HAKATA PARIS NEWYORK

いまのファッションを斬りまくる辛口コラム

フィルムモードの追憶。

2021-01-27 06:57:57 | Weblog
 1月21日、フランスの女優、ナタリー・ドロンが亡くなった。一昨年の11月に死去したマリー・ラフォレと並んで、わが映画史に残る美女がこの世を去るのは寂しい。ナタリーはアラン・ドロンと共演したサムライで魅せたアンニュイな表情が何とも言えない魅力だった。振り返ると、ハリウッド作品も数多く観ているのだが、好きなったり印象に残っているのは、不思議とフランスの女優ばかりだ。

 他には、冒険者たちのジョアンナ・シムカス、夢・夢のあとのアニセー・アルヴィナ、サブウェイのイザベル・アジャーニ。最近ではオルフェーヴル河岸36番地のカトリーヌ・マルシャル、アムール&テュルビュランスのリュディヴィーヌ・サニエと、作品名と女優名がすんなり出てくる。母親が洋画好きだった影響で、子供の頃に観て鮮烈な印象を受け、いい女優に対する感覚が研ぎ澄まされたのか。

 ただ、フランス映画は超大作や娯楽作品、SFなど莫大な資金をかけるハリウッドとは違い、勧善懲悪に反する脚本や粋な演出、詩的なストーリーなどに注力するため、それだけ女優の個性というか、所作の一つ一つが記憶に焼き付いたこともあるだろう。性描写までのイントロも、ハリウッドがあっけらかんとヌードになるに対し、フランス映画は抱擁での衣擦れ音や下着姿で官能美を表現するところなど、子供心には強烈だったと思う。

 では、衣装についてはどうか。ハリウッド映画はヒット狙いの作品ほど資金力に物を言わせ、オリジナルで作っていることが多いと感じる。だからか、日本人の感性からすると妙に気を衒って不釣り合いに見えてしまう。時代劇は当時のものを、SFはシナリオ通りに再現しているから論じるべくもないが、現代ものでは女優陣が着るスーツやドレスは事前に採寸をするものの、役柄以上にデザインが誇張されて目立ち過ぎるものが少なくない。

 例えば、グロリアでジーナ・ローランズが着たスーツは、トップの肩が強調され、タイトではないが膝丈のスカート。たった一人で組織のアジトに乗り込む気丈な女性の衣装だからしょうがないのだが、市販のスーツにしては少しエッジが効きすぎていると感じた。ワーキングガールでやり手上司のシガニー・ウィーバーが着ていたスーツもそうだ。1988年の公開当時、実際のニューヨークではキャリアスタイルがややソフト路線に移行していた時期だったが、映画の衣装はやはり気張り過ぎの印象を受けた。

 一方、フランス映画の衣装はどうか。製作費をかけていないのなら、衣装もオリジナルではないだろう。というか、世界のモードを発信する国だから、パリのブティックに飾られたものをそのまま使っても十分絵になるはずだ。しかし、そんなブランドが衣装に使われるケースの方が少ないと思う。
 むしろ、映画で見かけた女優陣が着るのはワンピースやタートルニットなど、プレーンで普通に見えるものばかりなのだが、自然に着こなすほどお洒落に見えるのは不思議だ。米国ブランドの同じアイテムをハウリッド女優が着ても、単なる普段着になってしまう。やはり、アメリカのテイストがそういうものなのだろう。


60代映画の衣装からアイテム企画

 ちょうど、1980年の初め、マンションアパレルでパッキン詰のバイトしていた時のこと。そこの社長から「お前も企画会議に参加しろ」と、お達しがあった。「よし、いいアイデアを出して、商品化してもらおう」と勇んで参加したものの、大学生ごときにマーケットも顧客ニーズもわかっているはずはない。自信を持て出したアイデアも、伊勢丹の広告で知ったカルバン・クラインを受け売りしただけで、社長に見透かされてあっけなく一蹴されてしまった。

 そして、「どんな映画、観てんのか」と聞かれた。ちょうどその頃観たのはリチャード・ギア主演の「アメリカンジゴロ」で、そう答えたと思う。自宅の衣装部屋でブロンディのコールミーをBGMにアルマーニを颯爽と着込むのが印象的だった。多分、この映画で初めてジョルジオ・アルマーニというブランドを知り、サンドベージュという独特の色合いが目に焼き付いた。むしろ、共演したニーナ・ヴァン・パラントローレン・ハットンが着ていた衣装は、「ほとんど印象に残っていない」とも。




