大津市打出浜、琵琶湖岸の大津なぎさ公園の歩道沿いに「明智左馬之助湖水渡」の石碑が立っています。
明智左馬之助は、明智光秀の娘婿であり、重臣でした。
当初は三宅弥平次、後には明智弥平次と名乗り、通称は左馬之助。
明智光秀は、本能寺の変の後、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、拠点であった坂本城も落城。
光秀の死を安土城で知った左馬之助は、坂本城を目指しますが、大津市打出浜付近で、秀吉軍の堀秀政と遭遇。
窮地に陥った左馬之助は、打出浜から馬に騎乗したまま琵琶湖を渡り切ったといわれています。
そして、坂本城に到着しましたが、秀吉の軍勢に囲まれた左馬之助は、自分の妻、光秀の妻子を刺し殺し、自ら城に火を放ち自害しました。
明智左馬之助
湖水渡りのところ
天正十年(一五八二)六月二日、明智光秀は主君織田信長を本能寺に攻めて自害させ、天下を奪ったが、山崎の合戦で秀吉に敗れ、その野望は消え失せた。
光秀の弟左馬之助光春は、信長の居城安土城を攻めていたが、兄の死を聞いて急ぎ坂本城へ引き返す途中打出浜より路を湖水に求め愛馬にまたがりびわ湖を渡り坂本に帰った。
しかし時すでに遅く秀吉の軍勢に囲まれ、六月十四日、光秀の妻女らとともに、城と命運をともにした。
湖水渡りの勇姿は、今も講談などで語りつがれている。
案内板では、明智左馬之助は「明智光秀の弟」とありますが、左馬之助の出自には諸説あります。
この碑の隣には、お城の形をした琵琶湖文化館がありますが、老朽化のため現在休館中とのこと。
増改築が困難で、廃止が検討されてるとか。
立派な建物なのに惜しいですね。
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明智左馬之助は、明智光秀の娘婿であり、重臣でした。
当初は三宅弥平次、後には明智弥平次と名乗り、通称は左馬之助。
明智光秀は、本能寺の変の後、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、拠点であった坂本城も落城。
光秀の死を安土城で知った左馬之助は、坂本城を目指しますが、大津市打出浜付近で、秀吉軍の堀秀政と遭遇。
窮地に陥った左馬之助は、打出浜から馬に騎乗したまま琵琶湖を渡り切ったといわれています。
そして、坂本城に到着しましたが、秀吉の軍勢に囲まれた左馬之助は、自分の妻、光秀の妻子を刺し殺し、自ら城に火を放ち自害しました。
明智左馬之助
湖水渡りのところ
天正十年(一五八二)六月二日、明智光秀は主君織田信長を本能寺に攻めて自害させ、天下を奪ったが、山崎の合戦で秀吉に敗れ、その野望は消え失せた。
光秀の弟左馬之助光春は、信長の居城安土城を攻めていたが、兄の死を聞いて急ぎ坂本城へ引き返す途中打出浜より路を湖水に求め愛馬にまたがりびわ湖を渡り坂本に帰った。
しかし時すでに遅く秀吉の軍勢に囲まれ、六月十四日、光秀の妻女らとともに、城と命運をともにした。
湖水渡りの勇姿は、今も講談などで語りつがれている。
案内板では、明智左馬之助は「明智光秀の弟」とありますが、左馬之助の出自には諸説あります。
この碑の隣には、お城の形をした琵琶湖文化館がありますが、老朽化のため現在休館中とのこと。
増改築が困難で、廃止が検討されてるとか。
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小学校のときから明智左馬之助 はしっています。むかしは馬にのって泳いでいったとか、でも本当は浅いところをいったんでしょうね。
あそこは矢橋と大津の渡船があったところです。江戸時代になってから、行き来も増えたようですわ。
やはり地元では有名なのですね。
浅いところでも、馬に乗って湖を渡るなんて素敵ですね!