HAKATA PARIS NEWYORK

いまのファッションを斬りまくる辛口コラム

再開発で行き場を失った百貨店。

2014-08-27 11:51:38 | Weblog
 先日、地方百貨店の窮状を書いた時、熊本地区の例を挙げた。その当事者の一つとも言える「県民百貨店」が来年2月で閉店することになった。

 同百貨店は1973年、熊本交通センターの核店舗として、福岡の岩田屋と東京の伊勢丹が共同で出資し、「岩田屋伊勢丹ショッピングセンター」として開業した。93年に百貨店に業態変更したが、伊勢丹が撤退したため「熊本岩田屋」として営業を続けた。

 しかし、02年に今度は岩田屋が本体の経営再建で撤退。地元企業が出資して設立された新会社、県民百貨店が阪神百貨店の支援のもと、「くまもと阪神」として再スタートを切った。05年1月期の決算では、対前期比0.6%増の売上高166.74億円、経常利益7300万円と黒字化を実現するまでにあった。

 ただ、郊外にはゆめタウンやイオンモールといったSCが開業し、広域から集客。ここ数年、周辺の辛島町、桜町の地盤沈下は激しく、メーンの買い物客は隣接するバスセンターの乗降客に限定されることで、 売上げは下降線を辿るばかりだった。

 大家の九州産業交通グループもモータリゼーションの影響で、バスや関連の事業が低迷し、03年には産業再生機構に支援を要請。05年、旅行会社のHIS-HSが再生機構から株式譲渡を受け、06年に「九州産業交通ホールディングス」として歩み出した。

 九州産業交通HDは多角化、収益改善、複合化などに取り組む上で、じり貧の交通事業に頼るわけにはいかず、手持ちの不動産を有効活用するのは当然のこと。これが交通センターの再開発事業というかたちで進む中、県民百貨店がそのまま出店するには、家賃や売場面積で折り合いがつかなかったということだ。

 代替用地は探したようだが、百貨店という事業構造から中心部を離れれば、経営は難しい。また新ビルに店舗を構えたところで、売上げが回復する保証もない。 結局、従業員ら900人の雇用は失われるかもしれないが、ずるずると留まって有利子負債を増加させるよりも賢明な選択ではなかったかと思う。

 ここまでは、地元メディアも報道している。ここからはこの一件に関わる百貨店、アパレルメーカー、周辺の専門店などファッション業界に関わる裏事情に触れてみよう。

 県民百貨店は当初、岩田屋や伊勢丹の資本が入ったいただけに、MDもその系列百貨店版で構成されていた。例えば、「カルバン・クライン」は、地方では伊勢丹系列の店舗に置かれていたから、熊本ではここでしか買えなかったと思う。

 バッグや靴、アクセサリーはもちろん、珍しく1階にスウィーツのコーナーがあり、それらのほとんどが伊勢丹に出店しているものと同じだったのだから、地方百貨店としてのロイヤリティは決して低くなかったはずである。

 くまもと阪神百貨店になると、九州で唯一「阪神タイガース」ショップが登場し、現在も営業を続けている。阪神ファンは全国に存在するわけで、熊本にも決して少なくない。しかもドラ一の岩貞祐太投手は熊本出身だから、グッズ販売にも力が入るというものだ。

 こうした事情から、取引するメーカーの評判は決して悪くはなかった。期間限定ながら「東急ハンズ」を競合する老舗T百貨店を出し抜いて出店できたのも、40年間に培った業界内部での信頼の賜物だと言われている。

 T百貨店より県民百貨店の方に出店したいとの話は、筆者周辺のアパレル関係者からも何度か聞かれた。パターンが秀逸なミセスブランドがリーシングされているのを見ても、メーカーがインショップを出したり、コーナー展開したい理由は想像がつく。

 むしろ、T百貨店の方がメーカーの評判は前々から芳しくなかった。だいぶ前に電車通りを挟んで前にある熊本日日新聞本社ビルとT百貨店本館の東隣のビルを含め、舗道整備などを行う再開発事業が行政主導で行われた。

