HAKATA PARIS NEWYORK

いまのファッションを斬りまくる辛口コラム

教育に及ぼす地域差。

2021-09-29 06:34:29 | Weblog
 大学は就職の予備校ではない。そんなことが言われた時代があった。だが、東大を筆頭に旧帝大、早慶上智、MARCHや関関同立といった有名大学の出身者が国家資格の取得をはじめ、公務員採用試験や一流企業への内定でも結果を出してきたのは、紛れもない事実だ。

 ところが、1991年のバブル崩壊で、日本は長い不況に突入した。ちょうど93年から2005年に就職活動した学生は有名大学の出身者でも、簡単に内定をもらえる状況ではなかった。いわゆる就職氷河期と言われる世代だ。さらに企業の側もグローバル経済の到来で、国際競争に勝てないところは否応なくマーケットから締め出される。一流企業の現役社員であっても、リストラや早期希望退職の憂き目に晒されるようになったのである。

 産業構造が変わり、日本型の年功序列、終身雇用は終わりを迎えた。というか、学歴が一流企業への就職に優先されるのは変わりないが、ひと度業績が悪化すれば雇われの身である以上、職が失われることに学歴差はないことがはっきりした。識者の中には、企業は10年から15年で壁にぶち当たる。従業員の側も33歳頃、45歳頃、60歳頃に一度ずつ、社会の変化に合わせ自身の価値付けをする方が良いと仰る方もいる。

 日本型雇用の終焉は、大学にも変革をもたらしつつある。デジタルサイエンス、バイオや薬学、国際関係の専攻を全面に打ち出す大学がある一方、独立自営や起業ができ、社会で役立つ人材を育成、輩出する教育に舵を切り始めたところもある。後者では、3年時のゼミを従来のような学問中心の演習や研究発表から、企業や地域社会が抱えるリアルな課題に向き合い、ビジネスモデルや社会活動を創造する場に変える大学も出てきている。



 先日、大妻女子大学のあるゼミ生が「女子大学生が欲しいもの」をテーマに「衣料ブランド」を立ち上げたという報道があった。(https://www.otsuma.ac.jp/news_academic/info/67838/)ファッションマーケティングや流通、消費者行動を研究する吉井健准教授(家政学部)のゼミが東京都内の縫製会社の協力のもと、学生のアイデアを取り入れた製造・販売の仕組みづくりにチャレンジしたものだ。

 このブランド企画では、SDGsの理念に添って売れ残った商品を廃棄しない「受注生産方式」を採用した。昨年秋から企画立案を進め、ゼミ生がターゲットに合わせたコンセプトを設定してデザインを考案。また、学生自ら生地問屋に足を運び、縫製は都内2社の事業者に発注した。サンプルは学生が試着して意見を出し合うなど、アパレルメーカーに近い企画製造のフローを実践している。



 ブランド名は「マール トウキョウ」(https://aiptokyo.shopselect.net)で、商標登録も行った。価格は21年秋冬コレクションでジャケットが1万7820円、スカートが1万450円、Tシャツ4950円。女性大学生が欲しいブランドだから、そこそこのクオリティはキープしたい。それでも、お小遣いでギリギリ購入できることを念頭に価格を設定したと思われる。ファッションに一番関心がある世代だけに学生各自がアイデアを出し合い、侃侃諤諤の議論が展開されたのではないか。



 「イメージしたものを形にしていくのはとても難しかった」と、ゼミ生のある4年生は語っている。「女子大生」「ブランド」と言えば、いかにも俗っぽくて軽薄に感じるが、実際に商品を企画し、それを形にしていく苦労を学生自身が体験できたこと。つまり、アパレルビジネスの理屈が学習できて、そのノウハウを享受できたことは成果だろう。しかも、アパレル事業者の協力で、Tシャツでは脇の部分に縫い目のない筒状の生地「丸胴」を使い、縫製時に捨てる生地を少なくするなど、SDGsにも踏み込んでいる。

 商品企画はファッション専門学校ではごく普通に行われているが、それらと大学生が取り組むものとの違いはあるのか。専門学校生の場合は、「クリエーション」を念頭にデザインや技術面に力を入れること。それに対し、大学生はマーケティングや消費者行動を専攻するため、「売れること」を主眼に置くモノ作りだろうか。今回は生地の選定や縫製事業者とのやり取りも行なっているので、コストや利益、価格設定についても学べたと思う。


地方大学は地域課題に冷静に向き合うべき

 地方の大学でも、地域課題に対する答えをファッション関連事業で導き出そうとした事例がある。2019年4月、熊本で初めて東京ガールズコレクション(TGC)が開催された。この時もイベントに合わせて国立熊本大学文学部の学生が「ファッションによる地域の活性化」(https://www.kumamoto-u.ac.jp/daigakujouhou/kouhou/pressrelease/2018-file/release180914.pdf)を狙ったプロジェクトに参画し、プレゼンテーションに臨んでいる。

 同学部情報コミュニケーション学科の学生40人は、6つのグループに分かれて企画を立案。人気漫画「ワンピース」のキャラクターに合うアイテムを県内の店舗から募集してコンテストを開催するもの、TGCの出演タレントが地元のセレクトショップを案内しコーディネート提案するツアー、化粧品やアクセサリーなど県内の隠れた名品をPRする企画などが提案された。

