HAKATA PARIS NEWYORK

いまのファッションを斬りまくる辛口コラム

ノベルティにみる戦略差。

2017-03-22 07:12:35 | Weblog


記念品1号はクロワッサンのペン

 今ではすっかり少なくなったが、中小のアパレルメーカーでも記念品やノベルティを作っていたことがある。といっても、狙いは顧客にブランドバリュを浸透させ、シーズン商品の販促につなげるグッズの感覚だ。そのため、数枚セットの「ポストカード」が定番で、製袋したオリジナル封筒に入れたDMにした。これを商品期初注文分の納期時には、パッキンに同梱して取引先に配っていた。

 筆者は重衣料が主体の秋冬シーズンで、このポストカードを何度か制作した。簡単なラフスケッチを描き、撮影用の絵コンテに落とし込む。モデルを選定し、カメラマンやヘアメイクを手配して、ロケをした。ラボから届けられたポジフィルムをヴュワーで選定し、使うフィルムにはダマトで印をつける。写真をトリミングし、タイトルやコピーを付けて入稿指示する。後はフィニッシュ、印刷に回せばOKだった。

 ポストカードはカッコ良く言えば、ファッションフォトである。初めてモデル撮影のロケを見たのは高校生の時だ。スタッフ陣がカメラのフレームに入らないよう脇に控えるのが印象的だった。アシスタントはレフ板を持って被写体に当てる光を調整する。ヘアメイクは風でセットが乱れるとすぐに直し、モデルの肌に少しでも汗が滲むとすぐに押さえる。「ファッション雑誌の写真はこうして撮影しているんだ」と知った。

 日曜早朝の表参道は、ほとんど人通りがなく撮影隊のメッカだった。その光景を見て、いつか自分がやってみたいと思っていたら、アパレルメーカーで運良く実現するチャンスを得た。ただ、仕事でやるとなると、大違いである。中小アパレルにとっては、あくまで洋服そのものの企画が秀逸であることが前提で、カッコいいイメージビジュアルはその次になる。記念品やノベルティを配布する以上、経費負担がバカにならないからだ。

 販促費はシーズンの売上げ予算から弾き出される。その枠で最高のパフォーマンスを上げるのがクリエイティブワークだ。デザインは自分で行っても、撮影や印刷は外注になるから、経費はかかる。コスト管理は重要で、経費抑制のためにモデル撮影をやめ、インスタレーション風にしたり、ボディ着用に切り替えたシーズンもあった。写真をモノクロにすれば印刷費は押さえられるが、カードの紙質を変えてもコストカットは高が知れ、かえって質感が落ちることも学んだ。
 
 ブランドの売上げ予算を多く見積もっても、販促費以外に営業などの経費が嵩むと、利益率は下がる。だから、筆者が記念品やノベルティの制作に携わることができたのは、3シーズンほどだった。販促をそれほど意識しないでいい春夏シーズンには、純然たるノベルティとしてブランドロゴを入れた「ブロックメモ」を作ったり、こ洒落た「シートソープ」をDMに同封したこともある。こちらは自社の商品を仕入れてくれるショップやバイヤーさんには好評で、それなりにいい経験となった。

 一方、本格的にプレスプロモーションの仕事を始めると、アパレル関連の広告制作やパブリシティに加え、取材依頼も舞い込んだ。広告制作だけなら雑誌の入れ広がメーンだから、記念品やノベルティの企画には携わらない。でも、ブランドショップが新店、小売業が新業態、デベロッパーが新物件をオープンする時には、プレスプレビューに参加する。これはアパレル側にいるのとは違って、別次元の体験となった。

 意外にも、初めて新店オープンのプレビューに行けたのは学生の時だった。大学3年の夏、博多で同窓会があり、同級生の女の子が南仏料理と豆腐を融合したパブレストランに連れて行ってくれた。そこで、後に福岡で「フレンチ雑貨店」をオープンするオーナーのY氏と知り合った。

