何のこっちゃと思われるだろう。
ジャーナリストの世界は、これが何より大切だということ。
うちの旦那様、今は北の大地でしがないフリーター家業だが、
若いころは大いに野望をもって週刊誌の記者をやっていたことがある。
その旦那曰く「裏をとるというのが、俺のころでは当たり前のことだったんだけれどな」
Aという取材をしてBという情報が手に入ったら、それが確かなことかCに取材しに行くのだそうだ。
それをしないと伝聞ということで、よくある「○○氏の言」と断り書きのあるものになるのだそうだ。
間違っているかもしれません て自分で言い訳しているんだって。
これはとても恥ずかしい記事のありようで、スクープにはどうしたってならない。

1月末の朝日新聞 池上彰さんがこのことについて書いていた。
このたびの都知事選で自分の発言が誤った意味合いで使われているが、それに対して取材された覚えがないのだそうだ。
それを読んで、記者の質が落ちていると旦那は言う。
私もそれは感じている。
文章能力が落ちていると感じる場面などは、新聞雑誌テレビ枚挙にいとまがない。
テレビに至っては、何言っているのか意味が通じない文章を平気で読み上げているアナウンサーに腹が立つときがある。
「こんなものは読めない」そんな最後の砦でいる気持ちの人なんて、いないんだろうなあと感じている。
またまた旦那曰く、旦那がそんな仕事をしていたころは、印刷屋の活版組む職人さんが一番怖かったそうだ。
下手なゲラを回すと突っ返されたそうだ。
今はPCのファイルで全部回っていくから、そういうことがなくなっているんだろう。
だが、それと、事実の確認はまた違うんだけれど…。
旦那の仕事の場面で、こんな経験がある。
昔昔、北海道在住の高名な作曲家の方の対談の仕事をしたことがある。
録音したものを文字に起こし、そこから載せられる文字量にまとめていった。
当然だが、内容に間違いがないか、載せることに関してはすべて確認を取った。
中で一つ、この方がある賞を取られたことを話されていた。
ほかの媒体でも同じ内容になっていることを確認し、旦那はそのまま回した。
多忙を理由に校正は事務所の方がしてくださり、最後の最後にあとは印刷するだけのところで、
その作曲家さんから待ったがかかった。
賞が間違っているというのだ。
旦那が参考にした物も、あとから間違いに気づきクレームをあげたのだそうだ。
旦那ごとながら、その時は私もそばで心臓がキリキリと音がした。
刷り直しとなると、印刷屋さんに多大の負担をかける。それはそれで仕方がないことだが、今後の仕事を回してもらえるかどうか・・・
一度こういう失敗をしたら、やっぱり難しくなるだろう…出るのはため息ばかりだった。
どうしてそうなったのか、録音したものをすべて聞き直したところ、対談の中でご本人が確かにそういう内容で話されていた。
それでも旦那は言った「俺が賞の団体に確認をすればよかったんだ。あんな物で確認せずに」
意を決して、菓子折りを持って印刷屋さんと並んで謝りに行った。
だが、やはりことをなされた方というのは違うと思う結果が待っていた。
一通りの説明を聞き、対談の録音を二回聞き、「僕が言っているね」と言って不問に付してくださった。
その本は誤植訂正の紙が挟まれ、第二刷が刷られた時には直しが入った。
うちの旦那がかかわる仕事は、フリーペーパーに近いものが多い。
だが、そこでもライターさんたちは日々間違いがないように努力を積み上げている。
それがプロの仕事だから、と、旦那だけでなくみなさん言われる。
さて、私も含めて、一億総編集者で、ライターで、カメラマンで、こんな世の中になるとはジャーナリストたちも
想像してもいなかっただろう。
発信する、アマチュアだから許されることも、お金をもらうプロはそれではいけないのだろう。
やっぱりそういうもんだと思う。
さてもさても、産経新聞は池上彰さんのところに連絡をとったのだろうか?