谷中霊園に行く途中、谷中の天台宗の天王寺の前を通りかかりました。
正式名称は「護国山尊重院天王寺」です。
護国山天王寺
日蓮上人はこの地の住人、関長燿の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長燿は草庵を結び、その像を奉安した。-伝承による天王寺草創の起源である。一般には、室町時代、応永(1294-1427)頃の創建という。
「東京府志料」は、「天王寺 護国山ト号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ日蓮宗ニテ長燿山感應寺ト号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで”富くじ”興行が開催された。目黒不動滝泉寺、湯島天満宮の富くじとともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。
元禄12年(1699)幕府の命令で、感應寺は天台宗に改宗した。ついで天保4年(1833)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、「五重塔」で知られていた。しかし昭和32年7月6日、惜しくも焼失してしまった。(台東区教育委員会)
かつて、天王寺には五重塔が存在しましたが、残念なことに焼失してしまいました。
天王寺五重塔跡
谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長曜山感応寺尊重院と称し、道潅山の関小次郎長輝に
由来する古刹である。元禄十二年(1699)幕命により天台宗に改宗した。
現在の護国山天王寺と改称したのは、天保四年(1833)のことである。最初の五
重塔は、寛永二十一年(正保元年・1644)に建立されたが、百三十年ほど後の明和
九年(安永元年・1771)目黒行人坂の大火で焼失した。羅災から十九年後の寛政三
年(1791)に近江国(滋賀県)棟梁八田清兵衛ら四十八人によって再建された五重
塔は幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとしても知られている。
総欅造りで高さ十一丈二尺八寸(34・18メートル)は関東で一番高い塔であった。
明治四十一年(1908)六月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のラ
ンドマークになっていたが、昭和三十二年七月六日放火により焼失した。
現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石、方二尺七寸の外陣四隅柱礎石及び廻縁の束
石二十個、地覆石十二個総数四十九個はすべて花崗岩である。大島盈株による明治三年
の実測図が残っており復元も可能である。中心礎石から金銅硝子荘舎利塔や金銅経筒が、四本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。(東京都教育委員会)
ブログランキングに参加しています(*^_^*)
応援よろしくお願いしますm(__)m
人気ブログランキングへ
正式名称は「護国山尊重院天王寺」です。
護国山天王寺
日蓮上人はこの地の住人、関長燿の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長燿は草庵を結び、その像を奉安した。-伝承による天王寺草創の起源である。一般には、室町時代、応永(1294-1427)頃の創建という。
「東京府志料」は、「天王寺 護国山ト号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ日蓮宗ニテ長燿山感應寺ト号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで”富くじ”興行が開催された。目黒不動滝泉寺、湯島天満宮の富くじとともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。
元禄12年(1699)幕府の命令で、感應寺は天台宗に改宗した。ついで天保4年(1833)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、「五重塔」で知られていた。しかし昭和32年7月6日、惜しくも焼失してしまった。(台東区教育委員会)
かつて、天王寺には五重塔が存在しましたが、残念なことに焼失してしまいました。
天王寺五重塔跡
谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長曜山感応寺尊重院と称し、道潅山の関小次郎長輝に
由来する古刹である。元禄十二年(1699)幕命により天台宗に改宗した。
現在の護国山天王寺と改称したのは、天保四年(1833)のことである。最初の五
重塔は、寛永二十一年(正保元年・1644)に建立されたが、百三十年ほど後の明和
九年(安永元年・1771)目黒行人坂の大火で焼失した。羅災から十九年後の寛政三
年(1791)に近江国(滋賀県)棟梁八田清兵衛ら四十八人によって再建された五重
塔は幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとしても知られている。
総欅造りで高さ十一丈二尺八寸(34・18メートル)は関東で一番高い塔であった。
明治四十一年(1908)六月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず、谷中のラ
ンドマークになっていたが、昭和三十二年七月六日放火により焼失した。
現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石、方二尺七寸の外陣四隅柱礎石及び廻縁の束
石二十個、地覆石十二個総数四十九個はすべて花崗岩である。大島盈株による明治三年
の実測図が残っており復元も可能である。中心礎石から金銅硝子荘舎利塔や金銅経筒が、四本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。(東京都教育委員会)
ブログランキングに参加しています(*^_^*)
応援よろしくお願いしますm(__)m
人気ブログランキングへ
通りかかった時の記憶があるのではないですか?
昨年の湯島天満宮で読んでいたのでした!
東京都の国宝の数は、昨年奈良県を追い越し、京都に継いで2番目となっています!