我が家の末っ子、中学生最後の参観に行ってきました。
いろいろ考えてしまいました。
これで授かった子どもすべてが、義務教育を終える。
まだどの子も自活を始めていないので、親として支えてやることはまだまだ続くのだが、
“楽しい子育て”の時間はこれで終わったのだな、と感じています。
ここから先は大人のつきあいです。
平成元年に長男を授かって、ちょうど四半世紀。
振り返ると、本当に楽しくて充実した時間でした。
それは私の力というよりも、子どもたちの力がほとんどで、
何かほかのことでこれだけの手ごたえを得るという事は、とても難しいと思っています。
昨日の参観の授業は「道徳」 キャリア教育のようなものが行われていた。
自分の来た道、現在、これからの事を整理して、プリントのますの中に書き入れていく。
それによって、今、自分がやるべきことを意識させるということだろうと思う。
公立高校の受験を来週に控えた中学3年生には、こういうものしかありえないだろうし、
また反面、酷なようにも感じた。
時間内に書き上げた子は数名で、わが子は親が観ていたこともあってだろう、
終了のチャイムが鳴ってから提出していた。
先に出かした子の物をいくつか先生が発表してくれた。
まだまだ小学生に毛が生えたくらいの壮大な夢を語る子もいれば、現実の受験にしっかりと向き合い
その延長線上の事をきっちりと書いている子もいた。
中に「一攫千金の人生設計」を書き上げた子がいた。
宝くじやロトを買い続けるようだ。 若いときには当たらないが22歳の時に8億があたり、その後はのんびりゆっくりと暮らすのだそうだ。
どうしてそう考えたか理由を書く欄が設けられているのだが
彼の理由は「お金がないと、辛い思いをするから」とあった。
ああ、この子はそういう思いをしているんだ・・・と、感じた。
この子たちは生まれた時から、いわゆる景気のいい時を知らない。真面目にやってもよくならないというような理不尽な現実の中で育ってきている。
彼らには、そんなもやもやがまとわりついてしまっているのかもしれない。
それは彼らのせいではなく、私たち大人のせいだ。
本当に申し訳ないと思う。 私の子どもの頃、日本はこんなに裕福ではなかった。
なかったが、明るかった。 真面目にやっていれば暮らしていけるという、どこか心の余裕があった。
今はあの時よりはるかに物質的には裕福だが、暗い。
お金がなくたって僕が頑張れば幸せに暮らしていける、という気持ちも持てないのだろう。
ああ、どうしたら彼らに「世の中そんなに捨てたもんじゃない」と伝えることができるのだろう?
子どもと直接かかわれた私の“子育て”はもう終了する。
それでも、年長者として何とか彼らに伝えたい。
「頑張ってみようよ!」と、
彼らが聞かせてくれた歌声に、私にははかりしれないきらきらとした「可能性」をどの子からも感じ取っている。
我慢ばかりで申し訳ないけれど、あの子たちの輝きは、きっとこの“闇”を薄めると信じている。