「相手に手を渡すのがうまい」
というのは羽生善治九段の将棋を語るのに、よく出てくるフレーズである。
「手渡し」が、将棋ではいい手になることがあり、双方とも指す手が難しかいところや、また不利な局面で相手を惑わせたりするため、あえて1手パスするような手で手番を渡す。
私のような素人がやると単に1ターン放棄しただけになり、ボコボコにされるだけだが、強い人に絶妙のタイミングでこれをやられると、ムチャクチャにプレッシャーをかけられる。
そういう混乱と恐怖を生み出す手が抜群にうまかったのが、昭和なら大山康晴十五世名人、平成では羽生善治九段だった。
前回は谷川浩司の「光速の寄せ」を超えた、中村修の受けを紹介したが(→こちら)今回は、相手を惑わす羽生の手渡しと、その魔術的な逆転術を見ていただこう。
2001年の第26期棋王戦。
五番勝負は羽生善治棋王と久保利明七段が、相まみえることとなった。
羽生が2勝1敗とリードして、むかえた第4局。
久保の四間飛車に対して、左美濃に組んだ羽生が果敢に仕掛け、おたがいに飛車を持ち合う華々しいやり取りに。
むかえたこの局面。
先手の羽生が▲31飛と打ちこんだところ。
一見、窮屈なところにいるようで、下手すると詰まされてしまいそうな飛車だが、△42金のような手には、美濃囲いのコビンを開けているのが周到な下ごしらえで、▲64角が用意してある。
△43銀と逃げれば▲21飛成で、▲64桂のねらいがあって攻めが続くが、実はこの羽生の仕掛けは無理攻めだった。
△34飛と打つのが、振り飛車らしい返し技。
これで先手の飛車が完全に封じこまれ、次に△22角で殺される手を、防ぐことができない。
見事な対応で、ここは完全に久保が読み勝っていた。
困った羽生は、▲41角、△42金、▲63角成と攻めを継続するが、いかにも不自然というか強引で、よろこんで指したい順ではなさそう。
以下、久保は丁寧に面倒を見て竜を召し上げ、駒得で大きなリードを奪った。
そこから、羽生もなんとか食らいついて、この局面。
ここでは後手が明らかに優勢。
先手の攻めは細く、持駒にある2枚の大駒の使い道もむずかしい。
一方、後手は飛車と角がいい位置で、次に△76歩など、きびしい攻めが見える。
相当に急がされているが、この苦しげな局面で、羽生は信じられない手を披露する。
これが、クライマックスの第一弾だった。
▲24歩と突いたのが、目を疑う一手。
どういう意味があるのか見えないというか、そもそも意味があるのか理解不能だ。
なんじゃこりゃ?
そりゃ、手を渡したというのはわかるが、それにしたって、すごいところに手が伸びるものだ。
ムリに理屈をつければ、次に▲16角と飛車取りに打って、▲52角成の特攻をねらうとかだろうけど、それが本当に利いているかは、かなり微妙。
なら、どうせパスするなら、せめて▲74歩とか、▲66歩とか▲68歩とか。
まあ、歩切れになるし、これらがいい手かどうかはわからないけど、少なくとも▲24歩よりは、一手の価値はありそうではないか。
そんな受けにも利かず、相手玉へのプレッシャーもなにもない、純粋一手パス。
どうぞ好きにしてくださいと。善悪はともかく、「すごい手」なのは間違いない。
どう考えても、ありがたい後手は△76歩と急所にたたいて、▲同金に△64桂。
いかにもきびしい攻めで、これで先手が、まいっているようにしか見えない。
じゃあ、やはり▲24歩は、ただの緩手ということではないのか?
以下、10手ほど進んでこの局面。
△88金と打って、先手玉は絶体絶命。
▲85歩は△78飛成で簡単な詰みだが、それを受ける形がない。
進退窮まったに見える羽生だが、ここで今度は伝説的な妙手を披露し、難題をクリアしてしまう。
▲79金と引いたのが、盤上この一手の、すばらしいしのぎ。
△同金の一手に▲85歩と取って、なんと先手玉に寄りはない。
△78飛成としても、▲86玉と逃げて、金が△88から、ずらされているため、△87金と引く詰み筋が消えている。
まさに、魔術的な受けの妙技であり、久保も唖然としたのではあるまいか。
この将棋は、内容的にも熱戦だったが、くわえて一手パスのような手渡しと、最後にくるりと体を入れ替える絶妙手の組み合わせ。
まさに「羽生マジック」のお手本のような形。
本人は途中から必敗だったため、かなり不本意だったそうだが、それでもやはり、羽生らしい将棋といえるのではあるまいか。
(山崎隆之による新人王戦の初優勝編に続く→こちら)