「おもしろく間違っている人」と話すのが楽しい。
という話を先日したわけだが(→こちら)、小説や映画の感想をあれこれしゃべっていて、「正しい解釈」を語るよりも、
「ズレていても、その人にしか思いつかない視点」
これを見せてくれる人の方が、圧倒的に興味を惹かれるのだ。
私も若いころはそうだったが、どうしても人間は自分のさかしらな知識を披露し、そのプライドと自己顕示欲を満たすために、せっせと物語の「テーマ」「メッセージ性」などを探し、アピールすることに血道をあげてしまう。
だが実際のところは、そんなもん聞かされても、退屈でめんどくさいことが多いし、中身もうすく、的外れなことがほとんどだ。
そういうものは、玄人の映画評論家や書評家にまかせておいて、われわれはもっとフリーダムにやってもいいのでは。
経験的に見ても
「それ絶対に鑑賞ポイント間違ってるけど、オレには絶対に思いつかん発想やわ」
という「間違った」意見の方がよっぽどか参考になるし、その人となりが伝わるものなのだ。
その好例を、今回ここに紹介してみたい。
ドラマ化もされた、柘植文先生『野田ともうします』の1シーンで、
これですよ! これ、これ!
この野田さんによる、読みどころのはずし方がすばらしい!
あのヘミングウェイの名作といわれる『老人と海』を捕まえて、
「マグロの刺身がうまそうじゃない」
とは、独自が過ぎるではないか。
しかも「主人公に共感できません……」とうなだれるとか。
そんなに大事か、マグロの刺身。
さらに彼女が偉いところは、
「巨大魚との戦いの過酷さ」
という本質をしっかりと読み取ったうえで、「だとしても」と間違っていること。
この「一回、知性が乗っかった」うえで、わざわざ「そっちかよ!」と意表をつきまくる。
つまりは「頭のいい誤読」なのだ。
もっと言えば、すべてが本気なのがいい。こういうところで、
「オレはちょっと、ナナメの視点からモノを見れるセンス系の人間」
というアピールをされると、冷めることはなはだしい。
ウケねらいではダメなのだ。そこに「熱き魂」があってこその、おもしろい間違いである。
その点、野田さんの解釈、エド・ウッド風に言えば「パーフェクト!」
私もこれから海外文学に接するときは、
「文学における和食的美味の視点」
これを忘れずに、その妙味を味わってみたいと思う。