前回(→こちら)の続き。
アメリカのドキュメンタリー監督であるモーガン・スパーロックに憤っている、わが友ミテジマ君。
その理由は、『ビン・ラディンを捜せ!~スパーロックがテロ最前線に突撃~』という映画の中で、プロレスファンのパキスタン人おじさんが、その愛について、
「プロレスはガチだからね」
そう語ったところ、モーガンがこんなことを言ったからだ。
「でも、これはショーだろ」。
これには、思わずテレビの前でさけんでしまった。
なんてことをいうんだモーガン!
プロレスはガチではない。それは売れっ子アイドルのファンをつかまえて、
「こんなかわいい子が、彼氏いないわけねーじゃん」
「芸能界目指すようなイケイケだよ? 裏で派手に遊んでるに決まってるって」
なんて言うようなもんだ。下手すると、その場で撃ち殺されても文句は言えない。
私もヤングのころはデリカシーがなかったので、よく
「プロレスって、八百長やろ」
などと発言して、胸倉をつかまれたり、苦笑されたり、深夜営業のファミレスで朝までこんこんと説教されたりと、失敗をくり返してきたもんだ。嗚呼、モーガン、キミはその重みを知らないのである。
そのへんの事情はわかるので、オサマが出てくるまでもなく、アメリカ対イスラムの一触即発なことになるのではないかと緊張が走ったが、そこはパキおじさんも、笑顔こそひきつっていたものの、
「でも決勝はガチンコだよ、ベルトがかかってるからね」。
見事な大人の対応を見せた。
私はここに、信仰の力というのを見た。イスラムのことではない。プロレス愛のことだ。
このパキおじさんは、今でもプロレスはガチだと信じている。少なくとも決勝は。いや、そりゃワシだって心の底では……、いやいや、んなことはない! ベルトがかかっているもの!
私はこの場面で、ミテジマ君の憤慨を理解した。というのも、日本でプロレス人気が衰退したのは、
「プロレスはショーです」
と、はっきり認めてしまった瞬間からといわれている。
そら、みんな薄々はわかっている。でも、あえてそれをいわずに、肉体と肉体とがぶつかりあう、「プロレス的」真剣勝負を楽しむというのが、粋人の魂ではないか。
まさにアイドルと同じだ。わかってる、そんなもんわかってるねんと。でも、そこをガチと信じるもよし、斜めからの視点でも結構だけど、「すべて受け入れて」楽しむのがファンの正しい態度なのだ。
それをつかまえて、いかにも「どや」な顔で「王様は裸だ!」と笑う、そんなさかしらな態度など笑止である。
プロレスとは、そういうものだったはずだ。私はプロレスには興味はないが、その「純度」みたいなものの高さは認めているつもりだ。そこに
「でも、ショーなんでしょ(笑)」。
たしかにヒドイ。モーガン、あんたは頭が良くて、社会問題解決にも貢献してるか知らんが、人の心はわかってない!
いかに世界を語ろうが、すばらしい芸術を創作しようが、市政に生きる人々の夢を、悪気こそないとはいえ冗談にしていいのか。
NO! 断じてNOである! ボンクラ男子、なめんなよ!
当然のこと、パキおじさんもイラッとしたはずだ。
敵国から来たこの青年は、明朗快活ないい男であると。これなら、もしかしたら将来アメリカという国と仲良くなれるかもしれない。そんな希望を抱いたのかもしれない。
そこに「プロレスはショー」発言。
わかってないぞ、モーガン。では聞くが、果たしてキミは同じノリで、
「イスラムとか言うけど、ホントはアラーなんていないんでしょ?」
そう彼らの前で訊けるのか?
