「オチないんかい!」という関西人について、大阪人が対処法を考えてみた その2

2021年11月23日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。
 
 「話にオチないんかい!」
 
 世間話で関西人につっこまれて、他府県の人がビックリしたり、憤ったりしているという話はよく聞く。
 
 それはなぜかと問うならば、ひとつは関西人にありがちな、
 
 
 「オレはおもしろい」
 
 「笑いのセンスがある」
 
 
 という勘違い(単に「人気者」だからみんなが笑ってくれるだけだったり)から生まれる「上から目線」。
 
 それともうひとつ、ここから個人的見解になるんだけど、そういった「芸人気取り」以外に、たぶん「オチ」を求める傾向として、
 
 
 「句読点の有無」
 
 「サービス精神」
 
 「感謝の心」
 
 
 これらが、あるのではないかと。
 
 単純な「お笑い」的要素は、実はそんなに重視されてないわけで、そこを「おもしろい」かどうかで測ろうとすると、本質を見失うのではないかと思うわけだ。
 
 まず、そもそも論として、私としては本当に「オチのない話」に違和感を感じるのが、関西人だけなのかという疑問がある。
 
 そう感じたのは、マンガ家である、西原理恵子さんの本を読んでいたときのこと。
 
 『鳥頭紀行』や『毎日かあさん』など、エッセイ漫画で西原さんはたまに、
 
 「話の面白くないヤツ」
 
 に怒っていることがある。曰く、
 
 
 「つまんねえ話を長々と」

  「しかも、そこにオチがなくて、時間返せとブチ切れそうになる」
 
 
 また、ミュージシャンの大槻ケンヂさんも、エッセイや対談なんかで、たしか
 
 「ライブの打ち上げに行かなくなった」
 
 ことに対する理由として、
 
 
 「いやもうねえ、つまんないうえに、オチもない話を延々する人とかがつらくて。どうしてやろうかと思いますよ」。
 
 
 やはり、似たような提言をされておられる。
 
 先日、マトコちゃんという女子としゃべっていたとき、話題が彼女が昔行った旅行の話になった。
 
 なんでも、ハイソな人々が集まる地区のオシャレなカフェで食事をしたそうなのだが、そこで周囲から聞こえてくる会話を、なにげなく耳にしていて驚いたことが、
 
 
 「すごいねん。あそこの人ら、自分の話しかせえへんのよ」
 
 
 場所柄、比較的オシャレだったり裕福な人が集まるゆえか、そのほとんどが、自分のこと、さらにいえばイケてる自分のこと、平たく言ってしまえば
 
 「ストレートな自慢話
 
 しか飛び交っていないというのだ。
 
 そこでマトコちゃんがいうには、
 
 
 「あの人らって、サービス精神とか感謝の気持ちがないんやろかね?」
 
 
 彼女は不思議そうに、
 
 
 「あたしなんか、そりゃ自慢が楽しいのはわかるけど、それよか人としゃべってたら、せっかく自分のために時間割いてくれてるわけやから、もっとゆかいな気分になってほしいけどなあ」
 
 
 そう言ってさらに、
 
 
 「それに、長話を聞いてくれたら、ありがとうって思うけど、そうやない人もおるんやね」
 
 
 これには深く、うなずかされたものだ。
 
 わかるよ。メッチャわかる
 
 話を聞いてくれてる人には、せっかく自分のために時間を割いてくれているんだから、一緒に楽しんでほしい。
 
 それこそ、このブログだって読んだ人に、楽しい気分になってほしい。役立つ情報を届けたい。
 
 けっこう、自然な発想だと思うわけなのだ。
 
 このとき私は、先の西原さんと、オーケンことを思い出したのだ。
 
 そう、この3人の言っていることは同じだ。
 
 西原さんにしても、オーケンにしても、マトコちゃんにしても、べつに単に「話がつまらない」こと自体に怒っているわけではないのだ。
 
 それよりも、むこうに
 
 「聞いてくれてる人を楽しませたい
 
 という発想がないことに、ガッカリしているのだ。
 
 話の内容が問題なのではない。
 
 人とのコミュニケーションは、いついかなるときでも、良いものでもない。
 
 そんないつも、興味を引ける話題があるわけでもないし、話術の達人がいるわけでもない。
 
 親友や恋人ですら、話してて退屈を感じることだって、いくらでもある。
 
 会話というのは、そういうものなのだ。
 
 だったら、
 
 「自分のターンのときは、なるたけ相手がよろこびそうな話をしたい」
 
 という願望を持つのは、ポジティブな人間関係構築に大事なのではないか? 
 
 ということが言いたいわけだ。
 
 
 (続く→こちら
 
 
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