私が子どものころ、ディズニー映画だけは親が必ず連れて行ってくれた。
あの頃、子どもが映画を観る機会というのは本当に少なかったと思う。
だって学校の体育館で、年に一回か二回、映画をみせてくれた。
それでさえ楽しみにしていたように思う。
だから親が無条件に連れて行ってくれたディズニー映画はもう夢のような出来事だった。
毎年何かしら観たように思うが一番思い出があるのが「メリー・ポピンズ」。
映画自体もそうだが、これにまつわる鮮明な思い出がある。
「メリーポピンズ」はとても前評判がよくて、両親も楽しみにしていたように思う。
チケットを親子で4枚あらかじめ購入した。だが、同じ日に4枚は手に入らなかったので、
2枚ずつ日を分けて用意した。
母親と私。父親と姉がそれぞれに連れてだって観る予定だった。
まず私が母と出かけた。
全編アニメーションだったそれまでのディズニー映画と違い、大人の観るものと同じ作りで、
わずかにペンギンと踊るシーンだけがカラフルな場面だった。
始めはそれが不服だったが観ているうちにその夢の世界に埋没し、
鳩のエサ売りのおばあさんが出てくるシーンでは寂しくなったのを覚えている。
帰ってきて姉にものすごく自慢した。 数日たって今度は姉が行く日がやってくるのも忘れて酔いしれていた。
やがてその日が来て姉が楽しむ時間に自分は家で待っていなければならないことに我慢がならなくなった。
ここで驚くのはその気持ちが頂点に達したのがお風呂場で、湯船につかっているときだったということ。
湯気の一本一本までも憶えている。扉の向こうで何が話し合われているか想像している自分がいるのだ。
もうわがまま一杯に育った私は我慢が出来なかった。そこから精一杯のだだをこねた。
「もう一度観たい」
幼いころ病弱だった私に弱かった両親は、しかたがないという風に少し高い当日券を買ってくれて、もう一度みせてくれた。
というよりそういう反応を見せたわが子を少し嬉しく思ったのではないかと、今ならうっすらと理解できる。
メリー・ポピンズが大好きだ。
それがその時私に刷り込まれた印象だった。
もう狂ったように原作本も読んだ。
そして、今、あの映画の裏に、いやあの原作本の後ろに、
すごい物語があったことを知った。
「ウォルト・デイズニーの約束」
自分の書いた物語の登場人物を、これほどに愛している作家が今いるのだろうか?
手放したくない…手放さなければならない状況に追い込まれても、最後まで心は揺れる。
まるで本物の家族と同じじゃないか。
言葉の一つ一つにこだわりを持ち、人物一人一人に思いがあった。
そう思ったら、不覚にも涙があふれてきた。
手をつないで映画館に連れて行ってくれた家族の姿が浮かんだのだ。
父や母はあの映画の裏側で起こっていたことを知らない。いつか向こうへ行ったら話してあげよう。
そうだ姉ちゃんにも・・・。
実は大人になっても私は、いつかメリー・ポピンズがやってくるかもしれないとずっと待っているのかもしれない。
もう一つ、これほど丁寧な思いをささげている作品が今は作られないだろうという、
今の映画産業の現実に、かなしい思いがある。きっともうこういうやりかたで仕事はできないんだろうなあ??
エンディングに、当時録音された音源が流される。
風潮に流されす自分の作品を守るために、一人個人である作家が見せる真骨頂に敬意を表したい。
作家はこれくらいわがままで頑固でないといけないんだ。
そしてそういう作家と粘り強く交渉し、そのテープを保管しつづけたディズニー社に脱帽である。
この映画は実話がもとになっている。
そしてそのもとになった人たちの活躍をリアルタイムで私は知っている。
それがちょっぴり、いやとても誇らしい気分になった。