インターネットの日経ビジネスオンラインに「川島蓉子のダサい社長が日本をつぶす」という対談コーナーがある。川島氏ご本人はファッションマーケティング会社のご出身で、いろんなブランドの開発にも携われたご高名なお方だ。
現在はifs未来研究所所長という立場で、いろんなプロジェクトも手がけられていらっしゃる。このコーナーはそうした手腕と実績のもとに企業経営者たるもの、もっとファッション的、いわゆる「スマートに物ごとを考えてみては」という視点を提示している。
1月23日には、ブランド「ミナ ペルホネン」を手がけるデザイナーの皆川明氏が登場。 われわれ東京ファッションウィーク関連の専門店系アパレルで仕事をして来た人間にとって、20年前のデビュー当時から注目するブランド、デザイナーである。
対談では、川島氏が「ファッション」が時代を先導していた時代って…世界的にも一度終わった」「新しいことをやりつくした感がある」と論点で切り出した。
それに皆川氏は、ファッション業界は「新作を発表することで成り立って来た」と、業界の立場を示しつつ、「新しさ」という思想に取り込まれると、「すぐに古くなる」という矛盾も感じ、デザイナーとしてそれと戦っているという姿勢を示した。
新しさを追うことがファッションなのかと言えば、それはある一面でしかとらえていない。もともと生地があって、それにデザイン、縫製や加工技術、流行などが加わって洋服はファッションとなる。 でも、流行には時代性があって、繰り返していく。
人のカラダは洋の東西で骨格こそ違え、基本パーツは変わらない。それがまとう服をデザインするわけだから、遊びの部分はあっても特別な形にすることは難しい。(まあ、かつてのパリコレには、服をはるかに超えたものがあったが)
結果として、考え出せるデザインには限界が生じる。新しさといっても、それは全くゼロから生まれるものではなく、既存にあるものが流行のサイクルの中でリ・デザイン、リ・プロダクトされる面は否めない。
そうしたデザインの服を初めて見たり、着たりする人間には、純然たる新しさでとらえられるが、かつて同じデザインの服を見たり、着たりする人間には、リバイバルとしての新しさということになるのだ。
だから、デザイナーが常に新しいものを考え、生み出しているというのは、いささか錯覚なのかもしれない。むしろ、20年という長きにわかってブランドを存続できたのには、新しさ以外の「何か」があると考えるべきではないだろうか。
川島氏が対談でミナ ペルホネンに指摘した「普遍性」がそうだ。皆川氏は2000-2001年秋冬コレクションでは、「tambourine」というテキスタイルを復刻させている。
理由は「ファッションの仕事を始めた時から、継続性のあるもの作りをしていきたいと考えていました。精魂込めた思いを込めて作り上げた生地は、時代を越え愛され続けていくはず」との考えからだという。
単に伝統とか、トラディッショナルとかという解釈ではなく、デザイナーが生地を一目見ただけで魂を揺さぶられるような衝動。感覚的に「これだ」と思ったことが復刻させたのだと思うし、その背景には産地の伝統や職人の技があるのはいうまでもない。
ミナ ペルホネンを形作る生地には、産地で受け継がれた来た染めや職人のプリント技術が宿っている。その変わらない、譲らない、揺るがない「何か」がデザイナーをつき動かすのであり、 変わらない、譲らない、揺るがない「何か」がそのものズバリ、普遍性だと思う。
それをファッションに昇華させるのがデザイナー、いわゆるクリエーターである。だから、そこで生まれる服は何年着ても飽きがこない、一度その魅力に取り付かれると、またそれに戻っていく。
これはお客さんの前にバイヤーや販売スタッフも、同じ気持ちだったと思う。
ミナ ペルホネンはデビュー当初は、東コレ系の一ブランドでしかなかった。しかし、バイヤーがその商品を見た時、皆川氏自身が産地まで出かけて、生地から作りあげるクオリティや世界観に一目で惚れ込んだ。
そして、これを地道に売っていけば顧客は付くと踏んだはすだ。商品をお客に提案してきた百戦錬磨のバイヤーや販売スタッフであるがゆえに理解できたことでもある。他のブランドでもあるケースだが、20年もの長きに渡ってそう思えるものはそうそうない。
ミナ ペルホネンのブランド力を醸成させたのは、まさにオリジナル生地から生まれた服のクオリティと世界観に他ならない。それをショップが変わらず、譲らず、揺るがずにお客さんに提案し、ファンをつくり出した。だから、その熱い思いはアパレル側にもフィードバックされ、さらにいい物を作ろうという意気込みを生んで、ブランドを持続させていったと言える。
福岡でも、ミナ ペルホネンを販売してきたセレクトショップがある。1998年に創業し、当時からこのブランドを扱い、シーズンごとのストーリーをお客に語り続けている。だから、ずっとファンを惹き付けて止まないのだ。
ただ、仕入れたバイヤーにとっては、決して先にブランドありきだったわけではない。展示会で商品を見極めて取引を申し出、バイイングを始めた。それは当時発行された業界誌にちゃんと書いてある。
それから16年以上を経過しても、売れ続けているのだから、もう完全にファッションや流行の次元を超えていると思う。ブランドは今やセレクトショップのMDの一部、コーナーの一角を占めるのではなく、パートナーショップという路面店を展開するまでになっている。ある種の普遍性がブランド力となって、お客のスタイルテイストの一部になっているのかもしれない。
今では20代で顧客となった人が母親となり、その娘を新たなファンにさせていることも考えられる。ミナ ペルホネンには、そんな瑞々しさと底知れぬエネルギーを感じるのだ。