 逆に映画を観て記憶に残っていた衣装と言えば、冒険者たちでレティシア(ジョアンナ・シムカス)が着ていたボタンが大きめの「ピーコート」や個展会場での「メタルドレス」だ。コードを力強く奏でるオーケストラと物寂しい口笛がメジャーとマイナーを交互に転調するイントロが流れる中、自動車技師ローランの工場を訪れるレティシア。彼女のピーコートは、映画制作から10数年を経過した1980年当時でも、少しも古臭さを感じなかった。

 また、レティシアが車の廃材でオブジェを作り、個展を開いた時に着ていた衣装は、前衛芸術家らしく金属のパーツを繋いだメタルドレス。多分、肌色に近いキャミソールが付いていたとは思うが、映画の衣装というよりパリコレに登場するクリエーションのようだった。金属パーツに本物のステンレスやアルミを使っているのなら、かなり重たいのではないかとずっと気になっていた。



 社長にも「〇〇が映画を観て気になった」と答えたと思う。その後もずっと引っかかっていたので後になって調べると、映画が制作された同じ1967年にパコ・ラバンヌがオートクチュールのコレクションで、ほぼ同じメタルドレスを発表している。おそらく、映画用の衣装として担当者が発注したにしても、このドレスがベースになったのではないか。ただ、流石にキャリアゾーンで商品化するには無理があった。

 逆にピーコートはこのアパレルでも、キャリア向けにアレンジして創ろうという構想はあったようだ。翌1981年にはライトメードながら打ち込みを強めたコシのあるフラノ素材を用い、ワインレッドとグレイが企画された。他のメーカーならコンサバなオーバーになるだろうが、うちのアパレルではジャケット感覚で着られるコートの方が売れるとの認識だった。取引先である専門店のバイヤーさんにも好評で、期中に追加生産されたほどだ。


ごくありふれたテイストを陳腐化させない

 「映画で女優が着たコートがこんな展開になるとは、すごいですね」と言うと、社長からは「女優が着たアイテムだからではなくて、フランスのテイストそのものが色褪せないんだよ」と、切り返された。その時はどういう意味かわからなかったが、それから20年近く経った1998年には、偶然にも気付かされることになった。



 インターネットが浸透し、何でも検索できるようになり、ずっと気になっていたジョアンナ・シムカスが出演映画を調べてみた。すると、冒険者たちと同じロベール・アンリコ監督が撮った「若草が萌えるころ」がヒットした。この映画で彼女が着ていたソフトトレンチのコートも、この頃には専門店系アパレルのヒットアイテムとなっていたのだ。



 また、雑誌のアンアンが10年スパンで掲載する「パリジェンヌ」特集を読んで、はたと思うことがあった。バックナンバーで見た70年代、そしてリアルで読んだ80年代、90年代のスナップに登場するパリジェンヌは、全く時の流れを感じさせず、彼女たちにはトレンドは関係ないのかと思わせるほど。

 1967年に製作された冒険者たちのジョアン・シムカスも、同じくサムライのナタリー・ドロンも、着ていた衣装は90年代でも十分いけるテイストだった。ごくありふれた着こなしを決して陳腐化させないシチュエーションやカット割り、街並みが影響しているのだと感じる。

 ちょうどこの年に初めてパリを訪れたが、直にみるパリジェンヌの装いは昔のスナップと見比べても、服の所々が微妙に変わっているだけで、テイストはほぼ一緒だった。70年代の格好でサンミッシェル通りを歩いていても違和感は全くないなと感じた。その時初めて、アパレルの社長が言ったことは、こんなことだったのかと気付かされた。

 マンションアパレルが勢いを持った80年代初めは、服作りはトレンドをコロコロ変えるのではなく、ずっと着続けられるように上質な生地を用い、ディテールでシーズンの違いを出していく手法だった。それを展示会に来てくれるバイヤーさん、その先にいる洋服好きなキャリア層がちゃんと認めてくれていた。

 そして、ろくに業界を知らなかった大学生がフランス女優への憧憬、シネマモードの記憶から、商品企画の一助になる提案ができたこと。これほど嬉しかった思い出はない。

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お洒落法の番人。

2021-01-20 07:00:58 | Weblog
 法律というと難解だ。弁護士はとっつきにくい。裁判はできればごめん被りたい。これらが多くの人が抱く司法のイメージだろう。しかし、日本が法治国家である以上、様々なトラブルが発生すれば、その解決は法に則って公正に行われなければならない。そこで、国は司法が国民にとって身近で速くて、頼りがいをあるようにするため、1999年から司法制度改革をスタート。新たなに法テラス、新司法試験と法科大学院、裁判員制度を導入した。