 優秀賞に選ばれたのは、不用品や廃材を再利用し、付加価値の高い製品を生み出す「アップサイクルのファッションコンテスト」。SDGsにつなげるアップサイクルの認知度向上や地元クリエーターの人材育成をつなげるもので、SNSを使って情報発信していくとのことだった。審査員からは「社会性のあるテーマ」「幅広い年代への広がりが期待」と高評価を受けたが、アップサイクルを具体的にどう実行するかまでの内容は提案されていない。

 大学生がゼミなどで企画立案を行う場合、大学側が持つ研究ノウハウ、知見などが決め手になる。さらに大学を取り巻く環境も学生が導き出さんとするソリーションには深く影響する。大妻女子大学の事例で言えば、東京に立地し家政学部ではマーケティングや消費者行動を学び、バックボーンには複数の縫製事業者が存在すること。それだけアパレルのアイテム生産には取り組みやすいということだ。

 日本では各地域がアパレルのバックボーンになっている。山形のニット生産、東海の木綿や麻の産地、大阪の生地卸、岡山のデニムや藍染などがそれだ。これらは学生がアパレル関連の企画に取り組む上で欠かせない条件となる。しかし、熊本は単なる地方都市に過ぎず、小売事業者が点在するだけ。クリエイティビティな土壌もなければ、アパレル卸の機能もない。そんな環境では、学生が取り組む内容でも自ずと限界がある。

 ファッションによる地域の活性化とは言っても、自治体がTGCに税金を投入するため関連事業にも地元色を出して欲しいと要望し、主催者側が客層と同世代の学生にプロジェクト参画を打診したに過ぎない。確かに熊本が抱える根本課題は「ストロー現象」だ。中心部は福岡や郊外に買物客を吸い取られて地盤沈下が激しい。再開発のバスターミナルや新しい駅ビルに大型商業施設が開業したが、市場規模やバッティングの問題からテナント誘致がうまくいかず、苦戦が続く。つまり、「ファッションでは活性化できない」のが問題なのである。

 第一、アパレルについてほとんど何も知らない文学部の学生がアップサイクルに本格的に取り組むなど、どだい無理な話。むしろ、こうしたテーマなら理工系学部が参画すべきではなかったのか。アパレルが抱える廃棄問題は、サイエンスのノウハウ無くして解決できない。これなら地域性も関係ない。短時間ではソリューションを導くのは難しいだろうが、イベントにぶつける場当たり的なテーマでは、模範解答も導き出せないのだ。



 米国のマサチューセッツ工科大学では、SDGsの一環として「商品企画の段階からいかに生地(用尺)を少なくし、裁断の段階でも生地の切り屑を出さないパターン作り」などが研究されている。商品が出来てからではなく、作る前にロス防止に取り組もうというわけだ。一方、日本の大学の変革は少子化、全入時代を見据えて、国公・私立を問わず学生を集めやすい=学生にとって就職や社会参加に有利になるものが大半だ。

 ただ、先の熊本で目下、大学生の就職先としても有望な企業がある。ゲーム機プレイステーション用の画像センサーを供給する「ソニーセミコンダクタマニュファクチャリング」だ。同社の売上げは県下トップの6123億円(2020年度)。こうした企業の情報は関東圏の国立大学も把握しているようで自校の先端技術研究が生かせると、同社を学生、院生の就職先に目論むところもある。成長著しい分野に照準を当てる強かな大学があるのも確かだ。

 コロナ禍によりリモートワークが浸透した。人口減少が激しい地方の自治体は、若者のUターンやスタートアップの支援に舵を切るところが増えている。地方の大学も卒業生が地元で仕事ができるようになれば、学生募集や就職斡旋で好機となる。そのためには地域が抱える課題に向き合い、独立自営や起業、社会活動で役立つ教育、いわゆる地域社会を生き抜く知恵や技術を授けられるかだ。それには自治体や地元企業との連携も欠かせない。

 もちろん、アパレル関連の取り組みでは大学によってできる、できないものが決まってくるのは言うまでもないが。
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哲学に経営はつかず。

2021-09-22 06:44:51 | Weblog
 満を持して大御所の登場である。日経新聞最終面の「私の履歴書」に9月からデザイナーの山本耀司さんが連載されている。耀司さんの自叙伝はこれまでいくつか読んだことがあるが、発刊やメディア掲載の度に新たな事柄を知ることができる。その意味で今回の連載も毎日、楽しく拝読している。

 振り返ると、耀司さんが自分のブランド「Y’s」を立ち上げた1972年は、ちょうど日本のファッションも注文服から既製服に軸が移った時期。筆者の母親もオートクチュール(高級注文服)の洋裁師だったから、当時の状況はよくわかる。70年頃までは地方のブティック(高級専門店)にも既製服は並んでいたがバリエーションは少なく、インポート主体の生地を選び、スタイルブックに載るデザインにそって誂える注文服が主流だった。

 注文できるのはお金持ちの中年女性など一部に限られた。そんな時代に「女性にもっと男らしい洋服を着せたい。働く女性が自分のお金で自分のために買う意地のある洋服を作ってみよう」(連載:12)との思いで登場したY’s。「最初から華やかなプリント生地は避け、くすんだ色のギャバジン(あや織りの服地)を使い、大きめの男っぽいコートを作った」(連載:13)のだから、多くの女性は着ることに二の足を踏んだと思う。

