福岡天神のランドマーク、旧岩田屋跡にパルコがオープンして4年。西側の旧新館は解体され、この秋にパルコの新館がオープンする。
この地は博多生まれの筆者にとって、自分史のエポックと言える場所だ。たぶん、昭和40年の夏だったと思う。筆者はここで近所に住む友達と遊んでいた。当時、ここは岩田屋に出入りする業者向けの駐車スペースだった。それは辛うじてかすかな記憶がある。
ところが、二人とも上半身は裸だった。 最初は自宅の前でランニング姿で遊んでいたが、それから那珂川の土手近くに移り、中州を通って天神まで行ってしまったようだ。途中、玉屋百貨店でプロモーション用の帽子をもらい、夕立にあって濡れたランニングは脱ぎ捨てていた。
幼稚園児くらいの子供二人が岩田屋の駐車場で、上半身には何も着ず遊んでいる。昭和40年の夏とは言え、天神のど真ん中では見慣れた光景とは言えない。誰かが岩田屋に通報したのだろう。担当者がやってきて、声をかけてきた。
担当者 「キミたち、お名前は」
友人 「◯◯◯◯」 筆者 「◯◯◯◯」
担当者 「どこに住んでいるの」
友人 「妙楽寺」 筆者 「◯◯ビル」
担当者 「◯◯ビルって、◯◯さんが勤める会社のビルかも」
友人「…」 筆者「そう」
おそらく、そんな会話だったと思う。自分たちですすんで岩田屋まで行ったのだから、迷子ではない。でも、上半身裸の幼稚園児が自社の敷地内で遊んでいるのを見ると、百貨店として見過ごすわけにはいかなかったはずだ。
幸いなことに「◯◯ビル」は、声をかけた担当者にとって、大学時代の友人が勤めていた会社の所有だったのだ。すぐにその会社に連絡が取られ、私や友達の家族に岩田屋駐車場でわれわれが「保護」されたという話が伝わった。
そして、この担当者はタクシーを呼び、私たち二人を乗せて自宅まで送り届けてくれた。ノー天気な幼稚園児は恥じらいどころかヒーロー気分で、自宅前で待つ家族の出迎えを受けたのだ。この担当者とは当時、岩田屋の副社長していた故・中牟田栄蔵氏である。
その後、旧新館が建設されると、応接ルームで開かれた子供会のクリスマスパーティに招待されたこともある。子供向けのフルコース料理とプレゼントが用意され、プロのマジシャンによる手品を身近で見た記憶は今でも鮮明だ。それほど、博多っ子の筆者にとっては、想い出の多い場所だったのである。
1999年には経営危機に陥った岩田屋の土地を都筑学園グループが買収。旧本館はそのまま空き店舗になり、旧新館には同グループの専門学校やテナントが入居した。そんな旧新館が旧本館より先に無くなったのは、何となく寂しい気がする。
では、本題に入るとしよう。パルコが岩田屋旧新館跡地に新館を開業することで、テナント出店依頼が業界各社に寄せられている。中央のDCブランド、SPA、セレクトショップに加え、地元にもオファーがあったと聞く。
先日、地元ファッション専門店の社長と話す機会があった。ここはこれまで数々の「新業態」を作り上げてきた実績をもつ。どれも時代の先を行く提案型ショップだったが、トレンドや市場の変化でスクラップ&ビルドしたものも少なくない。
ファッション音痴のローカルメディアは、必ず新しい商業施設ができると、「九州初上陸」だの、「福岡初進出」だのと、ブランドを紹介したがる。でも、地元有力専門店にも出店要請はあっている。しかも、大手との競争に打ち勝ち、地道に顧客を作っているところもあるのだ。
同社もその一つで、天神にはトレンドを追う業態やインポート&別注のセレクトショップを展開し、きちんと顧客を捉まえている。
この社長はパルコ新館の開業に合わせ、社内のバイヤー陣に対し、「パルコの中で20歳前後をターゲットに存在感のある店を仕掛けてはどうか」と指示したという。ところが、スタッフの中から手を挙げるものはいなかったそうだ。
パルコ側からそうしたオファーがあったのかどうかはわからない。しかし、パルコだって20歳前後を狙う業態はほしいはずだ。天神の他館にそうしたDCやセレクトの「ハコ」があれば、オファーを出しても出店できないケースが多い。
ただ、自主編集の小売り専門店なら、ブランド単体がバッティングしても、出店は可能だ。パルコはソラリアステージからもフロアを借り切るようで、新館を合わせると相当数のテナントを集めなければならない。それを中央からのDCやセレクトだけで埋めるのは至難の業だ。だから、地元の有力企業にもオファーを出すことは、当然ありうるケースと思われる。