 ところが、国の目論見は大きく外れた。法テラスは紛争解決の拠点と期待されたが、知名度は上がらず過疎地では待遇面から弁護士が不足し、質の向上にもつながっていない。新司法試験は合格者が1999年にそれまでの500人台から一気に1000人、2000年には2000人を突破したものの、逆に新人弁護士の就職難を招く皮肉な状況をもたらしている。

 法科大学院は2006年には政府予想の40校を超える74校が開校し、総定員は5800人余りとなった。その結果、07年の司法試験では合格者1851人で、合格率は40.18%と低迷。合格実績の格差はそのまま大学院側の焦りを生み、考査委員を務める教授による問題漏洩事件にまで発展した。法学系学部を存続させるために法科大学院を開設した地方の国立大もあり、合格率の低迷は進学者数を低下させ、九州では鹿児島大、熊本大が閉校に追い込まれている。



 裁判員制度は、一般国民の感覚や常識を刑事裁判に反映させる目的だったが、「人を裁くことに抵抗がある」「参加をためらう」国民が7割を超えると言われる。国民にとって身近で早くて、頼りがいのある司法の実現には、まだまだ時間がかかるようだ。一方で、一般社会で働いた後に法科大学院で学び、 法曹資格を取得する人は確実に増えている。法曹への門戸が開かれたことを、新たなビジネスチャンスと捉えているのだ。

 筆者が知る弁護士も司法制度改革の中で資格を取得したが、その経歴は異色だ。神戸大学で発達科学を学んだ後に一般企業に就職し、その後インターネット関連で起業を考えた。当時流行りだったネットオークションの事業化では、「古物営業法」に則った許可が必要だと知り、法律知識の重要性を痛切に感じたという。そこで、Web検索で知った地元福岡の法科大学院に進学し、猛勉強の末に法曹資格を取得した。

 弁護士登録後は学内のリーガルクリニックに勤務しながら、地域住民を対象とした無料法律相談会を主催する一方、行政事件にも取り組んでいる。司法試験の受験勉強について聞くと、「明治時代の判例がカタカナ書きだったのに驚いた」と、苦笑する。反面、「法曹資格を取得しようという薬学部出身の女子学生は1日8時間以上勉強していた」と。法科大学院があることで、国家資格のダブル取得へと学生のモチベーションを上げた点は、大学の新たな可能性を開いたと言ってもいいだろう。

脱法行為が渦巻くアパレル業界

 翻って、アパレル業界はどうだろうか。普通に仕事していれば気づかないが、様々な法律問題が潜んでいる。例えば、「意匠権の侵害」だ。意匠とはデザインのこと。形や模様、色彩またはそれらの組み合わせでできたものを指す。法的には登録を受けた意匠、またこれに類似する意匠をあらかじめ指定した商品については、ビジネスを独占的、排他的(他人がそのデザインを真似をすることはできない)に行って利益を得ることができるのだ。

 つまり、登録されたデザインをコピーして商品を製造し販売すれば、意匠権の侵害にあたり、損害賠償を請求される場合がある。国内で争われた事案では、「プリーツ・プリーズ商品形態・差止等請求事件」。イッセイ・ミヤケ社のプリーツ・プリーズを、アパレルメーカーのルルド社が模倣して製造し、名鉄百貨店が販売して両社が収益をあげたことは、意匠権の侵害や不正競争行為に当たると、1999年に東京地裁が判断したものだ。

 最近ではコムデ・ギャルソン社の社員が「古物営業法違反」の疑いで、書類送検されたケースがある。コムデ・ギャルソンの古着3点を仕入れて転売したことは、一度流通市場に乗った物を仕入れて転売する古物営業にあたり、所管の警察署に申請し都道府県公安委員会の許可を受けなければ、違法になる。古着の中に盗品が紛れ込んでいることもあり、その場合に警察が捜査をしやすいよう許可制にしているのだ。