 だが、モードの新たな潮流は確実に「オートクチュールからプレタポルテ(既製服)へ」に移りつつあった。当時の既製服は若い女性向けでも、アーリーアメリカン調のプリント柄などスイートで可愛い感じばかり。ユーロテイストの斬新なデザインの服も出初めてはいたが、値段も高くメジャーにはなりにくかった。そんな状況下で、人とは違うお洒落を楽しみたい、男性の視線ではなく自分の感性で服を選びたい女性は確実に増えていた。

 「たまたま撥水(はっすい)性のあるスイス製の生地が手に入ったので色違いのレインコートばかりを並べた展示会を開いてみたら、予想以上に反響があり、初めてまとまった数の注文が入ったのだ」「1つのコンセプトを前面に打ち出した斬新な趣向が良かったのだろう。確かな手応えを感じる展示会になった」(連載:13)。既製服の時代に入ったとは言え、専門店のオーナーからすれば、自店の顔にすべきブランド既製服をいかに調達するか。それが大きな課題で、そんな渇望に応えたのがY’sだった。

 バイヤーは店を訪れるお客のウォンツを通し、時代にフィットした服を探した。「あなたの時代が来るわ」。このフレーズはまさに顧客の思いを代弁したもの。耀司さんも「地方専門店の女性バイヤーが耳元でこうつぶやいたのを覚えている」(連載:13)と、語るくらいY’s史に残るエポックだったと言える。その後の勢いは、他のデザイナーブランドと同じ。雑誌メディアが特集すれば、ブランド人気は日本中に広がる。

 「『流行通信」』などモード誌が特集を組み、話題がさらに話題を呼ぶ。売り上げ増加に伴い歌舞伎町の店は引き払い、会社を南青山、西麻布へと移転した」(連載:13)。ただ、耀司さんはY’sが右肩上がりに伸びても、「作りたい服を作る」というスタンスを変えなかった。そして「カラス族」という代名詞の通り、服作りには「黒の美学」を貫いた。

 それは自身が生まれて間もなく父親が戦死し、新宿・歌舞伎町で仕立て屋を営みながら自分を育ててくれた母親の影響がある。ある深夜、子供だった耀司さんがふと目を覚ますと、夜を徹して裁縫をする母親の指に「赤い血」が滲んでいた。鮮血のドス黒さが子供の目に焼き付き、デザイナーとして黒に執着する出発点になった。

 耀司さんにとって、黒は心の底から込み上げる魂の叫びなのだ。Y’sの誕生当時、ストリートにはパステルカラーなど明るい色が溢れていて、黒はタブーという暗黙のドレスコードがあった。そうした中、Y’sが打ち出した全身黒づくめのスタイルは、男性の視線など気にしない禁欲的でソリタリーな雰囲気を持ち、業界の常識を真っ向から否定するものだった。まさに反常識、反伝統に立て篭もる耀司さんの生き方そのもの。異端の美学とでも言おうか。


紆余曲折あった経営について何を語るか

 色だけではない。服作りの世界観を追求するために「こだわったのは素材の風合いである。生地を求めて全国を行脚した」(連載:14)と、一枚の布から創作された。





 「三河木綿(愛知県蒲郡市)、藍染め(岡山県倉敷市)、ニット(山形県寒河江市)、近江麻(滋賀県東近江市)。探せば、職人が伝統的な手法で丹念に織り上げた素晴らしい生地が各地にいくらでも眠っている。五感を研ぎ澄まし、色を見て、匂いを嗅ぎ、肌に乗せて感触を確かめる。素材への興味は尽きない」(連載:14)

 「本物を追い求めたらキリがない。だがどれほど手間や時間がかかっても、私の試みを面白がり、最後まで付き合ってくれる気骨の職人や経営者がいた。作り手と買い手の感性が響き合い、刺激し合う対等な関係が心地よかった」(連載:14)。ウールやコットンのギャバジン。生地にコシがあって、織った組織には変化が出る。筆者がY’sに魅せられたのも、職人が作り出す素材の風合いとデザインが見事に調和した点だ。

 もちろん、日経新聞の連載だから連載が佳境に入るにつれ、創業から50年も続くブランドがどんな経営観を持ち、どんな手法をとってきたかについても語ってほしいはず。Y’sは1981年にはパリコレクション、翌82年にはYohji Yamamotoをスタート。創業から10数年で、販路は欧米やアジア全域に広がり、「ワイズ」「ヨウジ・ヤマモト」「ワイズ・フォーメン」「ワイズ・ビス」の4社の総年商はざっと100億円に達した。

 耀司さんはそうした企業のデザイナーであり経営者でもあった。でも、業界では専ら社長と呼ばれた途端に嫌な顔をするとの評判だった。また、経営に関して本人が指示を出したり、財務に関わったりすることもほとんどなかった。もちろん、業務状況の報告は受けるし、戦略上重要な決定には立ち会うが、マネジメントに関しては暁星小学校からの友人である林五一氏とスタッフに任せていた。

 そんな企業が2009年10月、約60億円の負債を抱えて経営破綻し、耀司さんは代表取締役を辞任した。パリコレを終え帰国後の記者会見では、「私は、一種の裸の王様であり続けた」と、反省の弁を述べている。