 新聞社の再開発ビルには、T百貨店運営の「NEW-S」という専門店街ができ、シップスやスピック&スパン、ユナイテッドアローズGLRのセレクトショップ、セオリーやマウジーといった若者向けの人気のブランドが出店した。

 まるで行政がT百貨店を支援したかのように映るが、本館東隣のビルには高級海外ブランドが入るだけで、今も好調とは言い難い。本館自体も再開発を起爆剤にできずに苦戦を強いられているのだから、メーカーの評判が上がるはずはないのである。

 一方、県民百貨店が店舗を構える熊本交通センターは、地下通路で産業文化会館、新市街アーケードとつながっており、この地下にも物販テナントが数多く出店していた。マンションメーカーにいた頃、一度、熊本出張したことがあるが、取引先からもこの地下にある専門店の好調ぶりを聞いた記憶がある。

 その話はワールドにいた友人も話していた。交通センター地下のある専門店と「ルイ・シャンタン」のFCを契約。店名も「シャンタン◯◯」で出店していたそうだが、一時期はかなりのお得意さんをもって、売ってくれていたという。

 熊本には「リザ」も出店していたらしいが、坪売上げは比べ物にならなかったというから、専門店のパワーは恐るべしだ。

 確かにうちのメーカーの商品も、下通の専門店が扱ってくれていた。ルイ・シャンタンとテイストは異なるが、専門店系アパレルの上質な商品を見きわめる目を専門店が持っていた点は共通する。これは地方都市では、熊本が秀でていたように思う。

 ただ、そうした個性的な専門店もバブル景気がはじけると、次第に勢いを失っていった。有名メーカーのFCなんかもSPA化で契約が解かれ、業態転換を余儀なくされた。おそらく、 シャンタン◯◯もこの時期に退店したのではないだろうか。

 つまり、顧客を持っていた地下街の個店ですら厳しくなったのだから、百貨店がいくら暖簾と集客力をもつとはいえ、売上げの減少で次第に経営体力を失っていったのは当然だ。ここまでよく持ったというか、よく持たせたということである。




 再開発ビルについては先頃、パースが発表された。緩やかなスロープで囲まれたユニークな設計で、ウィンドウショッピングをしながら階上に上がれるという動線になっている。構造は多数のテナントを配した商業施設とホテル、交通センターの一体型だ。
 
 ただ、九州産業交通HDは、高度なデベロッパーノウハウは持ち得ていない。だから、テナントリーシング、運営を含めてどこかに委託するかもしれない。そこがどれほどの手腕をもつにしても、トレンドの移り変わりを考えると、テナントの顔ぶれはだいたい想像がつく。

 カフェやスウィーツ、雑貨がメーンで、これに九州初、熊本初などの冠が付くだけ。ファッションにしても既存店と名前は違うが、大半はテイストが被るのではないか。東京のように尖ったブランドが出店するとは考えにくいし、ビル側もそれほど冒険はできないだろう。

 そもそも、再開発ビルを建設する場合は、初期投資の建設コストはイニシャルコストに加え、テナント保証金に按分して回収するのが一般的だ。運営管理費や販促費は各テナントからの歩率家賃で賄えるし、売上げの上がらないテナントは入れ替えればいいだけである。

 ただ、有名セレクトショップはNEW-S館に出店しているし、市場規模から言えばこれらの2店体制は考えにくい。熊本未出店のセレクトもほとんどがネット通販を充実させているから、店舗展開の必要性をビル側が提案できない限り、出店要請には説得力を欠く。

 地元の個人専門店を集めるにしても、これらの経営者はシャワー通り、並木坂などの路面店、路地裏を好むし、個店レベルで数千万円もの投資をしてまで再開発ビルに入るメリットはない。

 というより、カフェやスウィーツ、雑貨がマーケットの牽引役になっている今、新ビルのコンセプトとマーケット事情に見合うファッションブランドを探し出し、商業施設を運営するのは難しいのではないか。それは関西のJR西日本伊勢丹、近鉄のあべのハルカスを見れば、火を見るより明らかだ。
 
