名人戦の黄金カードといえば様々である。
大山康晴と升田幸三、中原誠と米長邦雄、谷川浩司の「21歳名人フィーバー」。
など様々あるが、平成の名人戦といえば、やはり、羽生善治と森内俊之にとどめを刺す。
前回は、2人の初顔合わせとなった名人戦の、第1局を紹介したが(→こちら)、今回も同じシリーズから。
1996年、第54期名人戦は羽生善治名人が、挑戦者の森内俊之八段を相手に、3勝1敗とリードして第5局をむかえた。
先手の羽生が相掛かりを選択し、押したり引いたりする難解な戦いに。
両者、盤面全体をくまなく使った熱戦になったが、森内優勢の局面から羽生もアヤシイねばりで追いこんでいく。
むかえたこの局面。
森内が△69銀と打ったところ。
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▲同玉は△48成桂と引いて、簡単に詰み。
一方の後手玉に詰みはなく、▲53香成とでもすれば、△78銀成から、とても先手玉は助からない。
藤井猛九段や、渡辺明三冠の口調を借りれば「考える気がしない」手順だ。
控室の検討でも、「森内勝ち」ということ結論になっていたそうだが、ここで羽生が指した手が、目を疑う驚愕の一着だった。
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18分考えて、▲53香成と、自玉を放置して、後手玉に詰めろをかけたのだ。
なんだ、これは?
先手玉は詰まされそうなのに、それを無視とはどういう了見か。
私も見ながら、「だから、詰まされるゆーてるやん!」と、思わずテレビにつっこんでしまった。
なにがなんだかサッパリわからないが、ここで攻めるということは、可能性はふたつしかない。
ひとつは、負けを悟っての「形作り」。
もうひとつは、先手玉が詰まないから。
まあ、詰まないはありえないから、羽生も首を差し出したのだろう。それ以外ない。
あとはちゃちゃっと王手して、第6局か。激戦やなあ。
なんて、すっかり打ち上げ気分だったが、なんだか対局場の雰囲気は、おかしなことになっている。
先手玉は詰むはずだ。それも、わりと簡単に。だからこそ、森内は△69銀と打ったのだ。
これが一手スキでないなら、そもそも森内はこの手を選ばないし、だいたい深く考えなくても、こんなもん、どう見ても詰みではないか。
ところが、森内は次の手を、すぐには指さない。
このあたりで、だんだんと、おそろしい想念にとらわれはじめる。
「どう見ても詰み」を、すぐ詰まさない。
てことは、これって、もしかして不詰?
いやまさか、そんなことあるわけがない。
先手玉は「玉の腹から銀を打て」の手筋で、受けがない形。
△78銀成と取って、▲同玉に△48竜とか。
△69銀とか△79金とか、カッコつけて△97角と退路封鎖の王手とか、せまる筋は無数にあるのだから。
そこを、悠々と▲53香成。
ふつうは「形作り」だけど、これを詰まないと読んで選んだとしたら、とんでもないこと。
結論をいえば、先手玉は詰まない。
なんと、森内の指した△69銀は、一手スキになっていなかった!
具体的に言うと、△78銀成、▲同玉に△69銀と王手する。
以下、▲88玉、△48竜、▲97玉、△86金、▲同歩、△87金、▲同玉、△78角。
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ここで▲97玉に△96角成と捨てて、▲同玉に△95香と打てば、▲同玉に△94歩以下ピッタリ。
というのが森内と検討陣の共通した読みだったが、この変化は△78角のとき▲98玉(!)と逃げるのが妙防。
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あえて△89角成と取らせてから▲97玉と逃げれば、△96角成がなくなるので不詰。
手順を追うと、みなが錯覚したのは理解できる。
ふつうは、竜の利きに入る▲98玉では、簡単に詰みそうだから盲点になる。
それをただひとりだけ、「詰みなし」と読み切っていた男がいた。
あの▲53香成は「形作り」どころか、堂々の勝利宣言だった。
その他にも、後手からは数え切れないほど王手の筋があるものの、すべて不詰。
その手順は勝又清和七段の著書『つみのない話』にくわしいが、とにかく変化がありえないほど膨大。
まるで円周率の終わりを探すような作業で、検討していると気が狂いそうになる。
その全部が詰まないのだ。信じられない、全部だよ、どうやっても、この先手玉は詰まないのだ!
その超難題を、すべてクリアしてのことだから、まさに神ががりだ。
結果的には、むしろ必殺のはずだった△69銀こそが「形作り」になってしまったということか。
この手では△97銀と捨てるのが退路封鎖の手筋で、▲同香に△99銀で必至だった。
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これなら森内が勝ちだった。
でも、こんな形が詰まないとか、判断を誤ったとしても責められないよ……。
震えるようなすごい見切りで、羽生が名人防衛を確定させた。
以下、△78銀成、▲同玉、△48竜に、▲68金、△69銀、▲同玉、△58金、▲78玉、△68金、▲88玉、△67金、▲68歩で、遠く馬の利きが強力で詰みはない。
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こんな将棋を勝ってしまうなど、羽生の名人位は盤石であり、また羽生と森内の「格付け」も一度は決着したかに思われた。
まさかその後、森内が先に「十八世名人」になるとは予想もできず、その意味では「今の評価」なんて今後どうなるかとか、案外わからないもんだとも思わされたのである。
(「終盤の魔術師」森雞二の逆転術編に続く→こちら)