 経営陣から悪化する経営状況が上がってこなかったことを表現したものだが、そもそも耀司さんが代表取締役という役職は登記簿上のもので、経営にはほとんどタッチしていなかった。むしろ、社内では耀司さん一人に経営責任を負わせることはできなかったはず。なぜなら、会社は山本耀司の美学と独創性のもとに結集した運命共同体のようなもので、スタッフはその共同体と共に生きていくことを覚悟した面々だったからだ。

 幸い、再建はスムーズに進んだ。投資会社インテグラルの支援を受けて2009年12月に新会社を設立。代表取締役社長は大塚昌平氏が務め、インテグラルから辺見芳弘氏が会長、山本礼二郎氏が取締役に就任した。耀司さんは引き続きヨウジヤマモト、Y-3など傘下ブランドの創作と監修を行うが、ワイズ・フォーメンはヨウジ・ヤマモト・オムに一本化。海外事業は仏、英、香港に集約し、それ以外の地域は卸で対応することになった。

 もちろん、生地メーカーや縫製事業者に迷惑をかけた点では、耀司さんがいちばん気に病んでいた。デザインに徹してきたとは言え、アパレルビジネスがリスキーであることは、ご本人が百も承知だったからだ。連載でも以下のように述懐している。「大量生産・消費が前提のプレタポルテはリスクも伴う。まだ売れるかどうか分からない段階で素材を仕入れ、コストや手間をかけて商品を生産する。先行投資が欠かせない。商品が売れ残ればそれが損失になり、状況次第では資金繰りが悪化しかねない。まさにギャンブルである」(連載:13)

 ともあれ、どんな企業にも紆余曲折はある。業績が好調な時もあれば、急降下する時もある。経営者は売上げが右肩上がりになるほど、マネジメントが追いつかないことに直面する。ただ、耀司さんはすでに代表権も経営権も持たないのだから、むしろ吹っ切れて柵もなくなり、命が続く限り作りたい服作りに専念していくと思う。

 日経新聞はビジネスを意識した報道を行うとは言え、それを十分にわかっているはずだ。耀司さんにとって市場が思考のダイレクトな対象にはならないことも。あるのは時代の空気をどう読み、それを布でどう表現するか。

 海外メディアに「あなたはクリエーターですか」と問われると、耀司さんは「いいえ、単なる洋服屋です」と答える。その背景には、洋の東西を超えた普遍的な服を作り続けるという意思が垣間見える。哲学の前に経営という文字はなく、数字はあくまで結果論。今後の連載でも何を語るのか。興味はつきない。
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非日常を買いたい。

2021-09-15 06:44:51 | Weblog
 2度のワクチン接種が完了したので、9月に入り外出する機会を増やしている。仕事の打ち合わせや会議はすっかりリモートが定着したが、リサーチや取材では現場や店頭、生身の人間との接触が欠かせない。人やモノに触れることは自らも学習になるのだが、それらから直接受ける刺激は何ものに変えがたい。これで多少鈍っていた感覚が元に戻るかもしれない。

 一方で、この1年は小規模なイベントへの招待もあったが、コロナに感染すると多方面に迷惑がかかるので、すべてお断りしてきた。ワクチン接種を完了したからと言って、ブレークスルー感染があるので油断はできないが、ゼロリスクなど無いのだから緊急事態宣言ルールの範囲内で行動していこうと思う。



 そんな中、知り合いのイラストレーターが参加している「空間芸術プロジェクト
Vol.5 #Green展
」を訪れた。一般社団法人の空間芸術TORAM/ARTDAGが全国のアーチスト作品を集め、シリーズで開催している展覧会だ。通常なら福岡アジア美術館が会場となるが、緊急事態宣言に伴う閉館で急遽、近隣の「美術画廊410Gallery」に変更された。場所は筆者が子供の頃からよく知る博多・上川端通りの川端中央ビルだ。

 今回はタイトルの通り、「緑」をテーマと色彩に用いた作品。話題のヴィーグルをアクリルカラーとパレットナイフで描いたものから、CGによるアブストラクト、起毛したラグへのペインティング、大きめのパーツをモザイク風に組んだ立体アート、画面に金箔を押して部分的に着色したもの等々。アーチストが思い思いに表現した作品が並ぶ。久々にギャラリー巡りができて、しばし非現実の世界、非日常の時空に浸れたのはすごく良かった。

 ギャラリーはアパートの一室を改装したもの。10畳程度のこじんまりとしたスペースでは、緑を自己流に解釈したキュレーションの方がかえって映える。それは古いビルが次々と高層ビルに立て替えられる天神とも無縁ではない。大手不動産業者がビルを管理すると、オフィスや店舗以外のスペースは民間のギャラリーにも利用できる場合があるが、賃料はべらぼうに高い。若手のアーチストやクリエーターにとっては厳しいのだ。

 そこ行くと、天神と10分ほどしか離れていない博多・川端地区は、「冷泉荘」のように古いアパートをリノベーションして、小規模ビジネスの拠点する動きがだいぶ前からあった。川端中央ビルも築50年以上たつと思うが、ギャラリーとして利用できるのは作り手にとっても、鑑賞者にとっても願ったりだ。知り合いとも芸術談義と言えば大袈裟だが、喧騒を感じさせず静かに流れる時間の中で、アートを通じ心地いい会話を楽しむことができた。



