The FLAGイシュー(http://theflag.jp/blog/16)のテーマ、今回は「工場は地方と都会どっちが有利?」について。
筆者は九州は博多の生まれである。昭和30年代、地元の高級ブティックにはオートクチュール部門があり、母親を含め多くの縫子さんたちが働いていた。
昭和40年ぐらいになって既成服の時代に入ると、クラスメートの親が経営する専門店では国産はもちろん、イタリア製などのインポートを目にするようになった。
高校生の頃は原宿ファッション全盛期だ。日曜の早朝、表参道で雑誌の撮影隊に遭遇したことがあるが、原宿界隈にアパレルメーカーが集中していたとは全く知らなかった。
大学時代のアルバイトがきっかけで入ったアパレルの世界で、初めてメーカーは企画と営業のみを行う卸売業で、後の工程はすべて外注していることを知った。
この頃から青山から原宿、千駄ヶ谷の裏通りには小規模なアパレルが集まり、自分たちでデザインやパターンを起こしては、海外などから買い付けた生地をつけて、埼玉や千葉の工場へ送っていた。
すると、早くて数週間、遅くても2ヵ月くらいで、次々とブランドタグが付いた商品となって送り返されてきた。それがマンションアパレルと言われる小規模メーカーだ。
原宿や青山といった都会はデザイナーを夢見る若者、ファッション業界に野望を抱く人間が集まりやすかった。だから、アパレルの工場もそうした情報発信から営業、小売りまでがスムーズに行く大消費地の近くにあった方が良かったのだ。
DCブランドの雄、ビギは宮崎や長野に自社工場を持っていたが、それは大楠祐二代表の経営上の都合だったと思う。多くのアパレルはコスト重視なんて微塵も考えていなかったから、オフィスからそれほど離れていない工場の方が使いやすかったはずだ。
ところが、DCブームが去り、バブルが崩壊して高額品が売れなくなると、アパレルはできる限り荒利益を取るために製造原価を圧縮した。その結果、素資材の調達から縫製までがコストの安いアジアに切り替わっていった。
それから20数年、マーケットが成熟する中で、価格にさほど関係なくグローバル調達は当たり前になっている。デリバリーも良くなり、工場が遠方の海外にあるデメリットはほとんど無いと言っていい。
だが、今度はアベノミクスにより円安に揺り戻したせいか、国内生産に戻る傾向になっている。それが「メイドインジャパン」としてクローズアップされ、再び国内工場にスポットが当たってきている。
その立地が大消費地に近い都会がいいのか、海外生産でも問題なかったから地方でもいいのか。どちらが有利かの議論は、博多と東京の両方のアパレル事情を知っている筆者とすれば、あまりピンとこない。
大手アパレルだろうと、マンションアパレルだろうと、企画営業・卸という事業構造は昔も今もそれほど大きくは変わらない。
しかも、SPA(製造小売り業)の一般化、加えてAMS(企画生産機能を持ったアパレル生産受注生産)事業者の登場で、汎用性の高い商品ほどお洒落、安い、早いの条件が必須となっている。
いくら「ファスト」が販売のカギと言っても、今日企画した商品を明日には店頭に並べなければならないほどのスピードが必要かと言えば、それは否である。
これらの業者はコスト高の国内工場を良しとはしていないし、何より最終商品を判断する消費者が国内産にそれほど固執しているとは思えない。
そこそこの商品が手頃な価格で手に入ることを前提とすれば、製造原価の圧縮はもとより、素資材、縫製以外の物流コストまで含めて議論されることになるだろう。
これら諸々の理由を加味した中で、あえて国内生産を前提とした場合でも、工場は地方か、都会かと言えば、用地の賃料や人件費が安く、経営がローコストでできる地方の方がいいのかもしれない。
縫製スタッフなどの労働力についても、主婦パートが大人の意識で技術習得を行いながら、作業に当たれる人々は地方でも確保できる。なおさら、雇用創出ということで自治体も政策に掲げているし、経営上でも追い風になるのかもしれない。
言い換えれば、地方の工場が都会のアパレルから仕事をもらうには、要求に応えられるだけの力を備えておかなければならない。当然、物流費などのコストも負うことになるから、それまで吸収できる事業構造でないと仕事を受けられない。
一方で、都会にあるメリットは何だろうか。東京に本拠地を置くアパレルメーカーにとってそれは、コストをかけでも商品を自社開発する場合ではないだろうか。
デザイナーやパタンナーの雇用はもちろん、仕様開発や生産管理も自社で行い、一貫して企画しようとするなら、担当者がインダストリアル・スペックを詰めるために工場まで出かけることが不可欠だ。そうしなければ思うような商品は生まれない。
とすれば、東京から離れた地方より、近場にある工場の方が行きやすい。筆者が企画担当者なら工場に泊まり込んでもそうするだろうから、なおさら都会にあった方がいい。
話は少しズレるが、東京台東区の浅草や御徒町界隈には、かつては下請けのもの作りの地として、工場が集中していた。
プレスプロモーションを仕事をしているときは、何度か御徒町にあったメーカーの仕事をしたし、浅草生まれで機械工場の娘だった従兄の嫁さんもからもよく話しを聞いた。
