日本史より世界史がおもしろい!
そう主張してはばからない私であるが、これがなかなかどうして、世界史はイマイチ人気がない。世界史推しの私は、前回(→こちら)語ったように、大いに孤独な人生を送ることを余儀なくされている。
そのことは私の被害妄想ではなく、はっきりと数字に表れているのである。それを痛感したのが高校3年生のころのことであった。
受験をひかえた当時の我々3年生は、受験科目によって履修する科目があれこれと選択できた。
まず文系と理系にわけ、理系なら理科は物理か化学か、数学なら微分積分と幾何のどちらに力を入れるのか。文系なら漢文のクラスは取るのかなどあったが、中でも大きな選択は社会であり、ここでなにを選ぶか。
一応、日本史、世界史、地理、倫理政経と4つの選択肢があるが、まあごく一部を除いて、ほぼ9割以上が日本史か世界史を選ぶ。ずばり二択である。
もちろん、私は世界史選択である。世界史は日本史とくらべて、暗記することが多いとか、名前などがわかりにくい(マルクス・アウレリウス・アントニウスなんてね)とかいわれて不人気であったが、好き者こその上手なれである。そもそも、学問において学ぶことを「有利不利」で決めるというのは、どこか感心できない話である。
ところが、ここにまことしやかな噂が流れていた。それは、
「今年は、世界史の授業がなくなるらしい」
おいおい、そりゃどういうこっちゃ。受験の社会には日本史と世界史があるのに、世界史の授業をしないとなれば、世界史選択の生徒はどうなるのか。そもそも、授業がなくなるなんてことがあるの?
と噂の主に問うならば、それは仕方がないことらしく、事前調査では世界史受験より日本史受験で挑む生徒の方が、圧倒的に多いのだそうな。
それだったら、いっそ全員を日本史選択にしてしまって、先生方も一点突破の強化体制で教える方が、偏差値アップが望めるのではないかということである。進学校の考えそうなことだ。
なるほど、それはしかりである。たしかに受験では、教える方も学ぶ方も単元をしぼった方が効率的に学力を伸ばせるかもしれない。
だが、それでいいのだろうか。そんな受験競争だけに目を向けて、世界史の授業を切り捨てるとは、それは学問に対する冒涜ではないか。私のように、心から世界史を学びたいと思っている生徒の気持ちはどうなるのか。
これには私としては断固として抗議するつもりであった。私は世界史での受験を変えるつもりはない。とすれば、たとえ数が少なくてもきちんと授業はやってもらわねば困る。
私は正義が自分にあることを確信していた。ふざけるな、なにが受験に有利だ。おれたちは偏差値の奴隷じゃねえぜ!
と息巻いていたところ、社会の先生から呼び出しがかかることになったのである。
その内容というのが、予想通りというか、
「○○(私の本名)、お前も社会は日本史にせえへんか」
これには、ふだん温厚な私も頭に血が上った。やはりそういうことか。噂は本当だったのだ。我が母校である大阪府立S高校は、学問の魂を売り飛ばそうとしている!
先生の話によると、今年は日本史選択者が世界史選択者よりも全然多い。なれば、いっそ全員が日本史にしたほうが時間割が作りやすい。お前が世界史選択なのは知っているが、ここは妥協して日本史にしてくれないか。
来たよ、来た来たメフィストフェレスの誘いだ。だれがそんなもの聞くものか。なんだあ? 世界史選択の数が少ないだあ? 多数派がそんなにえらいのか、マジョリティーが正義なのか。
そういった数の暴力こそが、数々のファシズムや独裁政権を生み出してきたのではないか。それに、この私にも安易に乗っかれというのか。そんなものはゴメンだ。
思えば、腰の定まらないネヴィル・チェンバレンの妥協的な姿勢がヒトラーの増長を許したように、ここでも悪がはびころうとしている。
不肖この私、成績の方は下から数えた方が早いというか、早いどころか下から1番目の劣等生なんだけど(おそろしいことに実話です)、その志だけは曲げるつもりはいっかな無いのだ。
と頑固に主張すると、2年のときに世界史を教えてくれたカラホリ先生が、
「○○君、そんなこといわんと、日本史にしたらどないや」
これにはアゴに一撃食らったような、強烈なショックを受けた。ブルータスお前もか。おお、まさか日本史ならともかく、世界史の先生にまで「日本史にしろ」といわれるとは。先生、あなたの信念はどこで死んでしまったのか。