本物を見抜く人間が地道に売り続けることも、服がブランド力をつける上で、一端を担う。言い換えれば、地道に愚直に売り続けないと、ブランドは認知されないということである。
現在はifs未来研究所所長という立場で、いろんなプロジェクトも手がけられていらっしゃる。このコーナーはそうした手腕と実績のもとに企業経営者たるもの、もっとファッション的、いわゆる「スマートに物ごとを考えてみては」という視点を提示している。
1月23日には、ブランド「ミナ ペルホネン」を手がけるデザイナーの皆川明氏が登場。 われわれ東京ファッションウィーク関連の専門店系アパレルで仕事をして来た人間にとって、20年前のデビュー当時から注目するブランド、デザイナーである。
対談では、川島氏が「ファッション」が時代を先導していた時代って…世界的にも一度終わった」「新しいことをやりつくした感がある」と論点で切り出した。
それに皆川氏は、ファッション業界は「新作を発表することで成り立って来た」と、業界の立場を示しつつ、「新しさ」という思想に取り込まれると、「すぐに古くなる」という矛盾も感じ、デザイナーとしてそれと戦っているという姿勢を示した。
新しさを追うことがファッションなのかと言えば、それはある一面でしかとらえていない。もともと生地があって、それにデザイン、縫製や加工技術、流行などが加わって洋服はファッションとなる。 でも、流行には時代性があって、繰り返していく。
人のカラダは洋の東西で骨格こそ違え、基本パーツは変わらない。それがまとう服をデザインするわけだから、遊びの部分はあっても特別な形にすることは難しい。(まあ、かつてのパリコレには、服をはるかに超えたものがあったが)
結果として、考え出せるデザインには限界が生じる。新しさといっても、それは全くゼロから生まれるものではなく、既存にあるものが流行のサイクルの中でリ・デザイン、リ・プロダクトされる面は否めない。
そうしたデザインの服を初めて見たり、着たりする人間には、純然たる新しさでとらえられるが、かつて同じデザインの服を見たり、着たりする人間には、リバイバルとしての新しさということになるのだ。
だから、デザイナーが常に新しいものを考え、生み出しているというのは、いささか錯覚なのかもしれない。むしろ、20年という長きにわかってブランドを存続できたのには、新しさ以外の「何か」があると考えるべきではないだろうか。
川島氏が対談でミナ ペルホネンに指摘した「普遍性」がそうだ。皆川氏は2000-2001年秋冬コレクションでは、「tambourine」というテキスタイルを復刻させている。
理由は「ファッションの仕事を始めた時から、継続性のあるもの作りをしていきたいと考えていました。精魂込めた思いを込めて作り上げた生地は、時代を越え愛され続けていくはず」との考えからだという。
単に伝統とか、トラディッショナルとかという解釈ではなく、デザイナーが生地を一目見ただけで魂を揺さぶられるような衝動。感覚的に「これだ」と思ったことが復刻させたのだと思うし、その背景には産地の伝統や職人の技があるのはいうまでもない。
ミナ ペルホネンを形作る生地には、産地で受け継がれた来た染めや職人のプリント技術が宿っている。その変わらない、譲らない、揺るがない「何か」がデザイナーをつき動かすのであり、 変わらない、譲らない、揺るがない「何か」がそのものズバリ、普遍性だと思う。
それをファッションに昇華させるのがデザイナー、いわゆるクリエーターである。だから、そこで生まれる服は何年着ても飽きがこない、一度その魅力に取り付かれると、またそれに戻っていく。
これはお客さんの前にバイヤーや販売スタッフも、同じ気持ちだったと思う。
ミナ ペルホネンはデビュー当初は、東コレ系の一ブランドでしかなかった。しかし、バイヤーがその商品を見た時、皆川氏自身が産地まで出かけて、生地から作りあげるクオリティや世界観に一目で惚れ込んだ。
そして、これを地道に売っていけば顧客は付くと踏んだはすだ。商品をお客に提案してきた百戦錬磨のバイヤーや販売スタッフであるがゆえに理解できたことでもある。他のブランドでもあるケースだが、20年もの長きに渡ってそう思えるものはそうそうない。
ミナ ペルホネンのブランド力を醸成させたのは、まさにオリジナル生地から生まれた服のクオリティと世界観に他ならない。それをショップが変わらず、譲らず、揺るがずにお客さんに提案し、ファンをつくり出した。だから、その熱い思いはアパレル側にもフィードバックされ、さらにいい物を作ろうという意気込みを生んで、ブランドを持続させていったと言える。
福岡でも、ミナ ペルホネンを販売してきたセレクトショップがある。1998年に創業し、当時からこのブランドを扱い、シーズンごとのストーリーをお客に語り続けている。だから、ずっとファンを惹き付けて止まないのだ。
ただ、仕入れたバイヤーにとっては、決して先にブランドありきだったわけではない。展示会で商品を見極めて取引を申し出、バイイングを始めた。それは当時発行された業界誌にちゃんと書いてある。
それから16年以上を経過しても、売れ続けているのだから、もう完全にファッションや流行の次元を超えていると思う。ブランドは今やセレクトショップのMDの一部、コーナーの一角を占めるのではなく、パートナーショップという路面店を展開するまでになっている。ある種の普遍性がブランド力となって、お客のスタイルテイストの一部になっているのかもしれない。
今では20代で顧客となった人が母親となり、その娘を新たなファンにさせていることも考えられる。ミナ ペルホネンには、そんな瑞々しさと底知れぬエネルギーを感じるのだ。
本物を見抜く人間が地道に売り続けることも、服がブランド力をつける上で、一端を担う。言い換えれば、地道に愚直に売り続けないと、ブランドは認知されないということである。