目黒駅西口より左側の横断歩道を渡ると右方に下る急な坂があります。
この坂が行人坂です。
行人坂の名の由来は、大円寺を拠点とする修験道の行者がこの坂を往来したことによるそうです。
江戸市中から目黒不動尊への参詣路であり、参詣が盛んになるにつれ、道筋に町並みができたり、坂の途中に富士見茶屋がつくられたりしたそうです。
以下、目黒区HPから抜粋
行人(ぎょうにん)坂は、下目黒1丁目8番の雅叙園西わきを北東へ、目黒川の太鼓橋から目黒駅の東方に上る急坂である。この坂は、江戸時代に権之助坂が開かれる前は、二子道として、江戸市中から目黒筋に通じる大切な道路であった。
「江戸名所図会」には「目黒へ下る坂をいふ。寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建立し、大円寺と号す」とある。
行人坂という名称は、湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂(現大円寺)を建て修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったのでつけられたという。
また、この坂は「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大火のひとつ(行人坂火事)とも関連して知られている。行人坂火事は明和9年(1772年)2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し、3日間も燃え続けたというものである。明和9年の出来事であったので、だれいうとなく「めいわくの年」だと言い出したので、幕府は年号を「安永」と改めたといわれている。
そして、この坂の途中に大円寺があります。
当寺は、寛永年間(1624年~1644年)湯殿山修験道の行者大海が創建したのに始まると伝えられています。
1772年(明和9年)2月、寺僧の放火により、本堂より出火(明和の大火・行人坂火事)。江戸市中628町を延焼し、振袖火事、車町火事と並び、三大火事といわれるようになりました。火元となった寺であることから、その後76年間も江戸幕府から再建の許可が得られず、江戸時代後期の1848年(嘉永元年)になって薩摩藩主・島津斉興の帰依を得、その菩提寺として再建されました。明治になって、隣接した明王院が当寺に統合されました。
境内に左側の五百羅漢像は、この大火の犠牲者の供養のためにつくられたものとされています。
次に続きます。
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行人坂の名の由来は、大円寺を拠点とする修験道の行者がこの坂を往来したことによるそうです。
江戸市中から目黒不動尊への参詣路であり、参詣が盛んになるにつれ、道筋に町並みができたり、坂の途中に富士見茶屋がつくられたりしたそうです。
以下、目黒区HPから抜粋
行人(ぎょうにん)坂は、下目黒1丁目8番の雅叙園西わきを北東へ、目黒川の太鼓橋から目黒駅の東方に上る急坂である。この坂は、江戸時代に権之助坂が開かれる前は、二子道として、江戸市中から目黒筋に通じる大切な道路であった。
「江戸名所図会」には「目黒へ下る坂をいふ。寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建立し、大円寺と号す」とある。
行人坂という名称は、湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂(現大円寺)を建て修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったのでつけられたという。
また、この坂は「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大火のひとつ(行人坂火事)とも関連して知られている。行人坂火事は明和9年(1772年)2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し、3日間も燃え続けたというものである。明和9年の出来事であったので、だれいうとなく「めいわくの年」だと言い出したので、幕府は年号を「安永」と改めたといわれている。
そして、この坂の途中に大円寺があります。
当寺は、寛永年間(1624年~1644年)湯殿山修験道の行者大海が創建したのに始まると伝えられています。
1772年(明和9年)2月、寺僧の放火により、本堂より出火(明和の大火・行人坂火事)。江戸市中628町を延焼し、振袖火事、車町火事と並び、三大火事といわれるようになりました。火元となった寺であることから、その後76年間も江戸幕府から再建の許可が得られず、江戸時代後期の1848年(嘉永元年)になって薩摩藩主・島津斉興の帰依を得、その菩提寺として再建されました。明治になって、隣接した明王院が当寺に統合されました。
境内に左側の五百羅漢像は、この大火の犠牲者の供養のためにつくられたものとされています。
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