「変な人」が変に見えるのは「論理的」であるから 『寄生獣』のミギー 編

2018年05月30日 | コラム
 な人は論理的である」

 
 というと、たいていの人は

 
 「えー、そんなことないよ。変な人は考え方が論理的じゃないから変なんでしょ」

 
 そう返してくるものだが、これがそうではない。
 
 私はわりと周囲に「変わっている」と言われる人が多い。

 マジメすぎて堅物と評される人や、芸術家体質の人までさまざまだが、彼ら彼女らにはひとつ大きな共通点がある。
 
 それは、周囲から見て「変だ」と思われている行動原理には、どれも「理由」が存在する。

 そこで、一回偏見を取りのぞいて、そこを語ってもらうと、世間が受け入れるかどうかは別にして、理屈としては、


 「なるほど、そういうことか」 


 腑に落ちることも多いからだ。
 
 そんなことを考えるようになったのは、岩明均先生の傑作マンガ『寄生獣』を読んだのがきっかけだった。
 
 主人公ミギーをはじめとするパラサイトはヒトではなく、それゆえか人間的感情常識感覚が欠如している。

 そして、その分徹底してドライ論理的である。
 
 典型なのが、パラサイトがヒトを食べることについて、ミギーと宿主である新一君の議論するシーン。

 
 「バケモンやん。普通やないで!」

 
 パニックになる新一君に、ミギーは
 

 「別におかしくはないやろ。人間かって他の動物を食べるわけやし」

 
 クールに反論。そこから、

 
 自然界では動物が、他の動物を補食することは普通であり、ならば人間エサにする生物がいるなら、そいつがそうしても、おかしくはない」

 「自分は他の動物を食べるのに、自分が食べられるのはおかしい、というのは筋が通ってない」 

 
 この論理展開に新一君は反論できず、


 「屁理屈や!」

 「やっぱり、おかしいってば!」


 逆アップをかますしかなくなってしまう。
 
 感情論や「ダメなものはダメ」という循環論法でしか語れない新一君に対し、ミギーは徹頭徹尾論理的である。

 でも、実際にこんなことを言う人がいたら(中二病的なカマシなら別だが)、はっきりいって「変なヤツ」あつかいであろう。
 
 また、ミギーは彼と新一君を敵視し、なんと授業中の学校に攻めこんできた「」というパラサイトと戦う際にも、

 
 「ここにいる生徒たちを《肉の壁》にして戦おか。まあ20人くらいは死ぬかもしれんけど、「A」が、そこでもたついている間に一撃でしとめるで」

 
 そんな作戦を提案し、新一君に、

 
 「なるほど、そりゃいいアイデアや。ミギーってホンマ天才やな……ってオイ!」

 
 見事なノリツッコミをかまされていた。
 
 ミギーからすれば、

 
 「生物は自己の生命が一番大事であり、そのためなら他者犠牲になることもあるのは、しょうがない」

 「それを嫌がって命を危険にさらすなど、優先順位のつけ方がおかしい」

 
 ということであり、まあ間違ってはいないけど、少なくともそれで「非論理的」な新一君を説得はできないのであった。
 
 かくのごとく、ロジックというのは、つきつめていくと時におかしなことになりがちというか、ハッキリ言って反社会的ですらありえる。

 反面、いかにわれわれの持つ「常識」というものが、好き嫌いをはじめとする「感情」といったアバウトなもので出来ているか、よくわかるではないか。
 
 
 (ドイツ軍編に続く→こちら
 
 
 
 
 
コメント
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