人生はすべて「結果論」? レナード・ムロディナウ『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する』 その3

2017年11月22日 | 

 前回(→こちら)に続いて、レナード・ムロディナウ『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する』を読む。

 入学試験において、ほとんど実力の変わらないはずの受験生が、どこでふるいにかけられるのか。

 勉強量? の良さ?

 大前提として、それはそうだろう。

 でも、「倍率72倍」の受験生は、そんなもん同じだけの蓄積を持っている。



 「ちゃんとやることやってれば、7割取れる」

 

 というのが、当時の大学受験というものだった。

 で、当落上の数点差で、合否が分かれる。

 「がんばって」「努力して」上限が7割

 なら、そこから1~4点抜け出るにはどうしたらいいかといえば、あと勝負のカギは、



 「自分が得意なジャンルが、その年の問題に出た(不得意な問題が出てなかった)かどうか」

 「カンで書いた答えが、当たっていたかどうか」

 

 なんか、そんなもんとかでがつくのだ。

 まさに、ランダムネスで勝負が決まる。

 徹頭徹尾に「公平」で「不公平」と言える、神様の気まぐれなサイコロ遊びで決まるのだ。

 これはもう、常に関関同立ラインの、

 「真ん中から下の方の合格圏内」 

 に位置していた、秀才ではない「ひと山いくら」な自分には、ものすごくリアルに感じられた真理だ。

 ぶっちぎったヤツ以外は、そんな紙一重で人生が決まる。

 よく、マンガなどで、ボンクラ生徒がテストの答えをエンピツ転がしで決めたりしているが、あれは正しいやり方なのだ。

 得意ジャンルの話でも、私の代では、当時関大国語の名物だった


 「漢字」

 「古文のマニアックな文法知識」


 という変則問題が出題されず、オーソドックスな読解問題に、大きく内容が変更されていたこともあった。

 これには古文が大の苦手だった(半分捨ててた)私にとって僥倖という言葉を越えたスーパーラッキーだった。

 けど、まじめに過去問を精査していた受験生は、ビックリしたことだろう。

 出題側は、なんの気まぐれだったか不明だが、もしこれがなかったら、私はもっと国語で苦戦していたハズ。

 むしろ、ちゃんと関大対策をしていた受験生こそ釈然としなかったろう。


 「あんたらの、かたよった悪問に照準合わせたのに、こんなフェイントかよ!」



 あれは、あんまりな仕打ちだった。

 だから私は、学歴社会にかぎらず、あらゆる「結果」は信用できないとは言わないけど、


 「それだけで判断はできんよな」


 とは思っている。

 だって、一発勝負は相当な数の、私のような、



 「たまたま《エンピツ転がし》で結果出しただけの人」



 を生むのだから。裏を返せば、



 「実力はあるのに、たまたま結果が出なかった人」



 これも山のようにいるわけだ。

 それの、どっちが偉いかっていったら、どっちなんでしょう?

 私には、わからない

 こんなもん、ペーパーテストで数点の幸不幸に過ぎないのではないか。

 実際、「たまたま」私が合格して入学式に出たとき、高校時代の友人ワカエがいて、おどろいたことがあった。

 彼は3年間優秀な成績で、皆に慕われ学級委員や部活のキャプテンまで務めた男だが、第1志望である国公立の大学に「たまたま」合格できなかった。

 そのため彼にとっては「すべり止め」の同じ学校に、籍を置くことになった。

 ちなみに私は3年間ロクに学校に行かず、成績は279人中279番ビリで卒業。

 追試すらサボった「仮卒業」という、超絶劣等生

 同じ浪人でも、



 「宇宙工学を学びたいため、どうしても第1志望をゆずれない」



 と合格していた私大を蹴った彼と、追試の数学で中学生レベルの問題も解けず、



 「こんな簡単なものを白紙答案とは、もしかして偏差値編重教育に対する、お前なりのレジスタンスなのか?」



 メチャクチャにアクロバティックな邪推をされた、大バカ三太郎とでは、もう志も人間のレベルも、貴族と乞食くらい違う。

 また、われわれの入学を歓迎してくれた友人イワタ君は、やはり3年間学年トップ5をキープする超優良生徒だったが、基本的にガツガツしたところがなく、



 「べつに、あくせく勉強してまで良い大学行く気もないしなあ」



 などと呑気なことを言って、指定校推薦で関大に入学していた。

 彼は「たまたま」組の私を見て、



 「こういうたらなんやけど、ボクとシャロン君が同じ大学って、絶対おかしいよなあ」



 なんてケラケラ笑っていたけど、ホントだよね。

 これは本当におかしいよ。数年前の頂点底辺が、履歴書だと同じ位置

 絶対にだって。

 この経験があるから、私は今でも、



 「結果って、なんなのさ」



 という疑念がぬぐえない。

 私は高校時代の自分も、ワカエ君も、イワタ君も知っている。

 その3人が、知らない人には同じ経歴になる。

 人間性も、の良さも、おそらくは勉強量も、将来への展望可能性意志も、まちがいなく彼らの方が「」なのに。

 そんな「結果」が、信用できるの?

 このとき私は、つくづく「たまたま」「偶然」「ランダムネス」の怖ろしさを思い知らされた。

 なんという冷徹なサイコロ遊び。

 そこにはなんら、エモーショナルなものはない。えげつないほどに公平で、不公平だ。

 この件に関して私は「たまたま幸運」だったのだから、素直によろこんでおけばいいのだろうけど、簡単に割り切れないなにかが残ったことは、たしかだ。

 もちろん、私だっていつ理不尽に「たまたま不運」なことが起こるかだって、わかったものでもない。

 だから私は「たまたま」の影響力を見くびっていないし、


 「結果がすべて」


 という考え方にも、ちょっとばかし懐疑的だ。

 少なくとも、「ぶっちぎり」以外は。

 「いい人」「優秀な人」でも、運に恵まれないこともあるということも、このとき学んだ。

 だから私は、そういう人を「失敗したな」と蔑んだり、「勝った」なんて慢心したりなどしない。

 逆に、自分に結果がともなわなかったときも、必要以上に卑下しない

 ベストを尽くしても、「そういうこともある」からだ。

 もちろん「結果」を軽視するわけではないし、人生のすべてが「たまたま」で決まるわけでもない。

 そもそも、人のことなんて深くは理解できないんだから、なんらかの「結果でしか判断できないわけだけど、


 「それだけじゃないよね」


 
 という思いが、どうしてもぬぐいされないのだ。

 まあ、受験にかぎらず、この世界はありとあらゆることがそうなのだろう。

 釈然としないといえばそうだけど、逆説的には、だからこそ「結果を出す」ということが大事なのかもしれない。

 みなさまの未来にも、幸運な偶然のご加護を。




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