将棋の終盤戦は恐ろしい。
将棋は「逆転のゲーム」と呼ばれ、終盤戦、特に優勢な方が勝ち切る大変さは、「観る将」の人はもちろんだが、「指す将」の人は特に実感できるのではあるまいか。
一手のミスで、それまで積み上げたものが、あっという間に雲散してしまう恐ろしさ。
以前、将棋ファンの友人と話していて、
「将棋の終盤戦って、華々しい切り合いに見えて、実は【綱渡り】【爆弾処理】みたいな感じよな」
「一番、近いのは【ジェンガ】のような気がするなあ」
「じゃあ、逆転ねらって勝負手くり出したり、時間攻めするのって、相手のペースを乱す【ヤジ】みたいなもんやね」
「そうそう。給食で牛乳飲んでる子を、《プーゥ》言うて、笑かしにかかるのと同じやねん」
なんて盛り上がったものだが、そういう乱れは、トップ棋士ですら時にまぬがれないもの。
前回は久保利明九段の、さわやかな桂使いを紹介したが(→こちら)、今回はまさに、終盤戦で「ジェンガ」が、くずれる瞬間を見ていただきたい。
1994年、第63期棋聖戦第3局。
羽生善治棋聖と谷川浩司王将の一戦。
先手の羽生が、角換わり腰掛銀から先行し、当時よく見た▲11角と打つ定跡に。
後手は馬を駆使して、飛車を押さえこもうとするが、先手も端を突破して攻勢を続ける。
むかえた、この局面。
谷川が△77金と、カチこんだところ。
強烈な一撃だが、先手陣の一番固いところを攻めているため、まだ一気の寄りはなさそう。
なら羽生としては、手番を生かして攻めたいところで、ここに手筋がある。
▲71銀と打つのが、習いのある手。
一目、▲44桂と取りたいところだが、それには△61玉などから、左辺の広いところに逃げられるのが、いやらしい。
この銀は飛車取りと同時に、左右挟撃の態勢を整える、きびしい手。
「玉飛接近すべからず」
の格言通りの形で、△72飛と逃げるも、そこで▲44桂と取り、△同金に▲77桂と駒を補充。
△同歩成、▲同銀に、△55桂もきびしい一撃だが、▲84桂と打ち返して、こちらのほうが速い。
一回、△67桂不成と王手で飛車を取ってから、△71飛とするも、▲44馬と取るのが、ピッタリの決め手。
△同馬に、▲42金、△53玉(△62玉)、▲52金打までの
「詰めろ馬&飛車取り」
という、「光速の寄せ」のお株をうばう、美しすぎる形で試合終了。
こうなると、▲71銀と▲84桂のコンビプレーが、いかに輝いているか、わかるではないか。
谷川は△77香不成、▲同金に、△67桂と王手する。
局面は、ハッキリ先手勝ち。
この「最後のお願い」は形作りでもあり、▲88玉と上がって、△79銀に▲98玉とすれば、△89銀にも△88飛にも、▲97玉とすれば詰まない。
相当にせまられて怖いが、筋としてはむずかしくなく、それこそプレッシャーのない「次の一手問題」として出されれば、アマ初段クラスでも、読み切れる形だ。
ところが羽生は、この明快な手順を選ばず、▲67同金と取る。
これには△65桂と飛ぶと、△71にある飛車が一気に通っての空き王手になる。
▲71馬と取れるが、そこで△78歩のビンタが、△65の桂と連動して、メチャクチャに怖い手だ。
私なら、この局面で「やっちまった……」とガックリきてしまうが、実はそういうのがよくない。
将棋というのは「1手1000点」などと言われるが、逆に言えば一手ならまだ1000点ですむわけで、実際それだけで即死ということは存外ないのだ。
むしろ、悪手を指したあと動揺して、続けて悪い手を選んでしまい、その2発目が致命傷となるケースが多い。
「悪手は悪手を呼ぶ」
といい、プロのみならず、アマチュアプレーヤーでも「せやねんなあ」と苦笑とともに、身につまされると思うが、この局面もそうだった。
△78歩に、▲69玉とすれば、△89飛や△79飛の王手はあっても詰みはない。
また本譜の、▲68玉、△79銀にも、▲58玉と寄れば耐えていた。
つまり羽生は、勝ちの場面から「悪手が悪手を呼ぶ」をやってしまったうえに、さらにもうひとつ悪手を指したのだから、いくら勝っていても、それではひっくり返る。
詰むように詰むように、逃げたわけで、こういうのを
「2人がかりで寄せる」
「ココセ」(相手から「ここに指せ」と命令されて指したような悪手のこと)
といい、整理すると、△78歩、▲68玉、△79銀、▲59玉、△49飛まで後手勝ち。
▲同玉に△39馬と入って、▲58玉に△68銀成と金を取り、▲同玉に△57馬としてピッタリ。
中盤で、飛車を押さえるために打った△38歩が、まさかここで働いてくるとは、まさに「勝ち将棋、鬼のごとし」である。
羽生棋聖が、なにを錯覚したのはわからないが、大逆転もさることながら、こんな「3手連続悪手」なんていうのは、きわめてめずらしいシーン。
こういうこともあるのが、将棋の終盤戦なのである。
(羽生が見せた「下段香」の好手編に続く→こちら)
(若手時代に見せた、羽生の信じられないポカは→こちら)