 あとはキャリアやセレブミセスを対象とする全国ブランドだが、マーケット事情を考えるとデベロッパー側はこちらにも二の足を踏むかもしれない。県民百貨店が出店できないのは、T百貨店のブランドで満足いかないお客にとっては、歯がゆい思いだろう。

 尤も、百貨店の損益分岐点で、新規開発のビルに出店するのは容易ではない。だから、県民百貨店が経営破綻を迎えること無く、清算に舵を切ったのがせめてもの救いである。

 再開発事業の名の下に、行き場を失う地方百貨店が現れる現実。これも時代の趨勢だから、仕方がないことなのだろうが。
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地域専門店は終焉を迎えるのか。

2014-08-19 13:04:07 | Weblog
 お盆休みを挟んで1週間、夏休みをとった。それが終わりに近づいた8月15日、かつて高級ブティックと呼ばれた「レディス専門店」を経営する叔父貴が亡くなった。

 戦争中に宮崎の航空兵学校に入学し、戦後、20代の若さで専門店を創業した。兄弟が呉服や寝具の商売をしていた影響もあって独立願望が強く、これからは「ファッションの時代が来る」という読みもあったと思う。

 ただ、最初は衣料品が揃わず、インポートを仕入れるにも外貨の持ち出し制限があり、止む終えず毛糸を売っていた時期もあった。その後、高度成長と共に専門店系アパレルが企画した商品を仕入れ、商店街に店を構える高級レディス専門店として、成長軌道に乗った。

 東京、大阪、神戸と仕入れに出かけ、福岡に営業所があるメーカーに来たときは、叔父貴と同行した叔母がよくうちに寄ってくれた。

 イトキンの福岡営業所が博多区の奈良屋町にあった時のことだ。展示会では商品の卸値やデザインの修正、別注などについて深夜まで、担当営業と喧々囂々のやり取りをして、つい最終列車を乗り逃がしてしまい、うちに泊まることもあった。

 朝起きると、叔父貴、叔母が布団に寝ていて、親父とお袋が起きて朝の支度をしていたのは驚いた。言い換えれば、それほど専門店の経営に情熱を注いでいたということだ。

 それはリスクを踏んで商品を仕入れ、一生懸命売り切ることである。また、顧客を育てていく中では、「掛け売り」することもあったと思う。それでも、叔父貴は自店は損しても、メーカーには必ず取り決め通りに支払う責任感を失わなかったと聞く。

 専門店の中には、メーカーが集金に行くと、露骨にレジの中を見せて、「今、お金が無いのよ」と、開き直る経営者もいる。バブル景気が崩壊すると特に酷くなっていった。それがアパレル側の卸先選別やSPA化を促した。

 ビームスやユナイテッドアローズはインポートを軸に自主編集を進め、セレクトショップという新たな業態とブランド力を確立した。しかし、地域の専門店の中には仕入れ先を失い、経営に行き詰まるところも少なくなかった。

 それでもアパレルと共存共栄でやっていく専門店は存在する。今では有名セレクトショップでさえ中間業者が介在し、「バイヤー」なんて職種が名ばかりになる中、叔父貴は強い販売力を背景にバイヤーを育て、頑に暖簾を守り続けてきた。

 しかし、時代の変化は有無を言わせず、地域専門店にのしかかっている。多くが顧客の高齢化でMDをスライドさせ、ますますばあさん臭い店になっている。一方、若返りを図って、新しい市場開拓に挑んでも、競争激化ですぐに顧客はつかない。

 さらに専門店を取り巻く環境も、大店法の改正、郊外型SCの乱立、価格デフレ、Eコマースの普及と激変した。叔父貴の店がある商店街も、経営体力がないところは次々と閉店し、シャッター通りと化している。

 それを何とかしようと、後継ぎとして渦中に飛び込んだのが、叔父貴の長男である従兄だ。大学卒業後にアパレルメーカーのローマ岩島に勤務していたが、親の背中を見て育っただけにその卓越した営業センスには、内外の評価も高かった。

 メーカーを辞めて、店長修業をしている頃、業界誌チャネラーの「地域専門店の新時代戦略」で取材をした。叔父貴が会長職に退き、社長に就任すると、今度はファッション販売の「地域一番店・有力店の反撃策を探る」にも登場してもらった。