 昨今はネットを利用した物品の販売が浸透しているが、個人が「不要品」を売る場合は「営業」にあたらないため、処罰はされない。しかし、明らかに儲けるために古着や不要品を仕入れて売る行為は別なのだ。海外から古着を輸入する場合は、病害虫や細菌など伝染病の発生を防止するために、今度は「検疫」を受けなければならない。古着屋を始めるにもいろんな法律知識が必須だ。ファッション専門学校でも少しは教えていてもいいのではないかと思う。

 橋下徹元大阪府知事が弁護士を目指したのは、早稲田大学時代のアルバイトがきっかけと語っている。海外から輸入した中古の革ジャンを加工し高値で転売していたが、取引先からもらった手形が不渡りになって代金回収の訴訟を起こすハメになった。この経験から法律知識の必要性を感じ経済学部の学生でありながら、司法試験の勉強を始めたという。

 いろんなトラブルに見舞われた時、多少の法律知識があれば、その後の処理や手続きをスムーズに行え、違法行為は訴えられるから止めようという抑止力を生む。法律を知らないで違法行為をした場合は、その意識を欠いていると解釈されるが、故意(わざと)が成立する場合では、違法性の意識は必要とされない。裁判所が違法だと判断すれば、刑事罰(刑務所への収監など)を与えられ、損害賠償(お金)を請求されるのだから、細心の注意が必要なのだ。


法律事務所が業界のトラブルに対応
 


 社会人から弁護士となると、前職の経験を生かして法律相談における守備範囲を広げることができる。東京の三村小松山縣法律事務所(https://mktlaw.jp)が発足させた「ファッションロー・ユニット」もその一つだ。ファッション産業の発展に寄与する目的で、業界経験をもつメンバーを含めた6人の弁護士が「知的財産権の問題」から「各種契約」、「下請けトラブル」、「海外との交渉事」まで業界で必要な案件のほぼ全てに対応してくれるという。

 アパレル業界では大手が下請けに発注した商品を平気でキャンセルする契約違反は枚挙にいとまがない。企業によっては労務管理が曖昧で、サービス残業が日常茶飯事という話を聞く。大手SPAなどのトップがスタッフにセクハラ行為をした事実もある。店長が売上げ予算を達成したいがため、スタッフにパワハラまがいの言動を吐く光景を筆者は何度も目撃している。

 それは法律知識がないとか、順法精神が乏しいから起こるものではない。やはり、長年の慣習の中で生まれているケースもあるし、川上から川下に物が流れていく構造上、どうしても下手側が優位になる取引スタイルからだ。また、労働集約的産業で個人の力に頼りすぎている面もあるだろう。しかし、時代は変わった。コンプライアンスが叫ばれるようになり、弱者が泣き寝入りすることはないのだ。

 とは言っても、業界の制度面が短期間で充実し、効果を発揮するとは限らない。だからこそ、様々なトラブル案件に対し、法律に則って公正に解決していくことが必要になる。こうした状況から、三村小松山縣法律事務所では、業界特性を踏まえた柔軟なリーガルサービスへの期待は大きいと判断し、ユニットを立ち上げたという。



 注目は弁護士それぞれのキャリアだ。三村氏は裁判長としてプリーツ・プリーズの事件など数々の案件を担当し、弁護士登録後はモデルのメイクなどの著作物性が争われた事件を手がけている。小松氏は現役のカメラマンでありながら、弁護士登録後にはニューヨークのフォーダム大でファッションローを専攻し卒業。かの小室圭氏の留学先でもあるが、ロースクールとしては全米でも超難関校だけに実務能力の高さが窺える。

 海老澤氏は宝島社に勤務後、海外に留学しエル・ジャポンやギンザでは編集者やスタイリストを経験。弁護士登録後はファッション業界の法的な問題を取り扱っている。ついにカメラマンやスタイリストが弁護士も兼ねる時代になったということ。塩川氏は長年、クリエイターなどの法実務に尽力する中で、ブランド管理や商標実務に積極的に関わっている。ニューヨーク州の弁護士資格も持ち、海外取引での契約交渉などに強みを発揮できるようだ。

 ファッションと法律の両方に秀でた面々が揃う。まさに業界での実務経験に法曹資格がドッキングして、様々なトラブル解決には鬼に金棒と言えそうだ。

 筆者も大学の法学部で学んでいるので、業界では景品表示法(折込チラシ持参の方には粗品を進呈。1985年当時は✕)や手形小切手法(隠れたる取立委任裏書)などでは、多少の法律知識を生かすことができた。しかし、ここまでのキャリアとクオリファイには叶わない。というか、アパレルビジネスを近代化する上では、当然必要とされる人材なのだ。