(続く【→こちら】)
そう主張してはばからない私であるが、これがなかなかどうして、世界史はイマイチ人気がない。世界史推しの私は、前回(→こちら)語ったように、大いに孤独な人生を送ることを余儀なくされている。
そのことは私の被害妄想ではなく、はっきりと数字に表れているのである。それを痛感したのが高校3年生のころのことであった。
受験をひかえた当時の我々3年生は、受験科目によって履修する科目があれこれと選択できた。
まず文系と理系にわけ、理系なら理科は物理か化学か、数学なら微分積分と幾何のどちらに力を入れるのか。文系なら漢文のクラスは取るのかなどあったが、中でも大きな選択は社会であり、ここでなにを選ぶか。
一応、日本史、世界史、地理、倫理政経と4つの選択肢があるが、まあごく一部を除いて、ほぼ9割以上が日本史か世界史を選ぶ。ずばり二択である。
もちろん、私は世界史選択である。世界史は日本史とくらべて、暗記することが多いとか、名前などがわかりにくい(マルクス・アウレリウス・アントニウスなんてね)とかいわれて不人気であったが、好き者こその上手なれである。そもそも、学問において学ぶことを「有利不利」で決めるというのは、どこか感心できない話である。
ところが、ここにまことしやかな噂が流れていた。それは、
「今年は、世界史の授業がなくなるらしい」
おいおい、そりゃどういうこっちゃ。受験の社会には日本史と世界史があるのに、世界史の授業をしないとなれば、世界史選択の生徒はどうなるのか。そもそも、授業がなくなるなんてことがあるの?
と噂の主に問うならば、それは仕方がないことらしく、事前調査では世界史受験より日本史受験で挑む生徒の方が、圧倒的に多いのだそうな。
それだったら、いっそ全員を日本史選択にしてしまって、先生方も一点突破の強化体制で教える方が、偏差値アップが望めるのではないかということである。進学校の考えそうなことだ。
なるほど、それはしかりである。たしかに受験では、教える方も学ぶ方も単元をしぼった方が効率的に学力を伸ばせるかもしれない。
だが、それでいいのだろうか。そんな受験競争だけに目を向けて、世界史の授業を切り捨てるとは、それは学問に対する冒涜ではないか。私のように、心から世界史を学びたいと思っている生徒の気持ちはどうなるのか。
これには私としては断固として抗議するつもりであった。私は世界史での受験を変えるつもりはない。とすれば、たとえ数が少なくてもきちんと授業はやってもらわねば困る。
私は正義が自分にあることを確信していた。ふざけるな、なにが受験に有利だ。おれたちは偏差値の奴隷じゃねえぜ!
と息巻いていたところ、社会の先生から呼び出しがかかることになったのである。
その内容というのが、予想通りというか、
「○○(私の本名)、お前も社会は日本史にせえへんか」
これには、ふだん温厚な私も頭に血が上った。やはりそういうことか。噂は本当だったのだ。我が母校である大阪府立S高校は、学問の魂を売り飛ばそうとしている!
先生の話によると、今年は日本史選択者が世界史選択者よりも全然多い。なれば、いっそ全員が日本史にしたほうが時間割が作りやすい。お前が世界史選択なのは知っているが、ここは妥協して日本史にしてくれないか。
来たよ、来た来たメフィストフェレスの誘いだ。だれがそんなもの聞くものか。なんだあ? 世界史選択の数が少ないだあ? 多数派がそんなにえらいのか、マジョリティーが正義なのか。
そういった数の暴力こそが、数々のファシズムや独裁政権を生み出してきたのではないか。それに、この私にも安易に乗っかれというのか。そんなものはゴメンだ。
思えば、腰の定まらないネヴィル・チェンバレンの妥協的な姿勢がヒトラーの増長を許したように、ここでも悪がはびころうとしている。
不肖この私、成績の方は下から数えた方が早いというか、早いどころか下から1番目の劣等生なんだけど(おそろしいことに実話です)、その志だけは曲げるつもりはいっかな無いのだ。
と頑固に主張すると、2年のときに世界史を教えてくれたカラホリ先生が、
「○○君、そんなこといわんと、日本史にしたらどないや」
これにはアゴに一撃食らったような、強烈なショックを受けた。ブルータスお前もか。おお、まさか日本史ならともかく、世界史の先生にまで「日本史にしろ」といわれるとは。先生、あなたの信念はどこで死んでしまったのか。
(続く【→こちら】)