「学生食堂がおいしいなどというのは、けしからん!」
そんな怒りの声をあげたのは、東海林さだおさんであった。
私は東海林さんのファンで、特に「丸かじりシリーズ」は、トイレに風呂に銀行や歯医者の待ち時間にと、スキあらば読み返しているもの。
そんなショージ君が、あるとき若者に「いかがなものか」な苦言を呈したことがあり、それが母校である早稲田大学の学生食堂をおとずれたときのこと。
学食というのは「安価でお腹いっぱい」が基本にあり、味というのはさほど重視されないというのが昭和の常識だったが、ショージ君が見た近年のそれは、はるかに豪華なものへと変貌していた。
レストランのような内装、メニューもステーキやイタリアンなどハイカラなものが並び、BGMにはピアノの生演奏まであったという。
これには「月一度のごちそうがレバニラ炒め」という青春期を過ごした大先輩も怒り心頭となり、
「早稲田も地に落ちた」
そう宣言してしまうのだ。
これにはページをくりながら爆笑してしまったのだが、ひとしきり腹をかかえながら思わず、
「わっかるわあ」
そう力強く同意してしまう自分もいたのである。
学生時代、私の通っていた大学は坂の上にあった。
駅からキャンパスまでのなだらかな傾斜になっており、それを上がれば学舎が見えてくるのだが、私の学んでいた文学部(および法学部)は、さらにもうひとつ坂の上に校舎がある。
その坂というのが校門までのそれと違い、いきなり傾斜がきつくなり、登るのが大変だった。
正式名称は法文坂というのだが、我々学生は「地獄坂」と呼んでいた。落差があるぶん、よけいにしんどく感じるのだ。
この地獄坂の苦しさは、今でも鮮明におぼえており、我が千里山大学(仮名)の法文学生は、なぜ自分たちだけがこんな苦行を強いられるのか、という抗議に加えて、
「経済学部、合コンしすぎ」
「商学部、授業楽すぎ」
「社会学部は、今時ヘルメットかぶって革命がどうとかいって、女子にウザがられてるからゆるす」
などなど、他学部生への八つ当たりをぶつぶつつぶやきながら、毎朝シーシュポスのごとく山を登っていくのである。
さてそんな山頂にあるキャンパスの、さらにその裏側という南極点のような僻地に、薄汚い掘っ立て小屋が建っていた。
看板があり、そこには「法文食堂」と書かれてある。
これがなになのかと問うならば、読んで字のごとく文学部と法学部の学生用の食堂なのだ。
我が大学は人口2万7千人を誇る、いわゆるマンモス大学であった。
必然、食堂がひとつだけでは学生たちを収容できない。というわけでキャンパスには校内中央部にある「本食堂」。
それにくわえて、経済学部と商学部のための「経商食堂」。社会学部のための「社学食堂」。そして我が「法文食堂」と、実に4つの食堂を擁していたのである。
そう聞くと、なんだか豪華なようだが、そんな法文食堂のご飯はどうだったのかといえば、学生食堂といったもののご多分にもれず、
「安くてまずいが、とにかく腹だけはふくれる」
という学食非核三原則を忠実に守ったシロモノであった。
麺はのび、カレーには肉が入っておらず、日替わり定食のフライものやハンバーグはどんな油を使っているのか食べ終えた後、胃に天才桜木の見事なダンクを食らったのではというくらいに、ドシンともたれる。
しかしまあ、これはどこの食堂も大同小異であったため、学生たちは別に不満など感じることなく食事をしていた。
特に法文生は他のところに食べに行くと、また地獄坂を上がってこなければならず、味はともかく法文食堂ですますことが多かったのだ。
ところがここにある変革が起こり、貧しくも平等であった学食四天王の一角にひびが入り、大きな紛争へと発展するのである
(続く→こちら)
そんな怒りの声をあげたのは、東海林さだおさんであった。
私は東海林さんのファンで、特に「丸かじりシリーズ」は、トイレに風呂に銀行や歯医者の待ち時間にと、スキあらば読み返しているもの。
そんなショージ君が、あるとき若者に「いかがなものか」な苦言を呈したことがあり、それが母校である早稲田大学の学生食堂をおとずれたときのこと。
学食というのは「安価でお腹いっぱい」が基本にあり、味というのはさほど重視されないというのが昭和の常識だったが、ショージ君が見た近年のそれは、はるかに豪華なものへと変貌していた。
レストランのような内装、メニューもステーキやイタリアンなどハイカラなものが並び、BGMにはピアノの生演奏まであったという。
これには「月一度のごちそうがレバニラ炒め」という青春期を過ごした大先輩も怒り心頭となり、
「早稲田も地に落ちた」
そう宣言してしまうのだ。
これにはページをくりながら爆笑してしまったのだが、ひとしきり腹をかかえながら思わず、
「わっかるわあ」
そう力強く同意してしまう自分もいたのである。
学生時代、私の通っていた大学は坂の上にあった。
駅からキャンパスまでのなだらかな傾斜になっており、それを上がれば学舎が見えてくるのだが、私の学んでいた文学部(および法学部)は、さらにもうひとつ坂の上に校舎がある。
その坂というのが校門までのそれと違い、いきなり傾斜がきつくなり、登るのが大変だった。
正式名称は法文坂というのだが、我々学生は「地獄坂」と呼んでいた。落差があるぶん、よけいにしんどく感じるのだ。
この地獄坂の苦しさは、今でも鮮明におぼえており、我が千里山大学(仮名)の法文学生は、なぜ自分たちだけがこんな苦行を強いられるのか、という抗議に加えて、
「経済学部、合コンしすぎ」
「商学部、授業楽すぎ」
「社会学部は、今時ヘルメットかぶって革命がどうとかいって、女子にウザがられてるからゆるす」
などなど、他学部生への八つ当たりをぶつぶつつぶやきながら、毎朝シーシュポスのごとく山を登っていくのである。
さてそんな山頂にあるキャンパスの、さらにその裏側という南極点のような僻地に、薄汚い掘っ立て小屋が建っていた。
看板があり、そこには「法文食堂」と書かれてある。
これがなになのかと問うならば、読んで字のごとく文学部と法学部の学生用の食堂なのだ。
我が大学は人口2万7千人を誇る、いわゆるマンモス大学であった。
必然、食堂がひとつだけでは学生たちを収容できない。というわけでキャンパスには校内中央部にある「本食堂」。
それにくわえて、経済学部と商学部のための「経商食堂」。社会学部のための「社学食堂」。そして我が「法文食堂」と、実に4つの食堂を擁していたのである。
そう聞くと、なんだか豪華なようだが、そんな法文食堂のご飯はどうだったのかといえば、学生食堂といったもののご多分にもれず、
「安くてまずいが、とにかく腹だけはふくれる」
という学食非核三原則を忠実に守ったシロモノであった。
麺はのび、カレーには肉が入っておらず、日替わり定食のフライものやハンバーグはどんな油を使っているのか食べ終えた後、胃に天才桜木の見事なダンクを食らったのではというくらいに、ドシンともたれる。
しかしまあ、これはどこの食堂も大同小異であったため、学生たちは別に不満など感じることなく食事をしていた。
特に法文生は他のところに食べに行くと、また地獄坂を上がってこなければならず、味はともかく法文食堂ですますことが多かったのだ。
ところがここにある変革が起こり、貧しくも平等であった学食四天王の一角にひびが入り、大きな紛争へと発展するのである
(続く→こちら)