 筆者が生まれ育った旧奈良屋校区にも、古いが頑丈な作りの雑居ビルがまだまだ残る。東京で言えば、東神田や東日本橋のようなエリアとでも言おうか。古いビルをリノベーションして、新たな文化創造のエリアしてもいいのではないか。商人の街として発展した博多が天神と棲み分ける一つの手法になるのではないかと思う。


元は落書きだらけのビルが今はバンクシー展

 翌日には、大名で開催されている「バンクシー展〜天才か反逆者か」を覗いた。こちらは厳重なコロナ対策のもと、入場制限の一環からネットで事前予約し、日時指定して鑑賞する手法が導入されていた(当日券も購入可能)。平日の午後にも関わらず若者たちが並んでいたところを見ると、気鋭のアーチスト作品を一目見ておこうということか。



 今回の展示会は、コレクターのコレクションが集結する世界巡回展として開催された。バンクシーの作品はメディア露出も多いので多くが知るところだが、コレクター作品は彼が作品に込める政治的なメッセージや社会風刺を別の角度で触れられる点で貴重だ。アーチストとしてのネームバリュがアップし、オークション価格も高騰しているが、純粋に彼が訴えかけたいのは何かを考えることに価値があると思う。



 主催者側は知っているかどうかはわからないが、展覧会の会場となったUNITED LABは、
元はディズニーランドばりの屋外装飾を施したカラオケボックス。そこがすぐに閉店した後、装飾は剥ぎ取られたものの、何年も手付かずの状態でタギングやグラフィティの温床となっていた。ボランティアが定期的に消去活動を行うも、またすぐに描かれるといういたちごっこで、ようやく数年前に不動産業者がビルごと買収し、外壁をステンレスパネルにした。

 カラオケボックスのスペースにはバーなどが数軒入ったが、若者エリアという場所柄、どこも経営は厳しかったようだ。その後、居抜きの状態で様々な規模のイベントに対応可能なUNITED LABにリニューアルされた。メインエリアはスタンディングで1200名、着席タイプで500席のキャパを誇るため、バンクシー展には打って付けだった。

 かつては似非アーチストの落書きに埋め尽くされ、治安悪化の一歩手前まで行ったビル。不動産業者が大名人気に乗じて民家を買収して開発したことで、結果的に街を汚すことになってしまった。そんな場所で、単なる落書きとは異なるメッセージアートを発表し続けるバンクシーの展覧会。エリア、若者人気、トレンドなどの条件が合致したとは言え、それは実にアイロニーな光景として筆者の目には映る。

 バンクシーの作品は門外漢からすれば落書きかもしれないが、画廊主やキュレーターに評価され多くの鑑賞者を納得させながら、自らはスタジオも持って活動している。一方、タギングやグラフティのような落書きは社会のガス抜きと言ったところで、決して許されるものではない。まして住民とっては迷惑きわまない行為だ。自分らが汚しまくったビル跡で催されたバンクシー展が多くの若者を集めるという皮肉。似非アーチストはそれに何を思うのだろうか。


地方にもD2Cブランドの発信スペースを

 アートではないが、素材やデザイン、製法などの個性で売るD2Cブランドが注目されている。量販品のような販路ではなく、オンライン販売になるのだが、お客としてはやはり現物を見て、試してみたい。東京の百貨店やファッションビルでは、これらの商品をギャラリー感覚で展示販売するが動きが進んでいる。



 9月初め、渋谷の西武百貨店・パーキング館1階にOMO(オンラインとオフラインの融合)型ストア「チューズベース・シブヤ」がオープンした。店頭に並ぶのは、D2Cブランドのサンプルのみ。お客は商品の横にあるQRコードをスマートフォンで読み込むと、Webカタログを閲覧することができる。こうした展開はパルコのような都市型SCが先行していたが、百貨店の西武も渋谷という地の利から、ついに踏み込んだようだ。

 売場では700平方メートルという広いスペースを生かし、取り扱うのはアパレルのほかに雑貨、インテリア、コスメなど50ブランド以上、400アイテム。だが、百貨店特有のPOPパネルやプライスカードはがない、まさにギャラリーのような展開手法だ。西武百貨店側はD2Cメーカーと協業して編集したというが、個性的な商品が並ぶので売場のインパクトは強い。

 カタログでは商品情報はもちろん、作り手の企画や製造にかける思いも確認できる。つまり、百貨店のスタッフが商品の詳細を学習するより、メーカー側がダイレクトにお客にアピールする。拘りがストレートに伝わるのがD2Cブランドの真骨頂だ。店頭とECの在庫情報は完全に連携され、店頭で買えなかった商品はECで購入が可能。注文した商品を店頭で受け取れるバイ・オンライン・ピックアップ・イン・ストア(BOPIS)にも対応するそうだから、日本の百貨店もようやくここまで来たかという感じだ。

 外出する機会を増やしたことで、筆者も百貨店やSCを一通り見て回ったが、福岡のような地方都市ではこれだという新商品はほとんど見当たらない。チューズベース・シブヤのような売場こそ、購入できる商品が限られる地方にも必要ではないか。ポップアップストアのような不定期展開でもいい。イムズやコアなどが建て替わる前にどこかがD2Cブランドを展開してくれないだろうか。でないと、購入動機も生まれない。