 Y氏は飲食業の傍らフランス文化にも造詣があり、独自業態を開発する前に雑誌クロワッサンが手掛ける「クロワッサンの店をFCで経営しようと思う」と言っていた。そして、1981年、東京町田の東急百貨店に出店される1号店を見学するから、一緒に行かないかと誘ってくれたのだ。その時、どんな記念品をもらったかは記憶にないが、Y氏はめでたく福岡の新天町に開店した時、オリジナルの「ボールペン」を送ってくれた。



 Y氏が作ったのは真鍮製の重厚なものだが、三角形で持ちやすく、長時間使っても疲れない。フレンチ雑貨につながるセンスには感激で、ノベルティと言えど決して手を抜かないこだわりに敬服した。2000年頃、雑貨と豆腐料理を組み合わせた新店をオープンされた時にその話をすると、「スタイリストの吉本由美さんも同じようなことを言ってたよ。うちの商品を気に入って雑誌でも、取り上げてくれたし」と話していた。


お香からカステラ、鬼瓦、ギフト券まで

 1989年頃から雑誌の仕事を始めると、プレビューに行く機会が増え、プレスキットと一緒に何らかの品をいただくようになった。東京では89年の東急文化村、94年の恵比寿ガーデンプレイスなど、そしてニューヨーク滞在を挟んで、九州でも96年のキャナルシティ博多を皮切りに都市部、郊外を問わず個店から百貨店、駅ビル、ショッピングセンターまであらゆる業態に伺った。この30年近くで書いた記事と並行して、もらった記念品やノベルティも相当の数、種類になる。

 もちろん、筆者は記者が専門でも本職でもないし、もらった物で書く記事に手心を加えたことなどない。まあ、本業の記者さんもそうだろうが。ただ、記念品やノベルティの内容で、商業施設がどんな戦略を描いているかは想像できた。例えば、1996年秋にオープンした「岩田屋Zサイド」では、スタイリッシュな「インセンス(お香)」をいただいた。その時は「選り抜いた記念品が象徴するような店にしたい」のだろうと思った。



 岩田屋は来るべき天神流通戦争を勝ち抜くために、MDをライフスタイル・テースト別に編集し、買い取り・自主販売という画期的な取り組みに挑戦した。ところが、思うように売上げは伸びず、Zサイドオープンから6年後の2002年には私的整理ガイドラインのもと、伊勢丹に傘下入りして再建の道を歩むことになった。

 記念品を選定した担当者のセンスと裏腹に、商品政策はお客のマインドをつかみきれなかったのだ。ただ、筆者の目には成りもの入りのMDも、百貨店系アパレルをむりやり集積し、手当たり次第に取引可能なブランドをかき集めたとしか映らなかった。品揃えは豊富でも、これといって買いたいものがない。

 アテンドしてくれた担当者は「バーニーズを目指す」と宣っていたが、前年にニューヨークに居た人間からすれば「どこが?」って印象だった。 岩田屋Zサイドは単にメーカー企画の商品を買い取っているだけだから、素材やデザイン、仕様におけるオリジナル提案がなく、ブランドショップと比べても価値訴求が弱い。結局、昨今の惨状をみれば、必要なノウハウを蓄積していない中で、かけ声だけの戦略ではなかったのかと思う。

 開業がZサイドの翌97年秋だから、それが影響したのではないと思うが、「福岡三越」のプレスプレビューでは、某老舗菓子舖の「高級カステラ」をいただいた。メディアを集めたレセプションパーティでは、司会を務めた岩田屋のN社長がえらくカステラを自慢していたが、三越という百貨店の格式に合わせただけで、百貨店としての戦略はそれほど感じなかった。

 その後、三越は伊勢丹と経営統合して持ち株会社制に移行したが、大西洋元HD社長が構造改革に乗り出す中で、福岡三越はターミナル百貨店としての収益性からか、リストラの俎上には上がってはいない。ただ、カステラ同様に特別に珍しくもなく、そこそこの味わいというだけで、可もなく不可もない百貨店のままである。

