10月25日付けの東京経済オンラインに、以下の記事が掲載された。「モノが売れない!『吉祥寺』に起きている異変」である。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181025-00244816-toyo-soci&p=4
地域の問題は当コラムの趣旨からは外れるが、吉祥寺はよく行った街で、個人的には思い出も多い。だから、ぜひ触れてみようと思う。
吉祥寺という地名を知ったのは高校生の時。クラスメートの中で国際基督教大学や成蹊大学の話をする奴が「ジョウジ」と略すのを聞いてからだ。博多生まれの自分からすれば、艶(格好)つけているのだろうと思った。だが、その後に読んだ森村誠一の「人間の証明」に「ジョウジ(吉祥寺)の喫茶店(サテン)よ…」という一文を見つける。小山田文枝を交通事故で死亡させる郡恭平の恋人、朝枝路子が語るフレーズだ。この時、東京の若者の間では以前から知られた街なんだと、理解できた。
それでも、郊外というイメージが強かった。京王井の頭線で渋谷から30分はかかる。日帰りの旅行気分を味わいに行くようなものだ。最初に出かけたのは、スカラ座前にあった喫茶「ファンキー」。ジャズ好きの友人に誘われ、お気に入りになった。パルコの開業ですぐ近くに移転し、お洒落なレストランバーに様変わり。こちらにも、友人と連れ立ってわざわざ飲みに行った。
親父の大学の同級生が隣の三鷹市下連雀に住んでいた。リタイア前の職業はUIP勤務で、映画配給の話を聞きに伺ったことがある。吉祥寺にあったスカラ座について訊ねると、「いい映画館だったのに」と、寂しそうだった。そんな話を懇意にするカメラマンにすると、「俺も昨日は吉祥寺に行ってた」と。それ以降、個展に誘われるようになった。吉祥寺には小さなギャラリーもあり、ふらっと覗くと必ず何かの催しが開かれていた。
アパレル時代の知り合いと駅のロンロン口で待ち合わせ、「謎のお店がオープンしたよ」と連れて行かれたのが、カルディコーヒーファームだ。今のような見やすく統一されたVMDではなく、半地下、中2階まで伸びるアルミフレームの棚に大量の輸入食材が雑然と並んでいた。店頭でのコーヒーサービスは今と同じだが、フォションの紅茶が格安だった。この時は、そんな店が行きつけになるとは思いもしなかった。
名前は忘れてしまったが、商店街に落ち着ける喫茶店があった。そこのマスターが「蔵」という居酒屋を紹介してくれた。公園通りの東急百貨店先の路地を入り、一つ目の角を曲がった先にあった。コンクリート打ちっぱなしで、掘ごたつ式のカウンター。飲んでいる時に地震が発生したのは、今も鮮明に憶えている。その後、同じような居酒屋が福岡の大名にも出現した。蔵は今も営業しているので、草分けだったと言える。
ニューヨークで日本の大学で講師をする人と知り合った。都市文化研究のための旅行中で、博多や吉祥寺の話題でも盛り上がった。武蔵野市の境南町に自宅があり、「日本に戻ったら、遊びにおいで。そこでまた話そう」と言ってくれた。お言葉に甘えて帰国後に自宅まで伺うと、奥さんが地元で穫れた食材で手料理を振る舞ってくれた。この時、武蔵野界隈には専業農家が多いことを知った。
ざっと思い出しただけでも、いろいろある。というか、ウマが合う人たちとは不思議と吉祥寺でつながった。これも一種の地縁なのだろう。そんな街と疎遠になった2000年代。駅と街を大改造する再開発計画があると、日経MJの記事で知った。
吉祥寺は門前町かと思っていたが、そうではない。江戸の大火で本郷にあった吉祥寺というお寺の門前町が消失。幕府はそこを大名屋敷として再建するため、住民に対して代替地として武蔵野の御用地を貸与する条件で入植者を募集した。ちょうど玉川上水が整備され始め、移住した住民が五日市街道沿いの地を開墾して作った街と、講師の先生が言ってた。地名は本郷の門前町と同じ名前を使ったとのことだ。
明治以降は鉄道が発達し、1899年には駅が開業。関東大震災で被災した人が移り住んで人口が増え、商店街も生まれた。再開発の計画は、戦後まもない時期からあったようだが、駅周辺の大地主が寺社ということ、また地元商業者の反対により、ことごとく撤回や変更を余儀なくされたという。これも講師の先生が教えてくれた。
