京都の一条戻橋から東へ50mほど行ったところに、聚楽城 加藤清正邸の案内板があります。
Googleマップで、偶然見つけました。
豊臣秀吉が京都に築いた聚楽第において加藤清正の屋敷があったとされる場所です。
「聚楽亭」と書くことがあり,「じゅらくのてい」とも読み,「聚楽城」とも称する。天正 13 (1585) 年関白に就任した豊臣秀吉が,京都内野の大内裏跡に建てた邸宅。同 14年春に着工し,翌年9月完成した。秀吉隆昌期の所産で,四周を濠塁で囲み,このうえない豪華壮麗さで天下に威勢を示したといわれ,同 16年4月には後陽成天皇の行幸を仰いでいる (→聚楽行幸記 ) 。同 19年 12月関白を養子秀次 (→豊臣秀次 ) に譲り,聚楽第も秀次の居所となったが,文禄4 (95) 年7月秀次を高野山へ追って自殺させ,その8月聚楽第も秀吉の命で破壊された。その殿舎の多くは伏見城へ移された。大徳寺唐門,西本願寺飛雲閣および浴室にその遺構がみられる。桃山文化の代表的建築物である。
(コトバンクより)
当地は平安京の左京北辺二坊五町にあたります。「蜻蛉日記」の著者藤原道綱母が住まいし、のち武将源頼光や道綱が引き継いだ平安時代の一条邸跡とされます。
付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地です。
応仁元年(1467)5月26日、東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め入り、一条大宮で戦いました。そのため、当時この北方にあった革堂(行願寺)・百万遍(知恩寺)・誓願寺などが焼亡しました。以後洛中の寺社、貴族・武家邸がまたたくまに被災し、古代・中世都市平安京は壊滅しました。
羽柴(豊臣)政権には、秀吉・秀次の聚楽城からみて東方にあたり、複数の大名屋敷が建設されました。当地付近は、西隣地「主計町」の地名によって加藤主計守清正邸跡と伝承されます。尼崎本「洛中洛外図」には、正親町小路「現中立売通」と思われる道路(図の一条戻り橋は誤りか)と堀川の交点東入ルの北側に「加藤主計殿」とあり、その傍証といえます。
徳川時代には、少なくとも文久3年(1863)以前筑前黒田福岡屋敷となりました。
なお当地の向かいは小出伊勢や上行寺、ついで五摂家筆頭の近衛家筆頭邸が建設されました。
当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地でした。(案内板より)
この案内板によると、数年前に設置されたようですね。
一条戻橋や晴明神社までは何度か訪ねていますが、この通りは初めて通ったので、今まで知りませんでした。
一条戻橋からすぐのところにあります。
どうぞ参考にしてください!