 同じ年に開業したショッピングセンター「ダイヤモンドシティ熊本南」(現イオンモール宇城)は、いかめしい形相の「鬼瓦」が記念品だった。ダイヤモンドシティは当時、三菱商事とイオンが共同出資しており、施設開発では地域密着を貫く意思を表明し、地元テナント、地元産品に販売にも注力していた。出店先の小川町は瓦の産地でもあることから、記念品に採用したと広報担当者は語っていた。



 99年に開業した「トリアス久山」は、ダイエーの副社長、九州ダイエーの社長を歴任した平山敞氏がコンサルタントに転身し、開発を手掛けた物件である。団子三兄弟を唄った女性歌手の実父らをパトロンにして資金を集め、テナントにはコストコ日本1号店やヴァージンシネマを誘致するなど新機軸を打ち出した。

 内見会は冒険家で有名なリチャード・ブランソン・ヴァージン会長が来日するなど盛大なもので、記念品の次元をはるかに超える5000円の「JCBギフト券」をいただいた。デベロッパーとして、参列者には本気度を見せたかったようである。でも、1社1枚という決まりがあったようで、東京からも多くのメディアが駆け付け、複数の記者、報道スタッフが受け取ろうとした時、広報担当者があわてて回収する一幕もあった。


公開は顧客となる住民やカード会員を先に

 他にも、ゆめタウン筑紫野、セキアヒルズ、博多リバレイン、ソラリアステージ、ゆめタウン博多、リバーウォーク北九州、モラージュ佐賀、ダイヤモンドシティ・ルクル(現イオンモール福岡)、ゆめタウン佐賀、ミーナ天神、天神VIORO、福岡パルコ、イオンモール筑紫野、JR博多シティ、木の葉モール、イオンモール福津、博多マルイ等々、毎年のように商業施設が開業した。そのほとんどで、いろんな媒体からの取材依頼があったものの、とてもすべてに伺うことはできなかった。

 もっとも、近年では施設側が顧客を囲い込むためにメディアより先に地元住民やカード会員に公開する傾向を強くし、プレスプレビューはあまり重視されなくなったように感じる。そのため、プレビューに参加した施設の記念品やノベルティが何だったかは、ほとんど記憶にない。端からプレスキットのみのところもあったと思う。

 ミスターマックスは、新店オープンの記念品にはPB商品を活用しており、消耗品の乾電池などをもらうと、非常にありがたく印象にも残る。中には新開発の試供品もあり、H社長自らメディアから利用者の意見を聞かせてほしいと語るなど、マーケティングの参考にする狙いも受け取れた。

 2011年に開業したJR博多シティでは、「ロディア」のメモ帳とレザーカバーをいただいた。一番小さいサイズだったが、地元九州はもちろん、東京からもテレビ、雑誌が取材に来ており、その数は優に100社を超えていたのではないか。 ロディアの調達先はたぶんキーテナントの東急ハンズだろうし、JR九州としては上場益を見越してのプレ配当感覚とすれば、高く付かないとの判断だったのかもしれない。

 昨年オープンした「博多マルイ」では、粋な記念品をいただいた。テナントとして入居するビルが日本郵便が運営する「KITTE博多」ということで、丸井は自社のロゴマークと博多織をモチーフにした「記念切手」を作成。これがメディア関係者に配られたのである。記念切手は単なるノベルティとは違い、受け取る相手には実用性とプレミアが同時に伝わる。郵便で使用すれば消印が押されるものの、デザイン的に独特の趣きが生まれる。嵩張らないので、ずっと残しておくのも可能だ。

 筆者は丸井で数々の買い物経験がある。その丸井に再び博多で出会い、記事を書かせてもらったのも何かの縁である。コレクターではないが、その思い出として切手は大事にとっておこうと思う。ただ、記念品やノベルティはあくまで「心づかい」の域を出ないし、相手方のご厚意にもらう側がとやかくいう立場ではないのは承知の上だ。

 されどである。 丸井は百貨店からテナントビルに戦略転換しただけに、没個性にならないようにとの狙いもあったのだろう。やはり記念品やノベルティにも企業戦略における考え方や方向性が滲み出るのだ。だからではないが、自分の立場に当てはめると、いただくよりも企画する方が性に合っている。
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