 お客はいくつになってもきれいで若々しく、スッキリ見えたいと思っている。従兄がとった戦略はお客が高齢化したからこそ、きれいに若く見せる工夫が必要で、そのための商品とスタイリング提案だった。

 2年の歳月をかけてじっくりコンセプトを詰め、50代から20代までに対応するブランド編集を具現化した。顧客の感度を刺激する商品を品揃えに落とし込しこみ、需要を若いエージにまで広げて掘り起こすというもの。これで見事に新規顧客を捉えた。



 また、商店街の活性化政策では、仲間の商店主らと“お笑い劇団”を旗揚げし、空き店舗での公演活動からイベントまで積極的に行っていた。

 しかし、店の経営と商店街の活性化で辣腕を振るっていた矢先、従兄はガンでこの世を去った。店にとっても、商店街にとっても大黒柱を失った。叔父貴も叔母も相当辛かったと思うが、そんな素振りは少しも見せなかった。

 そして、コロネット商会に勤務していた筆者と同じ歳の弟がその代役を買って出た。経営が傾き伊藤忠の元で再生を図っていた同社とは言え、弟にすれば東京での楽なサラリーマン暮らしを捨てるのは、本意ではなかったと思う。

 家族を残しての単身赴任だったが、子供二人の就職にも目処がたち、父親である叔父貴の死去によって、「これからは自分がやる」との踏ん切りもついたと思う。義理の姉である従兄の妻も文化服装学院出で、ファッション業界の知識は豊富である。その下には三人の息子がいて、三男は三共生興で目下、営業について勉強中の身だ。

 三陽商会がバーバリーとのライセンス契約終了で、「ダックスには追い風じゃん」との話を振ると、「この1年が勝負です」と頼もしい答えが返ってきた。
 
 地域専門店が厳しい環境にある中、高齢の叔母も家族が力を合わせれば、「これからも何とかやっていける」と、手応えを感じたに違いない。

 だらだらと私事を書いてきたが、似たようなことは多くの地域専門店が抱えている。経営者が代わった途端にうまくいかず、倒産に追い込まれる店もあれば、後継ぎがいなくて経営権を手放す店もある。だから、あえてコラムにした。

 これから地域で専門店の暖簾を守るのは容易ではない。しかし、いくら時代が進化しようと、お客は店でしかファッションを手に取って見ることはできない。オンラインが普及すればするほど、オフラインへの揺り戻しは強いとのデータもある。

 「地域専門店の灯を消してはいけいない」という気概が、日本のファッション産業を下支えすることも、決して忘れてはならない。
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別注スニーカーはファッションか、効率か。

2014-08-06 13:02:48 | Weblog
 先日、セレクトショップのビームスから、リーボックのスニーカー「インスタポンプフューリー」の別注モデルが発売された。

 エアでシューズのフィット感が調整できるハイテクシューズで、アッパーパーツの幾何学的な組み合わせがデザイン性を際立たせ、かつてはスニーカーファンやコレクター垂涎のアイテムとなったと記憶している。

 インスタポンプフューリーはカラフルな色使いが特長だ。でも、今回のモデルは初期型をベースにしたもので、パーツの色を黒やグレー、白といったモノトーンで統一。しかも、左足と右足の配色を変えるアシメトリーカラーという凝った仕様になっている。

 販売は数量限定で、関東と関西の一部の店舗に限られ、8月5日時点ですべて完売。量販チェーンなどでは見かけないデザインなので、ビームスの顧客だけでなくスニーカーファンにとっても、待望の逸品となったようである。



 時を同じくして、ユナイテッドアローズ(UA)も、8月8日に「ニューバランスの別注スニーカー」を発売するという。

 こちらはUAと別業態のビューティ&ユース ユナイテッドアローズがUA創業25周年を記念して「おめでとう」の意味を込め、ゴールドとシルバーの2種類を企画している。

 タイプはM1400をベースに、カラリングも思ったほど奇抜には見えない。ニューバランス自体がランニングシューズの基本型のようなものだから、UAがポリシーとするアメカジテイストから大きく外れない仕上がりに落ち着くのは、当然と言えば当然だ。