では、なぜ、バイヤー陣は手を挙げなかったのか。それは20歳前後をターゲットする業態がいちばん定着させるのが難しいからだ。なぜなら、お客さんは20歳前後でも、バイヤーはそれより年上。だから、MDや店づくりは20歳前後の子たちに合わせなければならない。
ところが、その子たちも1年経ち、2年経つと感覚はパッと変わり、新しい20歳には新たなトレンドが好まれる。逆に24~25歳のヤングアダルトになると、もうトレンドには流されなくなる。おまけにバイヤーはもっと歳を取るのだから、20歳の感覚がなおさらわからなくなるのだ。
それなら、ショップごと作り変えればいいと思うが、専門店側は内装費や敷金といった相当な初期投資をした以上、それを回収しなければならない。それが1年でできるのか、2年でできるのか。そのうちにヤングトレンドは変わり、また店ごと作り替えることになると、さらなる投資負担となる。
小売り専門店である以上、新業態を軌道に乗せ、2店、3店と継続展開することが不可欠だ。それで収益がアップする。ところが、ゼロから作り替えるとなると、バイヤーも販売スタッフも入れ替えなければならない。業態を客観的にディレクションできるベテランMDもいる。でも、人はすぐに育たないし、店もブランドも容易には定着しないのだ。
でも、デベロッパーはいとも簡単に「20歳前後をターゲットにする」と言う。売れなければ、テナントを入れ替えればいいからだ。メディアもそこには突っ込みもせず平気で報道する。ファッション音痴だからしょうがない面もあるが、もう少し勉強してもいいはずだ。
もっとも、その業態を時間をかけて開発すればするほど、その間にトレンドは変わり、ターゲットの感性もパッと変化してしまう。それほど、ヤング狙いの新業態を開発するのは、難しいのである。
もし、20歳前後を狙う業態の開発スタッフを育てるとすれば、それは中学生からファッション教育を施して実践を学ばせ、高校卒業後にブランドや店づくりの準備に携わらせ、トレンドを仕掛けさせていくしかないだろう。もちろん、それをディレクトするMDの存在があってのことだ。
18歳で専門学校に入学し、20歳でアパレル業界に入ったとしても、デザインや仕入れの一人前になるのは早くて24~25歳。その時に20歳前後の業態をしかけるには、もう手遅れなのである。少なくともパルコのような知名度のあるビルインでは。
この地は博多生まれの筆者にとって、自分史のエポックと言える場所だ。たぶん、昭和40年の夏だったと思う。筆者はここで近所に住む友達と遊んでいた。当時、ここは岩田屋に出入りする業者向けの駐車スペースだった。それは辛うじてかすかな記憶がある。
ところが、二人とも上半身は裸だった。 最初は自宅の前でランニング姿で遊んでいたが、それから那珂川の土手近くに移り、中州を通って天神まで行ってしまったようだ。途中、玉屋百貨店でプロモーション用の帽子をもらい、夕立にあって濡れたランニングは脱ぎ捨てていた。
幼稚園児くらいの子供二人が岩田屋の駐車場で、上半身には何も着ず遊んでいる。昭和40年の夏とは言え、天神のど真ん中では見慣れた光景とは言えない。誰かが岩田屋に通報したのだろう。担当者がやってきて、声をかけてきた。
担当者 「キミたち、お名前は」
友人 「◯◯◯◯」 筆者 「◯◯◯◯」
担当者 「どこに住んでいるの」
友人 「妙楽寺」 筆者 「◯◯ビル」
担当者 「◯◯ビルって、◯◯さんが勤める会社のビルかも」
友人「…」 筆者「そう」
おそらく、そんな会話だったと思う。自分たちですすんで岩田屋まで行ったのだから、迷子ではない。でも、上半身裸の幼稚園児が自社の敷地内で遊んでいるのを見ると、百貨店として見過ごすわけにはいかなかったはずだ。
幸いなことに「◯◯ビル」は、声をかけた担当者にとって、大学時代の友人が勤めていた会社の所有だったのだ。すぐにその会社に連絡が取られ、私や友達の家族に岩田屋駐車場でわれわれが「保護」されたという話が伝わった。
そして、この担当者はタクシーを呼び、私たち二人を乗せて自宅まで送り届けてくれた。ノー天気な幼稚園児は恥じらいどころかヒーロー気分で、自宅前で待つ家族の出迎えを受けたのだ。この担当者とは当時、岩田屋の副社長していた故・中牟田栄蔵氏である。
その後、旧新館が建設されると、応接ルームで開かれた子供会のクリスマスパーティに招待されたこともある。子供向けのフルコース料理とプレゼントが用意され、プロのマジシャンによる手品を身近で見た記憶は今でも鮮明だ。それほど、博多っ子の筆者にとっては、想い出の多い場所だったのである。