 日本の法科大学院でもファッションローを主要な専攻種目にすれば、女性を中心にもっと進学者が増えるのかもしれない。ただ、地方では研究ソースや知見を持つ教授陣は揃わないだろうが、キャリアアップしたい人が司法試験にどんどん挑む、それでいいと思う。ファッション専門学校でもエディターやプレス以外に、リーガルコースを作る日が来るのだろうか。実現すれば、そこで学ぶ学生が一人でも出てくることを期待して止まない。
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その先に目指すもの。

2021-01-13 06:48:14 | Weblog
 正月休みに日本経済新聞を読んでいたら、以下の記事が目を引いた。

西友と無印の新・創業期


 「2021年は新型コロナウイルスを克服する『第二、あるいは第三の創業期』と位置づける経営者は多いだろう。西友と、同社のPB(プライベートブランド)商品から派生した良品計画も時を同じくして新たな創業に踏み出す」との書き出しで、両社がこれまでの反省を踏まえ、新たに打ち出そうする戦略を対比し経営の行方を展望する内容だ。

 西友と無印は、西武セゾングループの崩壊後には明暗が分かれている。西友は業界2位から4位まで落ち込み、高丘季昭氏がグループの筆頭代表幹事を務めた時代には、ニチイにも抜かれる瀬戸際まで追い込まれた。その後も売上げが回復することはなく、2000年には米・ウォルマートの傘下入りでディスカウント路線に移行し、再建に道を探ることになった。



 筆者は2003年、ウォルマートが手がけた日本1号店「西友佐賀巨勢店」の開業に立ち会った。取材にやってきたテレ東のワールドビジネスサテライトをはじめ、各メディアが色めき立つ中、売場を見た印象は「Rollback(同じエリアにある他店が安い価格を広告している場合は、その価格に合わせる)やPrice cutなどのEDLP戦略が目を引くだけで、品揃えでは魅力がない」だった。結局、地元スーパーには勝てず、2010年に撤退を余儀なくされている。



 福岡でも「サニー」が西友に買収されたため、売場にはウォルマートのPOPやPBが氾濫した。サニー各店はRollbackをそのまま実践したが、絶対的な競争力をもったとは言い難い。お客は価格が同じなら、サニーまで行かずとも近くの店舗で購入すればいいからだ。筆者がニューヨーク時代に現地で購入し家族や友人に送っていた「Reese’s Choco」(140gミニカップ、170g4パック、共に298円)。これも西友がウォルマートの調達網を生かして国内向けに販売したが、日本ではメジャーになることもなく廃番となった。

 日本は中間層が没落したとは言え、消費者は米国のように単純ではない。日々の買い物では安心できるNBを好み、鮮度や美味しさを求めれば多少割高でも購入する。食品スーパーの他に百貨店、専門店、ディスカウントストア、スーパーセンター、道の駅、さらにドラッグストアまでもが生鮮やグロサリーを扱うのが何よりの証左である。いろいろ買いまわる日本の消費者にとって、EDLPは選択肢の一つでしかないのだ。



 2000年には突然、米投資ファンドのコールバーグ・クラビス・ロバーツ(KKR)が西友の株式を65%、楽天が同20%を取得。ウォルマートは事実上、経営の一線から退いた。それは米国で支持される低価格戦略の敗北を認めたようなものだ。代わって経営権を握ったKKRは昨年末、経営コンサルタントの大久保恒夫氏を次期最高経営責任者(CEO)に就任させる人事案を発表した。「日本のスーパーは日本の市場を知る人間に任せたほうがいい」との判断から、大久保氏を西友再建の切り札として招聘したと思われる。

 筆者は過去に二度ほど大久保氏にヒアリングをしている。「ドラッグイレブン」の社長を務めていた2000年代初頭だ。当時、ドラッグ業界はマツモトキヨシやツルハ、サンドラッグなどが全国展開に攻勢をかけていた頃。ドラッグイレブンは鹿児島の一薬局から九州北上による多店舗・ドミナント化を進めていたものの、確固とした経営戦略を持たず壁にぶつかっていた。同氏は戦略のフォーマット作りを託されたのである。



