日々史跡めぐり

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芳林山 長昌寺(前橋)

2015-06-02 | 仏閣
前橋市紅雲町の芳林山長昌寺



長昌寺は延徳元年(1489)に創建されました。
武蔵国(埼玉県)児玉郡骨波田村長泉寺の大洞禅師が開山で、厩橋城主の長野信濃守方業の開基とされています。

戦国期、上杉氏、北条氏、武田氏、北条氏らの攻防の中、厩橋城の支配者はめまぐるしく変遷。
天正9(1581)年には火災のため焼失し、城主の北条高広が現在地に再建。



天正10年(1582)、武田家滅亡に伴い、織田信長から派遣され新しい城主となった滝川一益は、近隣の土豪を召集して城中で能興行を催すとともに、長昌寺には町民を集め、能興行鑑賞の機会をもうけ、これが、上州における初めての能興行と伝えられています。



長昌寺の本堂前には、本城氏一族の墓の三基の五輪塔があります。



本城氏は出羽・最上義光の家臣で、本城満茂の所領は4万5000石と最上家中における最高の禄高でした。
しかし元和8年(1622)家臣団の内紛から57万石を没収され、領主の義光のみかろうじて1万石を与えられて、近江国に改易に。

厩橋城主・酒井忠生は、本城満茂をはじめとする一族郎党を家臣として迎え、最上衆と呼びました。
長昌寺のある柿宮村(現・紅雲町)周辺が最上衆の居住区になっていたと見られ、本城氏の有力幹部たちは長昌寺を菩提寺としていました。厩橋藩でも高い地位を与えれた本城氏は、長昌寺の有力な檀家となります。

寛延元年(1748)、酒井氏が姫路に転封されると、最上衆も従ってすべて姫路に去ってしまいました。

文化8年(1811)藩主の参勤交代で江戸勤務中だった本城満主が、家臣を長昌寺に派遣して、祖先の墓を調べさせ、墓の荒廃を直し、絵図面をつくらせました。



五輪塔は、満茂の妻や次女、満茂の後の本条城主になるはずだった親茂の墓。
小塔は、満茂の子、満信の墓と考えられています。

また、長昌寺の墓地には、新島襄の愛弟子である堀貞一とその家族も眠っています。

(長昌寺HP参照)

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コメント (2)
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