暴力が嫌いだ。
ヘイトやハラスメントを肯定する人と友達になりたくないし、善意の押しつけも慇懃な笑顔でゴメンこうむる。
「強者の横暴」を無視して「弱者や少数派の責任」だけに言及するのは、もうやめようよと心底願う。
「自分の不愉快」を「義憤」に変換しようとする心の動きを警戒する。下の者に責任をなすりつけて、ヘラヘラしている大人に反吐が出る。
自分が知らなかったり興味がないものを、バカにしたり、排除しようとしたりする想像力のなさに怒りをおぼえる。
「常識」という名の偏見を見直そうとしない人に絶望する。「多数派」であることだけに安堵する状態は、あまり健全ではないと考える。
頭の悪い人が、頭のいい人に無礼な態度で「お前は頭が悪い」という地獄はあまり見たくない。
憎悪をあおったり、若者や外国人を低賃金で使い倒すことが「かしこいやり方」とほくそえんでいる者など、ブラックホールに吸いこまれればいい。
でも世界は想像する以上に、それらを是とする人もいて、結構おどろかされっぱなしだ。
学生時代読んだ本に、こういう言葉があった。
人間は徳の名において正義を行使するにはあまりにも不完全だから、人生の掟は寛容と仁慈でなければならない。
―――アナトール・フランス『神々は渇く』
―――アナトール・フランス『神々は渇く』
「寛容」というと、なにやら道徳的でめんどくさそうだが、別にこれは
「嫌いなものでも、愛して受け入れろ」
みたいなことではない。
「自分と違うものを、《そういうものだ》と放っておけばいい」というだけのことだ。
これを皆が実行するだけで、人種間の確執や宗教戦争など、この世界からけっこうな多くの争いを、なくすことができるのではないだろうか。
でも、その一見簡単なことが、なかなかできない。
同志(タワリシチ)、常に人間というものは他の連中のやっていることを憎悪して、いつも駄目(ニエット)と言うものなんだ。
《かれら自身のためになることだから》そんなことはやめさせろ―――それを言い出す自分自身がそのことで害を加えられるというんじゃないのにだ。
《かれら自身のためになることだから》そんなことはやめさせろ―――それを言い出す自分自身がそのことで害を加えられるというんじゃないのにだ。
―――ロバート・A・ハインライン『月は無慈悲な夜の女王』
そう、われわれはしょせん「不完全」な存在だから。「他の連中のやっていることを憎悪」し、それを正しいことだと思いたがる。
人はきっと、自分が思ってたり望んでたりするほどには、気高くも賢明にもなれないのだろう。
だからせめて、自分がそうであることを自覚しておきたい。
いたらなさを受け入れ、多様性を尊重し、人の弱さを嘲笑せず(それは自分の弱さから目をそらし、他者に押しつける行為だから)、自分よりも「不完全さがマシ」な人や、そうあろうと常に努力している人に、尊敬の念を抱くことを忘れないでおきたい。
年の瀬にマリオ・バルガス=リョサ『チボの狂宴』を読み返しながら、ボンヤリとそんなことを考える。