 大久保氏は、「無名ブランドでも高付加価値、高粗利の商品をお客に奨励販売する」「ヘア&エステサロンを併設して来店動機に繋げる」等などの施策を実行。並行してローコストオペレーションや業務の効率化を進め、同社の成長戦略を構築した。2006年にはドラッグイレブンHDのポラリス・プリンシパル・ファイナンス傘下入り、07年にはJR九州によるポラリス所有の全株式取得と、同社が安定経営を続けられるようお膳立てを行なった。

 その後は成城石井の業績を好転させるなど、その手腕は多くが知るところ。過去にはユニクロや無印の事業改革にも携わり、流通系コンサルタントとしての地位を不動にしている。ただ、大久保氏とてドラッグイレブンでは郊外店を成長軌道に乗せるまでには至らなかった。宮崎発の「コスモス薬品」が東証一部上場を成し遂げ、2020年には売上高業界3位まで躍進したのとは対照的だ(https://pcareer.m3.com/shokubanavi/feature_articles/169)。

 大久保氏が西友再建に向けて振るう辣腕には、同社と共同でネットスーパー事業を進める楽天を含め、周囲の期待は非常に大きいと思う。KKRとしては西友が再建を果たせば、他社に売却するはず。まさか、その相手が楽天になるのか。いろんな意味で、大久保氏は再建請負人であり、事業売却の仕掛人にもなり得る。果たして、ハーレを乗りこなすように颯爽とスキームを描くことはできるのだろうか。


個店仕入れ程度では小売りの競争に勝てない

 一方、無印はセゾングループの崩壊後に(株)良品計画として独立し、生活全般の商材を製造販売して確固たるポジションを築いた。さらに同社は90年代から2000年にかけて、無印をグローバルブランドに成長させた。だが、筆者は00年代の半ばから無印のモノづくりに見られた哲学や意志、虚飾を排した独特の美意識が少しずつ失われていくのを感じた。デフレの蔓延で価格が安いことが価値を決めるようになった時期だ。

 リーマンショックを境に無印は、質感より安さを押し出していく。アパレルに限って言えば、低価格で買いやすい商品=無印となっていった。それを「無印量品」と揶揄する人もいる。金井会長は「良品計画は20年に創業40年を迎え、『従来の小売業のあり方を反省し、第二の創業を目指す』」と語り、記事はその心は大量生産・消費に伴い軽視された生産者、地域、環境の再生と成長の両立という「ユートピア」の実現にあると解説する。

 「従来の小売業」というが、確かに無印は製造小売業だから、あえて「小売業」と言っても間違いではない。しかし、無印が確固としたブランドになったのは、たとえ商社タイアップでも、ものづくりの素晴らしさ、いわゆる企画製造のノウハウやブランドの世界観を独自で構築していったからだ。それが長引くデフレ禍で「低価格の量産品=無印量品を単に仕入れて売ってきただけ」と、自ら公言しているように受け取れ、とても反省には見えない。




 12月に開業した東京有明店に「フードロスを減らす量り売りコーナー」や「青果売場」を展開したのも生産者、地域、環境の再生と成長の一環だが、それらを世界中の店舗に行き渡らせることができるのか。20年9〜11月連結決算の純利益は、巣ごもり消費で前期比69%増の122億円だった。しかし、欧米事業はコロナ禍で昨期は142億円の減損損失を出し、中国事業も周政権の国家主義的姿勢から、今後の展開には不安要素がつきまとう。

 単に安いだけに成り下がってしまった無印アパレルでは、かつてのような哲学や美意識に裏打ちされた秀逸な企画を復活できるのか。「地域住民のための相談所」も、お客がどう利用するのか具体的なイメージが湧きにくい。金井会長にはその辺をもっと如実に語ってもらいたかった。むしろ、新たに量り売りや青果を導入したくらいでは、従来のあり方を修正したとは言えないし、第二の創業というエポックにも程遠いと思う。

 また、金井会長は「地域に土着したコミュニティーに脱皮」し、「個店の仕入れを増やすなど、現場への権限委譲を加速する」という。だが、小売業という意味では地方の百貨店や食品スーパーも、すでに地産地消を積極的に進めており、郊外には道の駅といった競合が存在する。これまで量り売りや青果を扱ってきていない無印が社員に仕入れ権限を移譲したとしても、ロスを出さずに収益を上げるノウハウを蓄積するまでには相当の時間を要する。