しかし、台東区は都市部にありながら人口は戦前の3分の1に減少した。区としては街の活性化を産地のデザイン力強化や創業者育成を通して行おうと、平成16年から「台東デザイナーズビレッジ」事業をスタートしている。
カネボウでマーケティングに携わっていた(株)ソーシャルデザイン研究所の代表取締役、鈴木淳さんが村長として、廃校の小学校を貸しスペースにファッションや雑貨のクリエーターたちの創業支援に携わっている。
しばらくは単なるローコストの場所借りなどの課題が噴出していたが、4年目くらいからはファッション、皮革、ジュエリーなどの組織や産地との連携が進み始めた。これが成し得たのも、お膝元が工場の街でモノづくりの土壌があったからだ。
事業スタートから今年で10年を経過し、街にはクリエーターたちが拠点を構え、発信し、人を集め、新しいモノづくりの街に変えようとしている。
モノづくり系企業と店舗が一体となるイベント「モノマチ」は、地元の飲食店や活動するクリエーターを合わせて400組が参加するまでの規模にまで成長している。
9月にお会いした時、鈴木村長は「クリエーターや工場の職人さんがモノマチ開催によって、業種を超えたネットワークを生み出し、地元に貢献したい人や企業の発掘、地域内でのビジネスチャンスや企業連携が増えました」と仰っていた。
つまり、大消費地の東京の中に「もの作りの拠点」=工場があれば、クリエーターたちは営業活動で気づかされるマーケットニーズをすばやく創作から生産までにフィードバックできる。それだけレスポンスの良い商品供給にもつながるというわけだ。
やはり、「創る人間」と「作る職人」が一体であるからこそ、素晴らしいクリエーションが生まれるのである。これは地方に住む筆者は如実に感じている。
デザビレ事業は緒に就いたばかりだが、工場が都会にあれば都会にアトリエをもつクリエーターにとっても安心して仕事ができるだろう。
工場は地方と都会のどちらが有利かは、アパレルやクリエーターがそれに求める条件よって違ってくると思う。
筆者が仕事をした90年代半ばのニューヨークでも、ハドソン川を渡った対岸のニュージャージーのシコーカスには、高級ブランドを製造するファクトリー群があった。
マンハッタンから車で15分もかからない距離だ。まさに都会の隣に工場があるという感覚だった。しかもそこには製造上で発生するB級品を販売するアウトレットまで付随していたのである。
それぞれの工場が地方、都会にあることで自社のメリットを明確に伝え、立ち位置をハッキリさせることが重要になると思う。
筆者は九州は博多の生まれである。昭和30年代、地元の高級ブティックにはオートクチュール部門があり、母親を含め多くの縫子さんたちが働いていた。
昭和40年ぐらいになって既成服の時代に入ると、クラスメートの親が経営する専門店では国産はもちろん、イタリア製などのインポートを目にするようになった。
高校生の頃は原宿ファッション全盛期だ。日曜の早朝、表参道で雑誌の撮影隊に遭遇したことがあるが、原宿界隈にアパレルメーカーが集中していたとは全く知らなかった。
大学時代のアルバイトがきっかけで入ったアパレルの世界で、初めてメーカーは企画と営業のみを行う卸売業で、後の工程はすべて外注していることを知った。
この頃から青山から原宿、千駄ヶ谷の裏通りには小規模なアパレルが集まり、自分たちでデザインやパターンを起こしては、海外などから買い付けた生地をつけて、埼玉や千葉の工場へ送っていた。
すると、早くて数週間、遅くても2ヵ月くらいで、次々とブランドタグが付いた商品となって送り返されてきた。それがマンションアパレルと言われる小規模メーカーだ。
原宿や青山といった都会はデザイナーを夢見る若者、ファッション業界に野望を抱く人間が集まりやすかった。だから、アパレルの工場もそうした情報発信から営業、小売りまでがスムーズに行く大消費地の近くにあった方が良かったのだ。
DCブランドの雄、ビギは宮崎や長野に自社工場を持っていたが、それは大楠祐二代表の経営上の都合だったと思う。多くのアパレルはコスト重視なんて微塵も考えていなかったから、オフィスからそれほど離れていない工場の方が使いやすかったはずだ。
ところが、DCブームが去り、バブルが崩壊して高額品が売れなくなると、アパレルはできる限り荒利益を取るために製造原価を圧縮した。その結果、素資材の調達から縫製までがコストの安いアジアに切り替わっていった。
それから20数年、マーケットが成熟する中で、価格にさほど関係なくグローバル調達は当たり前になっている。デリバリーも良くなり、工場が遠方の海外にあるデメリットはほとんど無いと言っていい。
だが、今度はアベノミクスにより円安に揺り戻したせいか、国内生産に戻る傾向になっている。それが「メイドインジャパン」としてクローズアップされ、再び国内工場にスポットが当たってきている。
その立地が大消費地に近い都会がいいのか、海外生産でも問題なかったから地方でもいいのか。どちらが有利かの議論は、博多と東京の両方のアパレル事情を知っている筆者とすれば、あまりピンとこない。
