「幻の妙手」について語りたい。
将棋の世界には、盤上にあったのに対局者が発見できないか、もしくは発見しても指し切れず、幻に終わってしまった好手というのが存在する。
昨今ではAIが発見して、モニターに映し出されたりするが、そういう手をいち早く指摘した棋士は、
「やるな」
「コイツ、強いぞ」
その評価も上がり、なにげにその後の勝負の結果にも、かかわってきたりするのだ。
前回は若手時代の森下卓九段が順位戦で喰らった「ベテランの洗礼」を紹介したが(→こちら)今回は「光速の寄せ」と、それにモノ申す「受ける青春」のぶつかり合いの将棋を。
1987年第28期王位戦は、高橋道雄王位と谷川浩司九段の対決となった。
このシリーズ、まず注目されたのは谷川の選ぶ戦型。
谷川は少し前からスランプにおちいり、昨年度は棋王戦で高橋に敗れて無冠に落ちてしまったが、このころから復調の兆しが見えはじめる。
その流れの良さと気分転換のため、
「毎局、作戦を変えて指したい」
そう宣言していたのだ。
そこで、ふだんはめったに指さない振り飛車穴熊なども披露し、その余裕がいい方に働いたのかスコアも3勝1敗とリードを奪う。
勝てば王位獲得の第5局でも、やはり谷川はシリーズ初登板のタテ歩取りを選択するが、そこからひねり飛車への移行がスムーズにいかず、作戦負けにおちいる。
高橋優勢で将棋は進むが、受け間違いが出てしまい混戦に。
むかえたこの局面。
先手の谷川が▲41にいた銀で、▲52銀不成と歩を取ったところ。
難解な終盤戦だが、先手が▲62角と設置したのが好タイミングで、後手は相当にあせらされている。
自玉は危険極まりないし、下手すると角で△26の香を抜かれて攻めが切れそうなど、いろいろと神経を使うのだ。
時間に追われた高橋は、ここで△28飛と打つが、これが敗着になった。
この手は△47桂からの詰めろだが、▲31飛成、△同玉、▲53角成、△22玉、▲32金、△12玉。
決めるだけ決めてから、手にした金を、▲48金打と打ちつけて先手勝勢。
△同銀成、▲同玉と手順に左辺へ逃げ出して、△27香成が詰めろになってないから▲31馬と必至をかけて勝ちだ。
これで谷川は王位獲得で無冠を返上。
▲62角のすばらしい働きと、▲48金打の緩急が、さすが谷川の終盤力である。
……と感心して終わりそうなところだったが、この将棋にはまだ続きがあった。
主役になるのは、控室で検討していた中村修王将。
中村は△28飛と打つところで、△17歩成とすれば後手が勝ちだという。
これに反論するのは、対局者であった高橋と谷川。
両者とも読みは一致していて、本譜と同じく▲31飛成、△同玉、▲53角成。
これが王手香取りで、以下△22玉、▲32金、△12玉。
そこまで進めて、そこで▲26馬と要の香をはずして受けに回れば(高橋の指した△28飛はこのとき香にヒモをつけている意)、先手陣は△28に角、金、銀を打たせなければ絶対に詰まない「ななめゼット」の形だから勝つと。
ところが、ここに罠があった。
△17歩成、▲31飛成に飛車を取らずに△12玉とかわせば、後手玉に寄りはなかったのだ!
▲13金からバラしても、上が抜けているから、まったくつかまらない。
王手で▲53角成とする筋がないと、△26の香をはずせないから、先手陣に受けがない。
▲17桂と取っても、△19飛で簡単に詰みだ。
……というのは、指摘されれば理解はできるけど、実戦でこんな手は思いつかないよ。
なんといっても、▲31飛成と、王手でボロっと金を取られて、それを逃げるという発想がない。
現に高橋と谷川という「最強者対決」の2人が盲点になっていたのだから、相当にありえない手なのだ。
こんなのを見抜いた中村王将は、まさに「受ける青春」の面目躍如。強い!
(羽生善治の驚異的な「一手パス」編に続く→こちら)