 奇しくも、コスモス薬品が売上げ伸長のカギとして「日配品」を導入し始めた2000年代初めは、「豆腐すらいったい何丁仕入れていいのかがわからず、相当のロスを出した」と、当時の営業部長は語っていた。それから店頭に「契約農家の朝穫れ野菜」を展開できるまで15年の歳月を要したが、これらの戦略が巣ごもり消費をうまく捉え業績をアップさせている。逆にこれまで無印が青果を扱ってこなかったのは、そうした不安があったからではないのか。

 消費者が完全に成熟する中で、競合他社の小売業はあの手この手で消費を喚起しようと、進化を続けている。果たして無印が小売業としてそんな相手と互角に戦える術を整えることができるのか。スローガンは偉大でも、具体的な施策が再び消費者の心を打たければ、第二の創業は単なる「理想郷」で終わってしまう。

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見限られずに見切る。

2021-01-06 06:48:58 | Weblog
 2021年が明けた。アパレル業界は今年も厳しい状況が続くだろうが、側面からずっとサポートしてきた「出版業界」も、雑誌の廃刊や身売りが続いている。年末ギリギリになって懇意にしていた元編集者から、「ぜひ、会って話がしたい」との連絡をもらった。どうやら、転職をして別の仕事をしているようだ。

 コロナ禍で県境を超えた移動は憚れたが、半年以上出張らしい出張には行けず、自宅と事務所を往復だったから出かけたくなった。もちろん、万全な感染対策を取った上で、屋外で小一時間くらいの会話なら大丈夫だろうと、決断した。県外に出るのは一昨年の10月以来。彼の現状、元同僚編集者らの動向、今後の業界のあり方など聞きたいことはいろいろあった。



 テラス席なら換気の心配がなく、会話も自由にできるだろうと、街中のカフェを利用した。寒さが気になったが、街はその日たまたま寒波が和らぎ、昼ごろになると陽が差して暖かになった。彼がスーツ&コートなのに対し、こちらは薄手のニットにレザージャケット。防寒はそれで十分だった。

 面と向かって彼と話すのは5年ぶり。以前は毎年のように一緒に仕事をしていたが、互いに他が忙しくなって会う機会もなくなった。その後、出版不況が一気に来て、担当していた雑誌が別会社に身売りし、違う部署を異動していた。会って話したいとの電話をもらった時は、「知り合いの伝手で、11月から別の会社にお世話になっている」とのことだった。どんな仕事をしているのかも気になった。


歳を取るほど、異業種転職を躊躇う

 現在の仕事は、出版とは全く異なる店舗開発や施工管理。某専門店グループの子会社に籍を置いているとのことだ。出版社時代にはフード業界をメーンで取材していたので、店舗にも少なからず触れていたと思うが、外から見るのと中で仕事をするのはずいぶん異なる。コロナ禍でアパレルや外食は客足が遠のき、青息吐息の店舗も少なくない。感染者の爆発的な拡大で再び緊急事態宣言が発令されると、廃業や閉店に追い込まれるところも出てくるだろう。

 だが、彼によると、「再開発が続いているエリアでは、新規出店や改装のペースは落ちていない」という。勤務する会社でも「4月開業のビルで新規出店の物件が5つ、他にも数店が改装中」とか。店が潰れても、その跡は新しいビジネスが芽を出すチャンスなのか。彼にとってはいろんな発見もあり、毎日は充実しているようだ。もちろん、将来は経営者として独立し、「これまでお世話になった方々とのコミュニティを復活させたい」と、意気込む。

 一方、元同僚の編集者らはどうしているのか。年末になると、必ずプロ球団を解雇された選手を取り上げる番組がある。ベテランになればなるほど、なかなか異業種への転職に踏ん切りがつかず、スポーツ関連の仕事に携わりたいとの思いが強い。彼に聞くと、「元同僚も編集を続けているのが大半」とか。「あと2〜3年で定年を迎えるのに、マイナー雑誌まで格を落としても編集者を続ける人もいる」そうだ。よく転職できたものである。



 インターネットの発達で、編集の仕事もクラウドでこなせるようになった。必ずしも東京の一等地にオフィスを構える必要はなく、自宅でも可能だ。リモートでライターやカメラマン、イラストレーターなどと打ち合わせをして仕事を割り振れる。そして、ネットで送られてきた記事とGoogleドライブに保存された写真やイラストを整理して、エディトリアルデザイナーに回せば、版下データの制作まで遠隔でできる。あとは号ごとの編集企画に注力し、自ら取材をこなして行けばいいだけ。「同僚の中にはそうしているものもいる」という。

