前回(→こちら)の続き。
ここまでの通り、1992年の第50期名人戦は、挑戦者の高橋道雄九段が中原誠名人を3勝1敗と押しこんでいる(第1回は→こちらから)。
これはスコアのみならず、内容面でも圧倒しており、特に中原が「相矢倉」で3敗したことも衝撃だった。
カド番の第5局は、中原先手で初手▲26歩。
当然であろう。負けたら終わりの勝負で、意地もへったくれもない。
プライドも名人の沽券もかなぐりすてて、相掛かりにたくすしかないのだ。
矢倉で勝ってこそ名人? 純文学? 知らん、知らん!
そんなん言うてるうちに、このザマや。ほたらなにか? もし負けたら、アンタが養ってくれる言うんか?
文字通りの「必死のパッチ」である。
ただ、この将棋は中原の居直りが功を奏したか、はたまた高橋にプレッシャーがあったか、中盤戦でほぼ決着がつくという意外なこととなった。
ここが封じ手の局面だが、▲22歩と打って「オワ」である。
まだまだこれからのように見えるが、後手陣は金銀がバラバラの浮き駒だらけで、△22同金の壁形も痛く、すでに収拾がつかないのだ。
事実、ここでは高橋も相当に悲観しており、
「封じ手に【投了】と書こうかと思った」
と語るほど。
さすがに、本当には投げないにしろ、それくらい後手が勝てない形なのだ。
以下、▲74歩から▲94歩と教科書通りに仕掛けて、先手が圧勝する。
これで中原から見て2勝3敗と、星をひとつ返すこととなったが、さあここである。
第5局は思わぬ拙戦だったが、高橋からすれば後手番であるし、スコア的にも「捨て試合」にできるところではあった。
問題は、高橋が先手になる第6局である。
当然、矢倉で来るはずだ。こうなったら、受けるほうもエースにたくすしかない。
「沢村先発」。すなわち相矢倉だ。
だが、中原はここに勝ててない。
いわば、長期戦で自軍は弾切れに悩まされつつあるのに、まだ相手の方は潤沢な補給も受けた主力部隊が、無傷で残ったままのようなもの。
果たして、シリーズ2勝の相掛かりが使えない後手番で、
「負けてるのを見たことがない」
と称賛される、高橋必殺の「矢倉▲37銀型」をブレークできるのか。
いや、できたとしても、最終局の振り駒次第では、もう一回、高橋の先手番矢倉と、やりあわなければならないかもしれない。
八方ふさがりになった中原は、ふたたび苦悶の海に沈む。
なにを指すのか。矢倉か? それとも振り飛車のように、他の戦法でかわす? その付け焼刃が、今の高橋に通用するのか?
またしても、オープニングに注目が集まった。
高橋の初手は100パーセント▲76歩である。その次の手が問題だ。
堂々と矢倉なら△84歩。△34歩なら変化球。
エースと心中か、はたまた、まだ隠し玉があるのか。
1戦目 降谷●
2戦目 沢村●
3戦目 川上〇
4戦目 降谷●
5戦目 川上〇
この星勘定で、あなたなら川上を使えない6戦目の先発を、どうするだろうか。
まるで、告白の返事を聞く高校生の心境だ。どっちなんだ、どっち?
答えは△34歩だった。
将棋ファンで『血涙十番勝負』という大名著もある山口瞳さんも、雑誌で取り上げたように、またしても名人が矢倉を捨てた。
「エース沢村」はもう出番がない。まさかの展開だが、ことここまでくれば予想できたともいえる。
矢倉回避はわかった。じゃあ、なにを指す。
振り飛車か? それとも横歩取り?
▲26歩に、中原の4手目は△84歩。
中原誠名人は、負ければ無冠に転落するというこの大一番に、初めて横歩取りを採用したのだ。
たしかに中原は居飛車中心のオールラウンダーで、横歩取りだって問題なく指せる。
とはいえ、このカド番で指しなれない戦法を持ってくることは、やはり勇気が必要だったろう。
現に米長邦雄や谷川浩司との名人戦では、指しているのを見た記憶がないし、中原自身も、
横歩取りは以前、席上対局で2番勝っている。
第4局のあと銀河戦でも高橋君相手にうまく指せたんでね。
銀河戦の結果は大きかった。負けていたら作戦に窮していたかもしれない。
銀河戦はまだしも、「席上対局」の結果まで持ち出してくるとは……。
いわば、降谷と沢村が通用せず、シリーズ2勝と頼れる川上も投げられないこの試合で、今はセンターを守っている「元投手」の東条秀明を、
「練習試合でいいピッチングをしていたから」
という理由で、初めて公式戦のマウンドに送るようなものだ。
追い詰められてのこととはいえ、片岡監督……じゃなかった中原名人の度胸も並ではない。
……て、さっきから『ダイヤのA』を読んでない人にはサッパリだろうから、実際のプロ野球で例えると、要するに阪神で言えば、村山実とジーン・バッキーを差し置いて、ピーター・バーンサイドが先発するようなものです(←よけいにわかりにくいだろ!)。
そんな、奥の手と言えるのかどうかという、苦しまぎれだが、将棋のほうは熱戦に。
△54桂と打つのが、いかにも「桂使いの中原」らしい好感触の手。
飛車切りを催促しながら、桂馬も入手できそうだから、それを△46に打てば、継ぎ桂の手筋が、先手の中住まいの弱点であるコビンにヒットする。
以下、▲44飛、△同歩、▲64桂、△同歩、▲73歩成、△同金、▲62角、△63金、▲44角成、△43歩、▲55馬、△76歩、▲88角。
そこで△85飛と浮くのが、「自在流」内藤國雄九段のような華麗なさばきで、後手の駒がいかにものびのびしている。
高橋が押しこまれているようだが、まだ難しい形勢で、ここで▲22馬と踏みこめば、先手が有望であった。
△46桂打も怖いが、それ以上に後手玉も薄い。
好機に▲72銀や▲61銀と挟撃されると、あっという間に寄ってしまうかもしれない。
チャンスだったが、高橋は第3局に続いて、ここでも踏みこめなかった。
▲56馬と自重して、中原のさらなる攻撃を誘発してしまったのだ。
最後は「一手ばったり」のようなポッキリ折れる負け方で、まさかの先手番ブレークをゆるしてしまう。
これで勝負は3勝3敗のタイに。
様々な思惑が交差した第50期名人戦も、ついにフルセットで決着をつけることになった。
そう、これこそが大名人中原誠の、かけひきと勝負強さ。
そしてここからも、渡辺明名人が
「印象に残った名人戦」
として取り上げ、この名人戦を総括した米長邦雄九段が
「詐欺師の手口」
と呼んだ、海千山千の勝負術が、見事な逆転劇を生むことになるのだ。
(続く→こちら)
来月の結果稿では『増補新版すなどけい松田圭市詰将棋作品集』の記事が載る予定です。
作品集については、ただいま金欠中なので、また次の機会があればにさせてください。