 この1年は不要不急の外出・県外移動を控え、生活必需品しか買い物してこなかった。だからこそ、行動規制が緩和されるのなら、非日常の買い物をしたいお客は少なくないと思う。アートはもちろんだが、作り手の拘りが強いD2Cブランドもそうだ。有事であるが故に、お客は非日常の買い物に価値を感じるのではないかと思う。
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不易流行のアイテム。

2021-09-08 06:42:17 | Weblog
 アパレル時代からデスク周りのアイテムは必需品だ。ペンや紙、消しゴム、定規やテンプレート、テープやクリップ、カッターやハサミ、メモ用紙や便箋、封筒等々。それらはブランドや価格というよりも、自分が使いやすいものという条件で選んできた。

 特にデザインの仕事をする上では、ペンと紙類は使いやすいものでないと、作業効率はもちろん、出来栄えを左右すると感じる。ただ、ペンについてはサムネイルやラフを描いたり、打ち合わせ時にメモをする上で「コレだ」というのは、10本に1本あるかないかだ。だから、使いながら自分にあったものを選択し、リピートするようにしている。

 かの松本隆は作詞をするときには、ドイツ製のボールペンと大学ノートでないとうまくできないと語っていた。同じ作詞家でも売野雅勇は、原稿用紙と3Bの鉛筆とステッドラーの消しゴムが必須アイテムとか。コピーライター出身だけに3Bの鉛筆は、芯が柔らかく手の負担が少なくて済むという実務的な理由からだろう。ただ、ボールペンも鉛筆も、プロとして同じものをあえて好んで使うのは、書く文字一つ一つに個性が宿るからだと思う。

 筆者もステッドラーはシャープペンシルを持っているが、芯が1.3mmと太くシャープナーで研ぐ手間が面倒なので、だんだん使わなくなった。その後は、デザイン資材の商社いづみや(現:Too)が業界の定番として扱う「PRESS MAN 0.9mm」を使っている。ボディカラーはてっきり黒しかないと思っていたら、銀座の伊東屋で白があるのを見つけ、思わず買ってしまった。ただ、PRESS MANも可もなく不可もないという感じだ。

 ボールペンは、打ち合わせ用で黒と赤のダブル芯の「クロマチック」タイプを使ってきた。最初は米国製のシェーファーだったが、途中から日本メーカーの製品が登場したので切り替えた。こちらも特に書きやすいというより、単色のペンを2本もつ必要がないからだ。

 クロマチックは80年代に大流行したシステム手帳との親和性も良かった。その後、NAVAのダイアリーを使い始めると、自分で革のオリジナルカバーを作りペン差しもつけた。だいぶ前、三井住友銀行のATMにダイアリーごと忘れてしまい、窓口に取りに行くとクロマチックだけが抜き取られていた。価格は1000円程度と高価ではないのだが、ATMの列に並んで見つけた人間にとっては、光沢あるシルバーのペンは瞬時に心惹かれたのだろうか。

 このペンはメモ魔だった父親にプレゼントするために2本購入し、他界後はその1本を形見として残しているので、それは使えない。抜き取った人間はそんなことは知る由もないだろうが、できれば一緒にままで銀行のスタッフに落とし物として預けてほしかった。



 それ以来、打ち合わせ用には無印良品のノック式(黒)とBICボールペンの黒赤2色タイプを使い始めた。無印のノック式は軽くて手に馴染むので書きやすいのだが、芯が短くインクの量も少ない。替え芯は店舗でも欠品が多く、取り寄せにも時間がかかる。東京出張の時、わざわざ銀座店で受け取ったくらいだ。一方、BICは日本メーカーのゼブラや三菱鉛筆よりもペン先が柔らかく太字だ。安価なので、失くしてもそれほど負担ではない。

 フランスブランドでもあるBICの歴史を紐解くと、同社が初めてボールペンを世に出したのは1947年。特に透明軸のクリスタルは、インクの残量が見える画期的な商品だった。それから半世紀以上が経過し、世界中で1日に1200万本以上を販売するまでになったという。

 BIC自体は学生の頃から知っていたが、それほど身近な存在ではなかった。ステーショナリーというより消耗品という感じで、持ち物にしようという気にもならなかった。アパレルのワールドが開発した雑貨&靴業態「ITS’DEMO」が、BICの多色ボールペンを取り扱っていたが、その時も特に惹かれることはなかった。


round stic fine USAは字が綺麗に見える
 


 しかし、15年くらい前だったか、福岡・天神のアクロス1階にある文具店「ジュリエットレターズ」で、たまたまBICシリーズの「round stic fine USA」を見つけた。白のボディに黒のキャップというスタイリッシュなデザイン。試し書きをすると、すごく書きやすかったので、3本まとめて購入した。

 使い始めると、書きやすさと同時に字が綺麗に見える。ペン先のボールと紙の摩擦が程よいというか、硬過ぎず滑らか過ぎない。一筆一筆がすっと動くので、ぶれずに文字のバランスが良くなるのだ。ビジネス文書はワープロ書きが当たり前になった中、手紙やメッセージはあえてこのペンを使って手書きした。それほど自分にとっては最高のペンだった。