1999年には経営危機に陥った岩田屋の土地を都筑学園グループが買収。旧本館はそのまま空き店舗になり、旧新館には同グループの専門学校やテナントが入居した。そんな旧新館が旧本館より先に無くなったのは、何となく寂しい気がする。
では、本題に入るとしよう。パルコが岩田屋旧新館跡地に新館を開業することで、テナント出店依頼が業界各社に寄せられている。中央のDCブランド、SPA、セレクトショップに加え、地元にもオファーがあったと聞く。
先日、地元ファッション専門店の社長と話す機会があった。ここはこれまで数々の「新業態」を作り上げてきた実績をもつ。どれも時代の先を行く提案型ショップだったが、トレンドや市場の変化でスクラップ&ビルドしたものも少なくない。
ファッション音痴のローカルメディアは、必ず新しい商業施設ができると、「九州初上陸」だの、「福岡初進出」だのと、ブランドを紹介したがる。でも、地元有力専門店にも出店要請はあっている。しかも、大手との競争に打ち勝ち、地道に顧客を作っているところもあるのだ。
同社もその一つで、天神にはトレンドを追う業態やインポート&別注のセレクトショップを展開し、きちんと顧客を捉まえている。
この社長はパルコ新館の開業に合わせ、社内のバイヤー陣に対し、「パルコの中で20歳前後をターゲットに存在感のある店を仕掛けてはどうか」と指示したという。ところが、スタッフの中から手を挙げるものはいなかったそうだ。
パルコ側からそうしたオファーがあったのかどうかはわからない。しかし、パルコだって20歳前後を狙う業態はほしいはずだ。天神の他館にそうしたDCやセレクトの「ハコ」があれば、オファーを出しても出店できないケースが多い。
ただ、自主編集の小売り専門店なら、ブランド単体がバッティングしても、出店は可能だ。パルコはソラリアステージからもフロアを借り切るようで、新館を合わせると相当数のテナントを集めなければならない。それを中央からのDCやセレクトだけで埋めるのは至難の業だ。だから、地元の有力企業にもオファーを出すことは、当然ありうるケースと思われる。
では、なぜ、バイヤー陣は手を挙げなかったのか。それは20歳前後をターゲットする業態がいちばん定着させるのが難しいからだ。なぜなら、お客さんは20歳前後でも、バイヤーはそれより年上。だから、MDや店づくりは20歳前後の子たちに合わせなければならない。
ところが、その子たちも1年経ち、2年経つと感覚はパッと変わり、新しい20歳には新たなトレンドが好まれる。逆に24~25歳のヤングアダルトになると、もうトレンドには流されなくなる。おまけにバイヤーはもっと歳を取るのだから、20歳の感覚がなおさらわからなくなるのだ。
それなら、ショップごと作り変えればいいと思うが、専門店側は内装費や敷金といった相当な初期投資をした以上、それを回収しなければならない。それが1年でできるのか、2年でできるのか。そのうちにヤングトレンドは変わり、また店ごと作り替えることになると、さらなる投資負担となる。
小売り専門店である以上、新業態を軌道に乗せ、2店、3店と継続展開することが不可欠だ。それで収益がアップする。ところが、ゼロから作り替えるとなると、バイヤーも販売スタッフも入れ替えなければならない。業態を客観的にディレクションできるベテランMDもいる。でも、人はすぐに育たないし、店もブランドも容易には定着しないのだ。
でも、デベロッパーはいとも簡単に「20歳前後をターゲットにする」と言う。売れなければ、テナントを入れ替えればいいからだ。メディアもそこには突っ込みもせず平気で報道する。ファッション音痴だからしょうがない面もあるが、もう少し勉強してもいいはずだ。
もっとも、その業態を時間をかけて開発すればするほど、その間にトレンドは変わり、ターゲットの感性もパッと変化してしまう。それほど、ヤング狙いの新業態を開発するのは、難しいのである。
もし、20歳前後を狙う業態の開発スタッフを育てるとすれば、それは中学生からファッション教育を施して実践を学ばせ、高校卒業後にブランドや店づくりの準備に携わらせ、トレンドを仕掛けさせていくしかないだろう。もちろん、それをディレクトするMDの存在があってのことだ。
18歳で専門学校に入学し、20歳でアパレル業界に入ったとしても、デザインや仕入れの一人前になるのは早くて24~25歳。その時に20歳前後の業態をしかけるには、もう手遅れなのである。少なくともパルコのような知名度のあるビルインでは。