大手アパレルだろうと、マンションアパレルだろうと、企画営業・卸という事業構造は昔も今もそれほど大きくは変わらない。
しかも、SPA(製造小売り業)の一般化、加えてAMS(企画生産機能を持ったアパレル生産受注生産)事業者の登場で、汎用性の高い商品ほどお洒落、安い、早いの条件が必須となっている。
いくら「ファスト」が販売のカギと言っても、今日企画した商品を明日には店頭に並べなければならないほどのスピードが必要かと言えば、それは否である。
これらの業者はコスト高の国内工場を良しとはしていないし、何より最終商品を判断する消費者が国内産にそれほど固執しているとは思えない。
そこそこの商品が手頃な価格で手に入ることを前提とすれば、製造原価の圧縮はもとより、素資材、縫製以外の物流コストまで含めて議論されることになるだろう。
これら諸々の理由を加味した中で、あえて国内生産を前提とした場合でも、工場は地方か、都会かと言えば、用地の賃料や人件費が安く、経営がローコストでできる地方の方がいいのかもしれない。
縫製スタッフなどの労働力についても、主婦パートが大人の意識で技術習得を行いながら、作業に当たれる人々は地方でも確保できる。なおさら、雇用創出ということで自治体も政策に掲げているし、経営上でも追い風になるのかもしれない。
言い換えれば、地方の工場が都会のアパレルから仕事をもらうには、要求に応えられるだけの力を備えておかなければならない。当然、物流費などのコストも負うことになるから、それまで吸収できる事業構造でないと仕事を受けられない。
一方で、都会にあるメリットは何だろうか。東京に本拠地を置くアパレルメーカーにとってそれは、コストをかけでも商品を自社開発する場合ではないだろうか。
デザイナーやパタンナーの雇用はもちろん、仕様開発や生産管理も自社で行い、一貫して企画しようとするなら、担当者がインダストリアル・スペックを詰めるために工場まで出かけることが不可欠だ。そうしなければ思うような商品は生まれない。
とすれば、東京から離れた地方より、近場にある工場の方が行きやすい。筆者が企画担当者なら工場に泊まり込んでもそうするだろうから、なおさら都会にあった方がいい。
話は少しズレるが、東京台東区の浅草や御徒町界隈には、かつては下請けのもの作りの地として、工場が集中していた。
プレスプロモーションを仕事をしているときは、何度か御徒町にあったメーカーの仕事をしたし、浅草生まれで機械工場の娘だった従兄の嫁さんもからもよく話しを聞いた。
しかし、台東区は都市部にありながら人口は戦前の3分の1に減少した。区としては街の活性化を産地のデザイン力強化や創業者育成を通して行おうと、平成16年から「台東デザイナーズビレッジ」事業をスタートしている。
カネボウでマーケティングに携わっていた(株)ソーシャルデザイン研究所の代表取締役、鈴木淳さんが村長として、廃校の小学校を貸しスペースにファッションや雑貨のクリエーターたちの創業支援に携わっている。
しばらくは単なるローコストの場所借りなどの課題が噴出していたが、4年目くらいからはファッション、皮革、ジュエリーなどの組織や産地との連携が進み始めた。これが成し得たのも、お膝元が工場の街でモノづくりの土壌があったからだ。
事業スタートから今年で10年を経過し、街にはクリエーターたちが拠点を構え、発信し、人を集め、新しいモノづくりの街に変えようとしている。
モノづくり系企業と店舗が一体となるイベント「モノマチ」は、地元の飲食店や活動するクリエーターを合わせて400組が参加するまでの規模にまで成長している。
9月にお会いした時、鈴木村長は「クリエーターや工場の職人さんがモノマチ開催によって、業種を超えたネットワークを生み出し、地元に貢献したい人や企業の発掘、地域内でのビジネスチャンスや企業連携が増えました」と仰っていた。
つまり、大消費地の東京の中に「もの作りの拠点」=工場があれば、クリエーターたちは営業活動で気づかされるマーケットニーズをすばやく創作から生産までにフィードバックできる。それだけレスポンスの良い商品供給にもつながるというわけだ。
やはり、「創る人間」と「作る職人」が一体であるからこそ、素晴らしいクリエーションが生まれるのである。これは地方に住む筆者は如実に感じている。
デザビレ事業は緒に就いたばかりだが、工場が都会にあれば都会にアトリエをもつクリエーターにとっても安心して仕事ができるだろう。
工場は地方と都会のどちらが有利かは、アパレルやクリエーターがそれに求める条件よって違ってくると思う。
筆者が仕事をした90年代半ばのニューヨークでも、ハドソン川を渡った対岸のニュージャージーのシコーカスには、高級ブランドを製造するファクトリー群があった。
マンハッタンから車で15分もかからない距離だ。まさに都会の隣に工場があるという感覚だった。しかもそこには製造上で発生するB級品を販売するアウトレットまで付随していたのである。
それぞれの工場が地方、都会にあることで自社のメリットを明確に伝え、立ち位置をハッキリさせることが重要になると思う。