 名前にUSAが入るので多分米国製だったと思うが、ここまでの製品を送り出せるmade in USAもなかなか侮れない。ただ、大量生産には変わりないから、在庫がダブついたのか、その後は100円ショップにも置かれていた。そちらでも10本ほどまとめ買いして使っていた。自宅にも数本常備すると、家族にも「書きやすい」と好評だった。それも数年で使い果たすと、同じタイプはもう店舗には出回らなくなった。



 その後、BICではオレンジタイプの「Easy Glide Fine(0.7mm)」や同「Medium(1.0mm)」を使うようになった。こちらは中国生産で、Fineにしても線はやや太め。書き味は滑らかな反面、一筆一筆がぶれるので文字はround stic fine USAのように綺麗には見えない。



 中国製だからではないと思うが、round sticシリーズでは「Ultra round stic Grip」がメキシコで生産され、米国で販売されていた。フランスブランドと言えどペンのような消耗品ほど、ローコスト生産のグローバリズムには抗えなかったようだ。

 ところで、BICを販売する仏の筆記具メーカー「Société Bic S.A.」の日本法人BICジャパンは7月末、「Easy Glideを全世界で廃盤とすることが決定した」と発表した。ただ、この話には続きがあり、フラッグシップモデルのBICクリスタルシリーズから、「Crystal Original Fine 0.8mm」を、Easy Glideの後継モデルとして順次発売するという。

 個人的にはEasy Glideが廃盤になったところで、消耗品のボールペンはアジア産や南米産などが豊富に出回り、それらの中から書きやすいものを探せばいいので、特に困ることはない。しかし、BICが後継モデルを出すのなら、試しに使ってみてもいいと思う。Crystal Original FineはBICの原点に回帰したフランスメイド。しかも、価格は110円と値ごろだ。

 筆記距離はEasy Glideの2kmに対し、その1.75倍の3.5km分に拡大。400字詰めの原稿用紙で175枚もかけると言うから、コストパフォーマンスはすこぶる良い。まさにフランスらしい合理主義の産物にリファインされたというわけだ。

 文書作成がワープロ全盛の時代にあって、手書き用のボールペンをわざわざMade in Franceでリニューアルしようという考えには惹かれるところがある。というか、筆記具のように日々の生活で必要なものこそ、不易流行が必要なのかもしれない。変える分と、変えてはいけない分。その絶妙なバランスで商品を作り出す。アパレルの商品企画でも、BICの手法は大いに参考になるのではないかと思う。

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行動を制限する段階。

2021-09-01 06:34:24 | Weblog
 8月17日、政府のコロナ対策本部は福岡県を緊急事態宣言に適用する区域に追加した。これを受けて県は、8月20日から9月12日まで緊急事態措置を実施すると決定。大規模商業施設(床面積1,000㎡超の百貨店やショッピングセンター(SC)、家電量販店等)に対し、人数管理や人数制限、誘導など、感染防止措置の徹底を促した。

 また、バーゲンやタイムセールなど混雑が予想される催事については、十分な対策を講じ食品売場等は入場者が繁忙期の半数以下となるように、入場整理等を行う旨を要請した。これ受けて早速、地元の百貨店やSC、スーパーは反応した。



 岩田屋三越は19日、岩田屋本店と福岡三越、岩田屋久留米店で、「食品フロアの入場者数を繁忙期の半数以下になるよう制限する」と、発表。出入口に設置した機器で来店する客数を測るほか、スタッフが出入口に立って目視でお客の入店状況を確認。混雑してきた場合には一時入店を制限するとした。



 福岡大丸は、J.フロントリテイリング共通の取り組みとして、「店舗ごとに滞留しているお客の上限を設定して入店を制限」「滞留しているお客の人数を店頭に設置したモニターで常時告知する」とした。また、「館内の主要施設にSIAA認定のシリカシールド施工を施すことにより、抗菌・抗ウィルス等の安全対策を行なう」と、安全・安心に対する取り組みを徹底した。



 SCはどうか。キャナルシティ博多はお客に対し、「混雑する時間帯を避けての来場に協力」を求め、「混雑時には、段階的な入場を制限する場合がある」とした。ソラリアプラザやソラリアステージなどは、「人流を測定するセンサーを活用し、混雑した場合は混んでいない別のフロアに誘導する館内アナウンスを流す」対応をとった。

 スーパーを展開するイオンは、食品フロアをもつショッパーズ福岡店とイオンスタイル笹岡店で、二酸化炭素の計測機を設置して人流の目安となる900ppm以上(厚生労働省が推奨する換気基準は1000ppm以下)になったら換気を強化する厳格な目標を設定。数値が下がらなければ入口を封鎖するとした。また、店頭のモニターでは売場のCO2濃度を表示し、買い物客に認知、協力を促している。

 福岡県は百貨店やSCでは買物客の滞留時間が長いことから、来店者数を繁忙期の半数程度の抑えることで、密(混雑)を避ける方向で要請した。それは東京都の感染防止対策と大差はない。結果的に岩田屋三越にしても、福岡大丸にしても、先に東京の高島屋が実施した対策とほぼ一緒になった。

