「ヒマつぶしには、タイトルに《の》をつけて、勝手にB級映画制作がいいよ」。
そんな提言をしたのは、ある昼下がりの病室だった。
先日、友人が入院することになった。見舞いにかけつけると、体調はそんなに悪くなく、しばらく寝ていれば問題ないそうだが、困っているのは時間のつぶし方だという。
私はまだ経験はないが、入院というのは退屈なものらしい。スマホは使いづらいし、雑誌やテレビは飽きるし、なにより検査の待ち時間とか点滴のときが、本当に無聊をかこつのだという。
簡単にできて、脳内で30分くらいの時間つなぎとなると、基本はエロ妄想か。
翻訳家の岸本佐知子さんのような「ひとりしりとり」、ダジャレを考えたり、あとはちょっと凝って「山号寺号」とか川柳を読むとかいろいろあるけど、私がやっているのは、冒頭のような《の》のゲームだ。
「タイトルに《の》をつけると、どんな名作映画もB級っぽくなる」という法則が存在する。
洋画のタイトルにはときに、「〇〇の」と枕詞がつくケースがあり、
『ウッディ・アレンのバナナ』
『ゴダールの探偵』
『メル・ブルックスの大脱走』
『トリュフォーの思春期』
『ポランスキーのパイレーツ』
『ヒッチコックのファミリー・プロット』
『ダリオ・アルジェントのドラキュラ』
『オーソン・ウェルズのフェイク』
『ヤコペッティの残酷大陸』
『ジョン・ランディスのステューピッド おばかっち地球防衛大作戦』
などなどだが、こういったタイトルは、妙にまのびしてマヌケに感じてしまうのだという。
元ネタは『映画秘宝』だったか、みうらじゅんさんの本だったか忘れたが、それこそ『メル・ブルックスの大脱走』『ヒッチコックのファミリー・プロット』のような、そこそこの佳作でも、なんだか安っぽいイメージになる。
実際、ヒッチコックなどはその後『ファミリー・プロット』のみに改題されているし、おそらくはタイトルにメジャーな製作者や俳優名を入れることによって、安易に宣伝しようとする姿勢が安さを生むのだろう。
たしかに、ジョン・ランディスはともかく、他は『ドラキュラ』『フェイク』『探偵』『大脱走』で充分だもんなあ。
とまあ、こんなトホホな「B級映画《の》の法則」だが、これが自分的にヒマつぶしの種になっている。
ルールは簡単。思いついた映画のタイトルに、監督か主演俳優の名前を入れるだけでアラ不思議。
あんな名作傑作が、ビデオ屋で(それもVHSで)投げ売りされてそうなB級作品に早変わりしてしまうのだ。
『スピルバーグのジョーズ』
『レオナルド・ディカプリオのタイタニック』
『コッポラのゴッドファーザー』
『リドリー・スコットのブレードランナー』
『新海誠の君の名は。』
『スタローンのロッキー』
『イーストウッドのダーティーハリー』
『キャメロンのターミネーター』
『ガイ・リッチーのホームズ』
おお、なんかどれも微妙におもしろくなさそうだ。映画館というよりも、休日の昼下がりにテレビ大阪で見るくらいが、ちょうどよさそうというか。
こういうタイトルを勝手に考え、
「なんか、どの映画にもレスリー・ニールセンが出てそうやなあ」
なんて一人で笑っていると、けっこう時間がつぶれます。
あとこれをやっていると、ふと、観ていて違和感があった映画に《の》をつけるとしっくりくることを発見したりして、
『ローランド・エメリッヒのインデペンデンス・デイ』
『バーホーベンのインビジブル』
『ブルース・ウィリスのアルマゲドン』
なんて、もとの邦題よりも全然こっちの方が雰囲気出ているような気がする。
M・ナイト・シャマランなんて、観る人によっては、
「あんな、おもしろそうな映画やのに、なんでこうなるの!」
とズッコケることもあるが(私はかわいくて大好きですが)、これはもう絶対タイトルに名前を入れるべきで、『アンブレイカブル』『サイン』『ヴィレッジ』だとそうなるけど、これが、
『シャマランのアンブレイカブル』
『シャマランのサイン』
『シャマランのヴィレッジ』
だと、「あー、そうそう、そんな感じの映画やった」となるのではなかろうか。ぜひ、おためしを。
