和歌浦天満宮には、学問の神様・菅原道真が祀られ、大宰府天満宮、北野天満宮とともに日本の三菅廟といわれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/d2/b696bbcb96232e6b63b8555de1a46472.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/96/a97c98b53b10e1b12112f38ab8a94b89.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/41/01254e3b7f413ba79044a4753fc2d4ce.jpg)
ここまで来て、雨があまりにも強く、この急な階段を上がって行くのを断念しました。
楼門
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/09/53c11878ed0def572db45ce56cb73f85.jpg)
慶長10年(1605年)の建立。入母屋造、本瓦葺き。
一間楼門として最大規模。
※本殿や末社・多賀神社本殿の画像は、Wikipediaよりお借りしました。
本殿
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/7c/21e19160c6934f03115a22d55f3f8c2e.jpg)
国重要文化財。 慶長11年(1606年)の建立。紀伊藩主・浅野幸長によって再興されたもの。入母屋造、檜皮葺き。
蟇股には動物や草花の彫刻、内外部ともに美しい極彩色が施されています。
本殿、楼門などの建築や彫刻には、紀州根来出身の平内吉政・政信親子が関わりました。後に政信は江戸幕府の作事方大棟梁になっています。(和歌浦天満宮公式サイト参照)
末社・多賀神社本殿
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/74/59653ae2719430b662956bd4e7f2c224.jpg)
延喜元年(901年)に菅原道真が大宰府に向かう途中、海上の風波を避けるために和歌浦に船を停泊した。その時、神社が鎮座する天神山から和歌の浦を望み、2首の歌を詠んだ。その後、村上天皇の康保年間(964 - 968年)に参議橘直幹が大宰府から帰京する途中に和歌浦へ立ち寄り、この地に神殿を建て道真の神霊を勧進して祀ったのが始まりとされる。また、道真が立ち寄った際に、敷物がなく、漁師が船の艫綱を敷物(円座)にして迎えたといい、綱敷天神とも称せられるという。天満宮は和歌浦天神山(標高約93m)の中腹に位置し、菅原道真を祀り、和歌浦一円の氏神として尊崇されている。
全国に天満宮と称する神社は数多くあるが、江戸時代の朱子学者で、徳川家康のブレーンも勤めた林羅山は、元和7年(1621年)、この地を訪れ、和歌浦天満宮は太宰府天満宮、北野天満宮と共に由緒がある神社であると言っている。
社殿は、豊臣秀吉の天正13年(1585年)の兵火の後、桑山重晴、浅野幸長により再建された。浅野幸長は、慶長9年(1604年)〜同11年(1606年)にかけて天神山の中腹を開墾して社地を造成し、本殿、唐門、拝殿、楼門、東西廻廊などを再建したが、これが現存する天満神社である。本殿奥や楼門前面の石垣も、この時造られたものである。再建された本殿、楼門など4棟が重要文化財に指定されている。本殿は桁行五間・梁間二間の入母屋造で、装飾性の豊かな桃山建築である。正面の楼門は一間一戸門としては最大級で、禅宗様を取り入れている。本殿、楼門等の建築や彫刻には、江戸幕府御大工棟梁の平内政信(へいのうちまさのぶ)が関わった。(Wikipediaより)
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ここまで来て、雨があまりにも強く、この急な階段を上がって行くのを断念しました。
楼門
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慶長10年(1605年)の建立。入母屋造、本瓦葺き。
一間楼門として最大規模。
※本殿や末社・多賀神社本殿の画像は、Wikipediaよりお借りしました。
本殿
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国重要文化財。 慶長11年(1606年)の建立。紀伊藩主・浅野幸長によって再興されたもの。入母屋造、檜皮葺き。
蟇股には動物や草花の彫刻、内外部ともに美しい極彩色が施されています。
本殿、楼門などの建築や彫刻には、紀州根来出身の平内吉政・政信親子が関わりました。後に政信は江戸幕府の作事方大棟梁になっています。(和歌浦天満宮公式サイト参照)
末社・多賀神社本殿
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延喜元年(901年)に菅原道真が大宰府に向かう途中、海上の風波を避けるために和歌浦に船を停泊した。その時、神社が鎮座する天神山から和歌の浦を望み、2首の歌を詠んだ。その後、村上天皇の康保年間(964 - 968年)に参議橘直幹が大宰府から帰京する途中に和歌浦へ立ち寄り、この地に神殿を建て道真の神霊を勧進して祀ったのが始まりとされる。また、道真が立ち寄った際に、敷物がなく、漁師が船の艫綱を敷物(円座)にして迎えたといい、綱敷天神とも称せられるという。天満宮は和歌浦天神山(標高約93m)の中腹に位置し、菅原道真を祀り、和歌浦一円の氏神として尊崇されている。
全国に天満宮と称する神社は数多くあるが、江戸時代の朱子学者で、徳川家康のブレーンも勤めた林羅山は、元和7年(1621年)、この地を訪れ、和歌浦天満宮は太宰府天満宮、北野天満宮と共に由緒がある神社であると言っている。
社殿は、豊臣秀吉の天正13年(1585年)の兵火の後、桑山重晴、浅野幸長により再建された。浅野幸長は、慶長9年(1604年)〜同11年(1606年)にかけて天神山の中腹を開墾して社地を造成し、本殿、唐門、拝殿、楼門、東西廻廊などを再建したが、これが現存する天満神社である。本殿奥や楼門前面の石垣も、この時造られたものである。再建された本殿、楼門など4棟が重要文化財に指定されている。本殿は桁行五間・梁間二間の入母屋造で、装飾性の豊かな桃山建築である。正面の楼門は一間一戸門としては最大級で、禅宗様を取り入れている。本殿、楼門等の建築や彫刻には、江戸幕府御大工棟梁の平内政信(へいのうちまさのぶ)が関わった。(Wikipediaより)
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四方さんは、境内を隈無く回られたのですね。
私が撮れなかった社殿を拝見させていただきました。
またの機会に訪ねてみます!