 スーパーはお客の買い物が短時間で終えるため、福岡県の要請対象には入っていない。しかし、ほとんどが週に一度は売り出しを実施する。この時は開店から買い物客が押し寄せ、買い物時間が短くても売場は混雑する。平日夕方のピーク時も同様だ。イオンが厚労省の基準を超える厳しい換気態勢に踏み込んだのは、クラスター感染への危機感の現れと言える。

 一方、百貨店は「客数を測る機器」「客数をモニターで常時告知」、SCは「人流を測定するセンサー」を活用するが、具体的な数値を掲げて入店を規制しているわけではない。福岡県が数値目標を示していないから、どう対応していいのかわからないとの言い訳も立つ。しかし、売場の換気や入店人数の制限については、行政が売場の容積にそった基準を提示しないと、商業施設側が自社で取り組むとどうしても甘くなるのではないか。


商業施設が入店規制しても、飲食店にはお客が集中

 岩田屋のように目視でお客の入店状況を確認することが、臨機応変な混雑解消にどこまで役立つのか。やはり具体的な数値目標がないとお客もわからないし、説得力がない。出入口で押し問答といったトラブルが発生する可能性もある。

 昨年、新型コロナウイルスが流行し始めた時、外国人旅行者のコロナキャリアを水際で封じ込めるために、空港ではサーモグラフィーによる検温が実施された。しかし、その程度の対策では、持ち込まれるウイルスをシャットアウトすることはできなかった。そうした反省に立ち、さらにデルタ株が猛威を振るっている状況を鑑みると、もっと厳格な数値目標と感染防止策が必要ではないかと思う。



 要は感染拡大を押さえ込むには、人流の抑制しかないわけだ。商業施設の場合、まず機器による人数把握や二酸化炭素濃度の測定という科学的な対策がある。館内売場の随所にはビデオカメラがあるのだから、それとアプリを連動させて混雑状況をお客に知らせて入店を規制する仕組みなど、ITを駆使した混雑解消に踏み込んでもいいはずだ。

 もう一つは、社会政策として外出そのものを規制する物理的かつ古典的な手法である。「不要不急の外出は控える」も行政が訴え始めて1年以上が経過し、形骸化してすでに全く機能していない。だから、かつて計画経済の社会主義国が実施していた「市民が外出できる日と外出時間を決める(入店規制などと連動)」もいいのではないかと思う。まあ、これにはマイナンバーカードの番号で下一桁が偶数、奇数で決める方法があるが、それにもカードの登録申請が必要なのだが。

 人流が抑えられると、商業施設や小売業者にとっては厳しいかもしれない。だが、都市部に人が流入すればそれだけ感染が拡大するのは、緊急事態宣言が発令されている都府県を見れば容易にわかる。さらに若者にもワクチン接種が始まっても、変異株への感染で重症化するリスクは払拭できておらず、感染を抑えるまでにはまだまだ時間がかかると思われる。

 福岡市の例を挙げると、緊急事態宣言下の感染者数は、8月25日が531人(20代191人、30代100人、40代66人)、26日が362人(20代133人、30代59人、40代52人)、27日が407人(20代137人、30代73人、40代45人)、28日 350人(20代123人、30代76人、40代47人)。それぞれ1週間前の18日が625人(▲94人)、19日が529人(▲167人)、20日が501人(94人)、21日が430人(▲80人)だから、感染者数は減少傾向にある。

 ただ、ワクチン未接種の20代〜40代の感染者数が多い点を考えると、とてもピークアウトとは言えない。20代〜40代は働き盛りで、福岡市の産業構造を考えるとサービス業に従事するものが多く、在宅勤務では難しい点がある。天神では再開発でSCが建て替えの最中にあるが、仮店舗で営業するショップも少なくない。昼間の人口は20代〜40代が圧倒的に多いのだから、感染者が増える傾向の一因とも言える。

 また、若者の感染者が増えているのは、夜の街との因果関係も皆無ではない。筆者の事務所近くの大名エリアがそうだ。こちらの飲食店にも福岡県から時短要請が出されているはずだが、仕事を終えた夜8時過ぎに歩いてみると、とても人通りが引く気配はない。飲食店に中には、何食わぬ顔で夜11時以降も営業しているところもある。真面目に時短要請を守る店があると、お客は営業しているところに集中するから、店は混雑して密になるのだ。

 商業施設への入店規制は行われても、仕事やショッピング後に人々が飲食に出かけて人流が減らなければ、感染の抑制にはつながらない。現行法上、自治体は一人ひとりの行動まで厳しく制限できない。だが、自分の周囲に感染リスクが膨大にあることを考えると、自ら行動を抑制するしかない防止策はない。人との交流は最大に感染因子なわけだから。

 40代以下の感染拡大傾向は、接種が完了する11月末までは続くのではないか。そうした世代から10代以下の子供たちに感染するリスクがある。新学期が始まって以降は、クラスター感染が散発的に起こることも考えられる。学校側が感染防止対策をとっていると言っても、一度多数の感染者を出してしまえば、出校が停止され在宅療養を余儀なくされる。そこで重症化すれば、病床逼迫につながるのだ。

 11月末をもって感染が下げ止まらなければ、そして、子供たちの感染が引き続き増加傾向にあるのなら、国家的命題として人流を抑える行動制限も考えなけてはいけないのかもしれない。

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