(続く→こちら)
そんな提言をしたのは、ある昼下がりの病室だった。
先日、友人が入院することになった。見舞いにかけつけると、体調はそんなに悪くなく、しばらく寝ていれば問題ないそうだが、困っているのは時間のつぶし方だという。
私はまだ経験はないが、入院というのは退屈なものらしい。スマホは使いづらいし、雑誌やテレビは飽きるし、なにより検査の待ち時間とか点滴のときが、本当に無聊をかこつのだという。
簡単にできて、脳内で30分くらいの時間つなぎとなると、基本はエロ妄想か。
翻訳家の岸本佐知子さんのような「ひとりしりとり」、ダジャレを考えたり、あとはちょっと凝って「山号寺号」とか川柳を読むとかいろいろあるけど、私がやっているのは、冒頭のような《の》のゲームだ。
「タイトルに《の》をつけると、どんな名作映画もB級っぽくなる」という法則が存在する。
洋画のタイトルにはときに、「〇〇の」と枕詞がつくケースがあり、
『ウッディ・アレンのバナナ』
『ゴダールの探偵』
『メル・ブルックスの大脱走』
『トリュフォーの思春期』
『ポランスキーのパイレーツ』
『ヒッチコックのファミリー・プロット』
『ダリオ・アルジェントのドラキュラ』
『オーソン・ウェルズのフェイク』
『ヤコペッティの残酷大陸』
『ジョン・ランディスのステューピッド おばかっち地球防衛大作戦』
などなどだが、こういったタイトルは、妙にまのびしてマヌケに感じてしまうのだという。
元ネタは『映画秘宝』だったか、みうらじゅんさんの本だったか忘れたが、それこそ『メル・ブルックスの大脱走』『ヒッチコックのファミリー・プロット』のような、そこそこの佳作でも、なんだか安っぽいイメージになる。
実際、ヒッチコックなどはその後『ファミリー・プロット』のみに改題されているし、おそらくはタイトルにメジャーな製作者や俳優名を入れることによって、安易に宣伝しようとする姿勢が安さを生むのだろう。
たしかに、ジョン・ランディスはともかく、他は『ドラキュラ』『フェイク』『探偵』『大脱走』で充分だもんなあ。
とまあ、こんなトホホな「B級映画《の》の法則」だが、これが自分的にヒマつぶしの種になっている。
ルールは簡単。思いついた映画のタイトルに、監督か主演俳優の名前を入れるだけでアラ不思議。
あんな名作傑作が、ビデオ屋で(それもVHSで)投げ売りされてそうなB級作品に早変わりしてしまうのだ。
『スピルバーグのジョーズ』
『レオナルド・ディカプリオのタイタニック』
『コッポラのゴッドファーザー』
『リドリー・スコットのブレードランナー』
『新海誠の君の名は。』
『スタローンのロッキー』
『イーストウッドのダーティーハリー』
『キャメロンのターミネーター』
『ガイ・リッチーのホームズ』
おお、なんかどれも微妙におもしろくなさそうだ。映画館というよりも、休日の昼下がりにテレビ大阪で見るくらいが、ちょうどよさそうというか。
こういうタイトルを勝手に考え、
「なんか、どの映画にもレスリー・ニールセンが出てそうやなあ」
なんて一人で笑っていると、けっこう時間がつぶれます。
あとこれをやっていると、ふと、観ていて違和感があった映画に《の》をつけるとしっくりくることを発見したりして、
『ローランド・エメリッヒのインデペンデンス・デイ』
『バーホーベンのインビジブル』
『ブルース・ウィリスのアルマゲドン』
なんて、もとの邦題よりも全然こっちの方が雰囲気出ているような気がする。
M・ナイト・シャマランなんて、観る人によっては、
「あんな、おもしろそうな映画やのに、なんでこうなるの!」
とズッコケることもあるが(私はかわいくて大好きですが)、これはもう絶対タイトルに名前を入れるべきで、『アンブレイカブル』『サイン』『ヴィレッジ』だとそうなるけど、これが、
『シャマランのアンブレイカブル』
『シャマランのサイン』
『シャマランのヴィレッジ』
だと、「あー、そうそう、そんな感じの映画やった」となるのではなかろうか。ぜひ、おためしを。
(続く→こちら)