これは揚げ足取りではない。実際のところ、この映画のテーマともかぶるところがあるのだ。
モーガンが作品を通して言いたいことの中に「リスペクト」があると思う。異文化、異民族でも、それぞれちがっても同じ人間だ。
「自分とちがうから」「興味がないから」「わからないから」「バカバカしいから」といった理由で排除してはならない。お互いに尊重しあえるよう、もっと知り合おうではないか。
だったら、「イスラム」は認めるけど、「プロレス」はイジってもいい、とはならないのではあるまいか。「信じている」という意味では、この両者は等価のはずなのだから。
教養も才能あるキミなら、話せばわかってくれるはずだ。モーガンよ、今からウチの近所のデニーズに来いと。ミッキー・ロークの大傑作『レスラー』を観ながら、朝までディスカッションしようじゃないか。
なんで新日と全日の区別もつかないド素人が、こんなにもプロレスのために熱くならなければいけないのか意味不明だが、本来なら、それこそ米パ戦争が勃発してもおかしくない暴言だったかもしれないものに、おじさんはグッと耐えた。
そして惑いを押し殺して、
「プロレスはガチンコ」。
こんな男らしい宣言はあろうか。
ミスター高橋氏によるプロレスショー宣言のあと、近所の居酒屋でレモンチューハイをあおりながら、
「わかってたよ。でも、でもなあ……」
と、私の前で男泣きに泣いたミテジマ君が、このモーガンの発言に立ち上がったのは、しかりであろう。
たしかにこれはダメだよ、モーガン。あんたは気の利いたジョークのつもりかもしれないけど、パキおじさんは、ちょっと狼狽してたじゃないか。
日々まじめに働いて、仕事終わりのプロレス観戦が楽しみというお父さんに、
「でも決勝はガチンコだよ、ベルトがかかってるからね」。
へどもどと、こんな発言をさせてはいけないのだ。これは理屈抜きの、男の仁義として。
以上の旨をミテジマ君に伝えると、
「そう、そうやねん! シャロン君、わかってくれたか!」
大感動されてしまった。
もう一度言うが、私はプロレスどころか格闘技全般になんの興味もないけど、それにしたってゆるせる、ゆるせないの基準くらいはわかる。
こうして深夜の居酒屋で、大いにその友情を確かめ合った私とミテジマくんは、その後も子供のころ読んでいたマンガ『プロレス・スターウォーズ』や、ファミコンの『タッグチームプロレスリング』の話で盛り上がり、それを聴いていた別の友人の、
「あのさあ、そのスパーロックとかいう人に代わって言うけど、たぶんその映画の見るところ、そことちゃう気がする……」
という言葉は、店の喧騒の中に溶けていったのであった。
アメリカのドキュメンタリー監督であるモーガン・スパーロックに憤っている、わが友ミテジマ君。
その理由は、『ビン・ラディンを捜せ!~スパーロックがテロ最前線に突撃~』という映画の中で、プロレスファンのパキスタン人おじさんが、その愛について、
「プロレスはガチだからね」
そう語ったところ、モーガンがこんなことを言ったからだ。
「でも、これはショーだろ」。
これには、思わずテレビの前でさけんでしまった。
なんてことをいうんだモーガン!
プロレスはガチではない。それは売れっ子アイドルのファンをつかまえて、
「こんなかわいい子が、彼氏いないわけねーじゃん」
「芸能界目指すようなイケイケだよ? 裏で派手に遊んでるに決まってるって」
なんて言うようなもんだ。下手すると、その場で撃ち殺されても文句は言えない。
私もヤングのころはデリカシーがなかったので、よく
「プロレスって、八百長やろ」
などと発言して、胸倉をつかまれたり、苦笑されたり、深夜営業のファミレスで朝までこんこんと説教されたりと、失敗をくり返してきたもんだ。嗚呼、モーガン、キミはその重みを知らないのである。
そのへんの事情はわかるので、オサマが出てくるまでもなく、アメリカ対イスラムの一触即発なことになるのではないかと緊張が走ったが、そこはパキおじさんも、笑顔こそひきつっていたものの、
「でも決勝はガチンコだよ、ベルトがかかってるからね」。
見事な大人の対応を見せた。
私はここに、信仰の力というのを見た。イスラムのことではない。プロレス愛のことだ。
このパキおじさんは、今でもプロレスはガチだと信じている。少なくとも決勝は。いや、そりゃワシだって心の底では……、いやいや、んなことはない! ベルトがかかっているもの!
