どうしたもんかなあ・・・・・・?
今日の朝日新聞声欄に“新幹線に子連れ優先席ほしい”というものが載っていた。
心臓病を抱える一歳のお子さんを連れて毎月一回、新幹線を利用されているお母さんの投稿。
自由席を利用されているようだが座れることが無いようだ。
1月29日付ハフポスト“境治 赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない”という記事から、
新幹線自由席に子連れ優先席があれば楽になると考えられたようだ。
子育ての苦労は生半可なものではなく、
まして病気を持ったお子さんとなれば、その苦労はいかばかりだろう。
だがだからと言って、もろ手を挙げて賛成できないのはどうしてなんだろうと考え込んでしまった。
私は無理解な世間と同じなんだろうか?
朝日新聞が掲載OKと考えたからには、ある程度こういう要望があって、
こういう制度があってもいいとする考え方があるのだろう。だが、どうも、私は受け入れられない。
厳密にいうと、境治さんという人が言っていることも少し的がずれているように感じている。
真意は測りかねるが、多分、
境さんが言われようとしていることは、社会で新しい世代の育ちを応援しましょうということだろう。
それはルールを作りましょうというのではなく、
おおらかに「子育て」を受け入れましょうということではないのだろうか?
いたわられるべきは「子育て世代」ばかりではないのだから。
いろいろな事情で助けが必要な人に、手を差し伸べられる社会でありましょうと言っているのではなかろうか?
そして私が思うに、ルールがどうであれ、そこに助けてほしい人がいて、
できるのであれば・・・ルールを守ることよりもたすけることを優先するべきことだろう。
昨年3月、北海道では猛吹雪によって死者が出た。
その時、携帯会社に位置情報の問い合わせをしたが、
個人情報保護法のため警察からの依頼でなければ教えられないと断ったのだそうだ。
法律の使い方としては間違っていない。誰もこのことで罰せられるものはいない。
でも、私はあの時感じた。人の命がかかっているときに、だれか一人でもその法律をまげて、
場所を教えようとした人はいなかったのか・・・と。
たら、れば、もしや・・・はないが、考えないでもない。
ルールとは、何か?
人が穏やかに暮らしていけるための約束。
だが、時にルールを守るためのルールになっていないだろうか?
その場、その場で、みんなが納得すれば、納得させることができれば、
ルールなんてあってなきがごとしでいいと思う。
臨機応変、みんなが穏やかな気分で過ごせるほうが、ルールを守ることよりも優先されてしかるべきだと思う。
「あの場はあれが一番だった」とみんなが了解できる。
それでいいに決まっている。
その上で、もめないためのルール作りだったはず。
そういうルールは最低限必要だと思う。
そしてもう少しいえば、
あえて通勤時間帯に、月に一回新幹線に乗らなければならないようなお子さんは、日本全国探してもそうはいないだろう。
そのわずかなお子さんのためにルールを作るよりは、
その子の周りの人間が、その親子のために融通する空気がある方が何倍も子育てしやすい国に決まっている。
それでもごり押しするほど席が欲しい状況なら、やっぱりそれはいくら費用がかさんでも指定席を取るべきだろう。
と、ここら辺まで考えが進んで来たら、この親子は実在するのかと疑問が起こってきたのだ。
だって、心臓になんらかの不具合のある1歳の子ども連れが、
月に一回病院に検査に向かうのに、指定席もとらずに通勤時間に自由席で動くだろうか?
これは、母親としては、ちょっと?だ。お母さんの年齢はアラフォーだ。
まず、私が親ならば、子どもに負担がかからないゆったりと動ける時間に病院の予約をとるだろうし、
どうしても朝動くのであれば、指定席は必須だろう。
1歳の子どもなんだよね・・・・歩きとおせるわけでもない子ども。
もしや、この投稿は、朝日新聞の作り事なのではないだろうか・・・と勘繰りたくなってきてしまったのだ。
NHKのあのいやらしい会長のこともある。
この頃のジャーナリストは、どうも、世の中を馬鹿にしているところがあるようだ。
信頼 揺らいでいるなあ。
そう考えたら、声欄の投稿の信ぴょう性というのは、どこに言質されているのだろう。
反面、ベビーカーで我が物顔に混んだ電車に乗り入れてくる、傍若無人の親子連れの様子も浮かんできた。
当事者でないと計り知れない事情というものもあるのだろう。
いろいろな妄想が浮かんできてしまった。
くわばらくわばら、下手に口出ししてはやっぱりいけないのだ。
子育ては大変だけれど、助けを頼むと見ず知らずの人でも案外助けてくれるもんだ。
若い世代に言いたいな、「あんまりカリカリせずに子育てしてほしい」と。