 ただ、メディアとして存続させるには、発行部数やレスポンスをいかにあげるか。そして、安定した広告スポンサーを開拓、維持できるかだが、それが一番難しくなっている。編集コストは下げられても、広告出稿を増やすのは容易ではない。彼によると、「出版社に勤務していた当時からWebメディアにも注力しようとしたが、紙媒体ほど有料購読者を増やすことはできなかった」という。

 スマートフォンで無料で情報が得られる時代に、読者が有料のWebコンテンツにどこまで価値を見出すか。よほど金を出しても欲しい情報でない限りは難しいだろう。そこが紙の雑誌媒体がネット切り替えに二の足を踏む理由か。残るも地獄、進むも地獄。尚更、増えない広告や購読収入の中では、ライターやカメラマン、スタイリストなんかのギャラも減っていく。彼は「今の仕事で経営を勉強した後は、再び出版事業に携わることはない」と言い切った。


スマートストアで、店づくりの最適化



 今後の業界のあり方について、彼はどう思っているのか。「アパレルや外食は地域格差がますます広がっていくだろう」。「人口が減少している地域では、商業開発を行って新規出店したところで、ペイしない店舗が多くなっている」。だから、「デベロッパー側は頻繁にテナントを入れ替えていく。この傾向がさらに先鋭化していくと思う」とのこと。なるほどである。 JR九州が駅ビルを次々と開業しているが、テナントの売上げでは宮崎はともかく熊本、鹿児島中央西口は厳しいだろう。

 アパレルは欲しいものか、消耗品か、購入ケースは二分化している。お客がそこにしかない商品を求めるのなら、県外からでも来店する。だが、地方店ではそんな品揃えは難しく、お客がネットで購入すれば来店はしない。実店舗しかないレストランは、予約しても行きたいところは生き残れる。つまり、ありふれたNB、百貨店や商業ビルの2番店、外食含め紋切り型店は、市場縮小の地方では淘汰されていく。「回遊して」「スタッフとの会話」なんて、店舗運営を知らない素人の戯言に過ぎない。

 実店舗については、巣ごもり消費のようにニーズに合わせ臨機応変にMDを修正したところは、売上げの減少を抑えられた。反面、SPAのように一度に作って売り減らす業態は、コロナ禍による集客減で大量の在庫を抱えた。それでなくてもアパレルは売れにくい状況で、セールと売れ残りロスの二重苦にある。これから抜け出すには、ロットを少なくして短いサイクルで商品を作って回していくか。受注生産でなるべく在庫を持たないようにするか。生き残りの選択肢は限られてくる。

 そこで、彼は「リアル店舗はスマートストアの時代に入っていく。今は大型スーパーやディスカウントストアがカメラを使ってお客の動きや購買動向をリアルタイムでデータ化し、検証、分析して仕入れから販売まで効率化させようとしている。これが他の専門店にも導入されていくのではないか」と、今後の業界を想定した。

 確かにこれだけ動画の撮影が簡単にできるようなると、お客の入店から購買までを可視化できる。そのデータを分析して、売り上げを最大限にするための店づくりからレイアウト、MD、陳列やFO、VPまでの答えを出すところが出てきてもおかしくない。まさにデジタルトランスフォーメーション(DX)を活用した小売業だ。

 これまでのように「カッコいい」とか、「買いやすい」とか、アナログで抽象的な店ではない。お客の動きから購買動向までの変化を時系列で切り取った店舗づくりが不可欠になる。彼のように店舗開発の仕事をすれば、出店退店の状況を身近で感じられるから、どんな店が必要かが想像できるのだ。



 年頭所感を発表した経営者の中にはオンラインの強化とか、来店してのコミュニケーション作りとかの次元で止まっている方々が多い。しかし、コロナ禍の終息が全く見えない中では、もっとドラスティックな経営戦略の転換が必要になる。画期的なシステムやデジタル整備にもっと投資すべきだろう。潜在的なニーズやウォンツを掘り下げる商品開発も必須。総花的な戦略から一歩抜け出るところが令和3年を制するということだ。

 感染拡大を抑えながら経済も回していくという二律背反に適する政策などない。知恵を出してチャレンジするしか、この難局は乗り越えられないと思う。年末に彼と会話して、こちらも刺激をもらった。過去の実績や経験にしがみついていても、打開はできない。むしろ、自分の存在を見限られる前に見切る覚悟で進む。どこまでできるかはわからないが、いろいろとアイデアを巡らせてみたい。
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