私はこの場面で、ミテジマ君の憤慨を理解した。というのも、日本でプロレス人気が衰退したのは、
「プロレスはショーです」
と、はっきり認めてしまった瞬間からといわれている。
そら、みんな薄々はわかっている。でも、あえてそれをいわずに、肉体と肉体とがぶつかりあう、「プロレス的」真剣勝負を楽しむというのが、粋人の魂ではないか。
まさにアイドルと同じだ。わかってる、そんなもんわかってるねんと。でも、そこをガチと信じるもよし、斜めからの視点でも結構だけど、「すべて受け入れて」楽しむのがファンの正しい態度なのだ。
それをつかまえて、いかにも「どや」な顔で「王様は裸だ!」と笑う、そんなさかしらな態度など笑止である。
プロレスとは、そういうものだったはずだ。私はプロレスには興味はないが、その「純度」みたいなものの高さは認めているつもりだ。そこに
「でも、ショーなんでしょ(笑)」。
たしかにヒドイ。モーガン、あんたは頭が良くて、社会問題解決にも貢献してるか知らんが、人の心はわかってない!
いかに世界を語ろうが、すばらしい芸術を創作しようが、市政に生きる人々の夢を、悪気こそないとはいえ冗談にしていいのか。
NO! 断じてNOである! ボンクラ男子、なめんなよ!
当然のこと、パキおじさんもイラッとしたはずだ。
敵国から来たこの青年は、明朗快活ないい男であると。これなら、もしかしたら将来アメリカという国と仲良くなれるかもしれない。そんな希望を抱いたのかもしれない。
そこに「プロレスはショー」発言。
わかってないぞ、モーガン。では聞くが、果たしてキミは同じノリで、
「イスラムとか言うけど、ホントはアラーなんていないんでしょ?」
そう彼らの前で訊けるのか?
これは揚げ足取りではない。実際のところ、この映画のテーマともかぶるところがあるのだ。
モーガンが作品を通して言いたいことの中に「リスペクト」があると思う。異文化、異民族でも、それぞれちがっても同じ人間だ。
「自分とちがうから」「興味がないから」「わからないから」「バカバカしいから」といった理由で排除してはならない。お互いに尊重しあえるよう、もっと知り合おうではないか。
だったら、「イスラム」は認めるけど、「プロレス」はイジってもいい、とはならないのではあるまいか。「信じている」という意味では、この両者は等価のはずなのだから。
教養も才能あるキミなら、話せばわかってくれるはずだ。モーガンよ、今からウチの近所のデニーズに来いと。ミッキー・ロークの大傑作『レスラー』を観ながら、朝までディスカッションしようじゃないか。
なんで新日と全日の区別もつかないド素人が、こんなにもプロレスのために熱くならなければいけないのか意味不明だが、本来なら、それこそ米パ戦争が勃発してもおかしくない暴言だったかもしれないものに、おじさんはグッと耐えた。
そして惑いを押し殺して、
「プロレスはガチンコ」。
こんな男らしい宣言はあろうか。
ミスター高橋氏によるプロレスショー宣言のあと、近所の居酒屋でレモンチューハイをあおりながら、
「わかってたよ。でも、でもなあ……」
と、私の前で男泣きに泣いたミテジマ君が、このモーガンの発言に立ち上がったのは、しかりであろう。
たしかにこれはダメだよ、モーガン。あんたは気の利いたジョークのつもりかもしれないけど、パキおじさんは、ちょっと狼狽してたじゃないか。
日々まじめに働いて、仕事終わりのプロレス観戦が楽しみというお父さんに、
「でも決勝はガチンコだよ、ベルトがかかってるからね」。
へどもどと、こんな発言をさせてはいけないのだ。これは理屈抜きの、男の仁義として。
以上の旨をミテジマ君に伝えると、
「そう、そうやねん! シャロン君、わかってくれたか!」
大感動されてしまった。
もう一度言うが、私はプロレスどころか格闘技全般になんの興味もないけど、それにしたってゆるせる、ゆるせないの基準くらいはわかる。
こうして深夜の居酒屋で、大いにその友情を確かめ合った私とミテジマくんは、その後も子供のころ読んでいたマンガ『プロレス・スターウォーズ』や、ファミコンの『タッグチームプロレスリング』の話で盛り上がり、それを聴いていた別の友人の、
「あのさあ、そのスパーロックとかいう人に代わって言うけど、たぶんその映画の見るところ、そことちゃう気がする……」
という言葉は、店の喧騒の中に溶けていったのであった。