果は「イン」であった。マレーのフォアは、サイドラインの外側に紙一重で、かすっていた。
ゲームセット、アンド、マッチ、マレー。こうしてマレーの決勝進出、イギリス人選手として74年ぶりにウィンブルドン決勝の舞台に立つことが決まった。
うれしさと、プレッシャーから束の間開放されて涙をこらえられないマレーの肩に手を置いて、ツォンガは二言三言声をかけた。おそらくは「ナイスショット」「決勝もがんばれよ」みたいなことを言ったのだろう。
そうして、感極まってしばらくイスから立ち上がれないマレーよりも先にツォンガは荷物をまとめると、静かに立ち上がり、サインを求めるファンに応じてペンを走らせ、清くセンターコートから立ち去った。
敗者である彼にも、観客は惜しみない拍手を送った。
この光景を見て、私もまた先崎八段のように信じられない思いであった。
どうしてツォンガは笑えたのであろうか。ウィンブルドンの準決勝だ。それに負けたのだ。
なのに、どうしてそんなさわやかな顔を見せられるのか。ましてや、マッチポイントで微妙なジャッジがあったのに。
おそらくツォンガは、そのすぐれた動体視力でマレーのフォアがエースになっていることを確信していたのであろう。
そして、自分は精一杯戦ったし、相手であるマレーもまた力を出し切り、勝利に値するテニスをした、そのことを理解していた。
だから笑えた。
それはわからなくもない。けど、マッチポイントで相手のショットをアウトと判定されたのだ。いくらインに見えたとしても、自分の見立てが間違っていたということもあり得る。
だったら、せめて最後までビデオ判定の結果くらいは待つのが普通ではないのか。
あれがアウトなら、第4セットは取れるチャンスは充分すぎるほどあったのだ。万に一つにすがりたくなっても、それが人情というものだろう。
まあ、結果はインだったんだから、ツォンガの見立ては正しかったんだけど、それにしても清すぎるのではないか。
百歩ゆずって、負けは負けとしても、私ならあんな表情はできない。
ふざけるなと毒づくだろう、ふくれっ面を見せるだろう。どうせここでおしまいなんだから、当てつけがましく、歴史に残るふくれっ面をしてやるのだ。
そらそうではないのか。ウィンブルドンだ、しかも勝てば決勝進出、あの選ばれた2人しか立てないファイナルの舞台でプレーできる。
そして、勝つことなんてあれば、永遠にテニス史にチャンピオンとして名前が残るんだぜ。
昔読んだ本に、こんな場面があった。
ある偉大な男が死の床についている。彼はその才能と人望によって周囲から絶大なる尊敬の念を集めている。
だが死に瀕した場での彼はちがった。無に帰すことへの恐怖からか、妻や弟子たちに当たり散らし、時には暴力を振るう。死ぬのが怖いと、情けない泣き言を言う。
これに対して弟子が、
「あなたは偉大な人だ。我々は皆あなたを愛し、尊敬しています。そんなあなたが、なぜこのような醜態をさらすのですか」
問うと男は
「そんなことはわかっている。でもな、オレはこの世になにも嘘を残して逝きたくないんだよ」。
この気持ちは、私にはなんとなく理解できるが、ウィンブルドン準決勝での敗者は、そうは思わないのだろうか。
私はこのときのツォンガを、シビれるほどかっこいいと思った。
どれだけ口惜しくても、それは心にしまって精一杯笑う。それがたとえ強がりでも。変な言い方になるが、強くない人間には、強がることすらできないものなのだ。
そうしてホテルに帰って、シャワーを浴びて、人心地ついたところで「あー、オレは負けたんだな」と実感するのだろう。
そうして敗北により失った大舞台へのチャンス、賞金、プライド、様々なことが頭をかけめぐり、ここでようやっと「冷静」になる。
そのあとは人それぞれだろう。友人や恋人に電話して、言い訳をするもよし、布団にくるまってワンワン泣くもよし、酔っぱらって店じゅうのグラスをたたき割るもよし、好きにすればよい。
でも、栄光ある勝者の前では、たとえビルから飛び降りたい気分の時でも明るい笑顔を。
アーネスト・ヘミングウェイはこんなことを言ったそうだ。
「スポーツは懸命に戦って勝つことを教えてくれる。だが同時に、公明正大に戦って負けることも教えてくれる」
ツォンガはまさしく公明正大な敗者だった。顔で笑って、ホテルのベッドで一人涙にくれる。
先崎学八段が言ったように、私も彼のような、かっこいい男になりたいと思った。
■マレー対ツォンガ戦の映像【→こちら】
■マッチポイントの様子【→こちら】