永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで、今川義元を失った今川軍は潰走、拠点の大高城で織田方の水野信元の使者からの今川義元討死の報を聞いた松平元康(のちの徳川家康)は、岡崎の松平家の菩提寺・大樹寺に手勢18名ととも逃げ込みました。
しかし寺を囲んだ追撃の前に絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害して果てる決意を固め、第13代住職登誉天室に告げると、登誉は問答の末「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)」の経文[汚れなき世を築くために生きよ」の教えを説いて諭しました。これによって元康は、生き延びて天下を平定し、平和な世を築く決意を固め、教えを書した旗を立て、およそ500人の寺僧とともに奮戦し郎党を退散させました。以来、元康はこの言葉を馬印として掲げるようになります。こうして元康は、今川軍の元での城代山田景隆が打ち捨てて空となった古巣の岡崎城に辿り着いたとされています。
大樹寺の歴史
応仁元年(1467年)、松平氏宗家第4代当主の松平親忠が井田野合戦の死者を弔うために千人塚を築きました。しかし、塚が振動し、悪病が蔓延するなどの事態となり、増上寺開山聖聡の孫弟子勢誉愚底(せいよぐてい)に念仏をさせて抑えたといいます。
文明7年(1475年)、戦死者供養のため松平親忠の開基、勢誉愚底の開山により大樹寺が創建されました。「大樹」とは征夷大将軍の唐名であり、松平氏から将軍が誕生することを祈願して、勢誉愚底により命名されたと伝わるものです。
親忠により大樹寺は松平氏の菩提寺とされ、松平郷の高月院にあった墓から分骨され、先代3代である松平親氏墓、松平泰親墓及び松平信光墓が大樹寺に作られました。
天文4年(1535年)、松平氏宗家第7代当主松平清康により再興され、一層方形二層円形の多宝塔が建立され、現在、国の重要文化財となっています。
山門
寛永18年(1641)徳川家光建立(県指定文化財)
楼上に後奈良天皇の勅額「大樹寺」(重要文化財)が掲げられ、釈迦三尊16羅漢を安置しています。
本堂
松平家と徳川幕府の庇護のもと隆盛を誇っていた大樹寺も、安政2年(1855)幕末の騒然たる時代に、出火により本堂、庫裏、書院など主要建物が全焼し、後に約2~3割減の規模で再建されたそうです。
鐘楼
寛永18年(1641)3代・徳川家光公建立。楼上の大鐘は9代・家重改鋳によるもの。
岡崎に行くことがまたあれば、再度訪ねてみたいです!