 当方はずっとアディダス派なので履いたことはないが、友人の話では「履きやすいので、永年愛用している」「タウンより遠出に適している」という。

 そう言えば、地元セレクトショップのバイヤーも履いていらっしゃった。一度の仕入れで海外を何ヵ国も回るから、疲れないニューバランスが重宝するのかも。そこにUAのブランド力と販路が加わるわけだから、この別注スニーカーもそこそこ売れるだろう。

 そこで、別注スニーカーについて、考えてみることにする。

 アパレル業界で「別注」は、基本パターンはそのままで、色や素材で企画外のものを生産するときに使う。展示会なんかで、この商品は「別注にも対応しますよ」と、バイヤーに何度も言ったし、営業から何度も聞いたことがある。

 バイイングパワーをもつ専門店チェーンになると、別注商品のタグをその店のブランド名に替え、PB化されることもある。

 さて、スニーカーの別注も、スポーツメーカーなどの市販品や定番を、ブランドメーカーやセレクトショップが自社企画としてアレンジするケースがほとんどだ。

 今から十数年前の裏原ブームのときは、有名メーカーの別注スニーカーも登場した。当時は、別注と言う業界用語は使われず、「ダブルネーム」という呼び方をされていた。

 この時、爆発的なヒットを飛ばしたダブルネームが「アベイジングエイプ」だろう。アディダスのハイカットなどをベースに、キャラクターのサルやカモフラージュ柄で、別注をかけたものだ。

 限定品とされたことで、若者の間では大人気を博し、発売時にはショップ前に長蛇の列ができ、ネットオークションでは価格が10倍にも跳ね上がるレア価値まで生んだ。

 他にも、コムデ・ギャルソンはナイキとの間で、定番コルテッツのカラフルなタイプを企画したし、ジル・サンダーもプーマモデルを使った高級レザースニーカーを発売した。

 こう考えると、別注スニーカーはスポーツメーカーが持つ「木型」による市販品を使って色や素材のみを替え、デザイナーやセレクトショップのブランド価値をつけ、「荒利益を稼げる」効率のいい企画アイテムということもできる。

 ちなみに価格は、ビームスのリーボック・インスタポンプフューリーが19,224円(税込)、UAのニューバランス1400(ゴールド)が19,980円(税込)、966(シルバー)が14,040円となっている。

 UAが発売するニューバランスは、オリジナルのM1400が20,000円以上するところを考えると、かなりリーズナブルだ。25周年のご祝儀価格の意味もこもっているのか、今回の企画ではそれほど利益は出ないと思われる。

 スニーカーの場合、履きやすさも購入の条件に入るから、そのノウハウをもつスポーツメーカーの木型を使った方が売れる可能性は高い。そうは言いつつも、ブランドメーカーはオリジナリティを、セレクトショップは品揃えの差別化を出したい。

 そこで、そうした商品企画やMDの妥協点を見いだしながら、かつ最大利益を上げられるのが、「別注スニーカー」ということだろう。ファッションと言えばそうだし、経営上の効率追求と言えば、これも間違いではない。

 筆者は別注スニーカーはこれまで1足も買ったことがない。スポーツジムでは専用の上履き、ランニングでも季節ごとに履き替えているが、すべてアディダスの市販品だ。



 最近では、アディダスが米国向けのランニングシューズで、「自分仕様」を発売している。日本でも一部のスニーカーで採用されているのと同じ手法で、トップからソールまでほとんどのパーツの色が変えられるものだ。

 これなら、自分オリジナルに近くなるし、ウエアとのコーディネートはもちろん、シューズそのものの存在感も主張できる。この秋はぜひ、これを履いて大濠公園でランニングをしようと考えている。

 もちろん、オリジナルも気になる。木型やデザイン料が載っているため、価格はずば抜けて高い。でも、Y-3のデザインものなんかは、モード感いっぱいで、こちらはこちらで履いてみたい。



 メディアがいくらファッションとして取り上げようが、どこかで効率追求があるように思えてならない別注スニーカー。そのマーケットから、筆者は外れているようである。 
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