和歌山城の本丸跡へ進んでいきます。
本丸御殿跡
本丸御殿は、虎伏山の頂上付近にあったため、藩主は二の丸御殿に住むようになっていきました。
初代・徳川頼宣と正室・瑤林院(加藤清正の娘)、14代・徳川茂承と正室・倫宮則子女王(伏見宮邦家親王の娘)が邸宅に定め、倫宮則子女王が住んだため、宮様御殿とも呼ばれました。
1621年(元和7年)に造られた本丸庭園には、宝船を模した七福の庭がありましたが、給水場設置に伴い、1923年(大正12年)に松の丸へ移築されました。
天守
浅野家が虎伏山の西の峰に天守閣を築造。
三層の大天守から時計回りに多門、天守二之御門(楠門)、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと続く連立式天守でした。
寛政10年(1798)十代藩主徳川治宝により白壁の白亜の天守となりますが、弘化3年(1846)の落雷で焼失。
御三家ということで特別に認められ、嘉永3 年( 1 8 5 0 )に再建されました。
昭和1 0 年(1935)国宝に指定されましたが、昭和20年7月9日の和歌山大空襲で焼失。
市民からの要望もあり、昭和33年に鉄筋コンクリートで復元されました。
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本丸御殿跡
本丸御殿は、虎伏山の頂上付近にあったため、藩主は二の丸御殿に住むようになっていきました。
初代・徳川頼宣と正室・瑤林院(加藤清正の娘)、14代・徳川茂承と正室・倫宮則子女王(伏見宮邦家親王の娘)が邸宅に定め、倫宮則子女王が住んだため、宮様御殿とも呼ばれました。
1621年(元和7年)に造られた本丸庭園には、宝船を模した七福の庭がありましたが、給水場設置に伴い、1923年(大正12年)に松の丸へ移築されました。
天守
浅野家が虎伏山の西の峰に天守閣を築造。
三層の大天守から時計回りに多門、天守二之御門(楠門)、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、御台所、小天守へと続く連立式天守でした。
寛政10年(1798)十代藩主徳川治宝により白壁の白亜の天守となりますが、弘化3年(1846)の落雷で焼失。
御三家ということで特別に認められ、嘉永3 年( 1 8 5 0 )に再建されました。
昭和1 0 年(1935)国宝に指定されましたが、昭和20年7月9日の和歌山大空襲で焼失。
市民からの要望もあり、昭和33年に鉄筋コンクリートで復元されました。
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