それが街独特の雰囲気を生み、周囲の高級住宅地や井の頭公園などのロケーションも手伝って、不動産事業者による大規模開発や乱開発を防いだのだろう。だから、服や雑貨の小洒落た店やギャラリーが出店しやすく、庶民的な一杯飲み屋などと共存できる空間が作られたのだ。住んでみたい街のいちばんにあがる理由は、そこにある。
再開発は街を紋切り型に
ただ、住民が増え来街者も大勢になると、街は膨張して歪みも生じる。駅周辺の狭い道路には自転車や自動車が溢れ、住民の通行の妨げになっていた。郊外に伸びるバス路線は駅へのスムーズなアプローチができず、利用者には不便だった。ロンロンもエコービルも古くなり、新しいテナント誘致が進まなかった。駅を取り巻く環境がいろんな課題に直面し、官民による再開発は止むなしとなったのだ。
吉祥寺を抱える武蔵野市は、街づくり全体のグランドデザインを立て、JR東日本や京王も駅ビルの大幅なリニューアルに着手した。再開発事業は2009年くらいから始まり、まずは駅自由通路の拡幅、アトレ吉祥寺の整備、京王の駅ビル建設が進み、自治体によって南口の整備、パークロードの歩行者優先、七井橋通りの拡幅と電線の地中化などが行われた。
その結果、駅を中心にして回遊性が高まり、バスと歩行者が交錯することもなくなった。井の頭公園に続く道路も電柱がなくなり、景観も格段に良くなった。これまでの効果はざっとこんなところだろうか。ただ、東洋経済の記事には街が整備されたことで、ユニクロやヤマダ電機、ドンキホーテといった大型店が次々と進出したとある。
また、行き場を失った余剰マネーが流れた不動産ファンドが大手資本を牽引しているとも。それらが不動産のオーナーに高額な賃料を約束するのだから、周辺を含めて嫌が上でも家賃は上がる。そのため、サンロード商店街に店を構えていた老舗スーパー「三浦屋」が撤退を余儀なくされた。
駅の北口にある「ハモニカ横丁」は道幅が1m程度と狭く、防災上の問題は残ったまま。店舗オーナーが高齢でリタイアを機に、第三者に貸し出すケースが増えているが、それぞれの思惑に温度差があり、話はまとまっていない。不動産オーナーにすれば自ら商売をするより、店を誰かに貸して家賃を取った方が得策だと考える。吉祥寺は全国の商店街で見られる課題をそのまま写し出しているとも言える。
単なる駅周辺の整備計画なら、ふらっと立ち寄れる街の魅力がなくなることはない。しかし、裏で不動産オーナーやデベロッパーが大規模開発を画策しているとすれば、どうだろうか。実際に店舗の賃料は高騰しているので、これから出店してコストを回収するには、高額商品を売るか、薄利多売でいくしかない。となると、業種は限られてしまう。パルコや東急百貨店も、今の消費環境には合わなくなっている。ただ、都心のようなありふれた商業開発になれば、吉祥寺という街の魅力自体が損なわれていくのも確かだ。
吉祥寺は筆者が生まれ育った博多に似ている。仏閣が多く、庶民的で気取らずコンパクトにまとまっている。だが、周辺の人口増で車社会に移行し、駐車場を持たない中心商店街は地盤沈下する。博多もそうで、商店街は衰退していった。地主でもある商店主たちは組合を作って再開発に同意したものの、事業計画はコンサルタントに一任したため、高級ブランドや百貨店をリーシングする開発計画に堕してしまった。結果として、でき上がったハコ物は開業から苦戦が続き、街の活性化に貢献したとは言い難い。
それは吉祥寺でも起こりうるかもしれない。商店街がシャッター通りと化すことはないにしても、賃料が高騰すれば個店の商店主が店舗を運営していくのは困難になる。若手経営者の新規出店も進まないだろう。ファンキーや蔵で飲んだのは20年数年前。今までずっと続いているわけだから、また訪れてみたい。再開発はそんなささやかな夢さえ奪ってしまうのか。
吉祥寺の路線価は2011~12年には50.8万円と横ばいだったが、17年度は62.8万円と、前年度の59.5万円に比べ5.5%も上昇している。それが土地のオーナーに賃料値上げの格好の口実を与えている。だからこそ、商店主たちが「このまま家賃が上がり続けると、ここにしかない質のいい商品を扱えず、こだわりを持った商売ができなくなり、それを求める人が街に来なくなる」と、立ち上がらなければならないと思う。
吉祥寺を歴史を振り返れば、皮肉にも再開発事業を諦めてきたことで、中心部に多くの個店が残り、街の魅力や賑わいを維持できた。そして、それらと地域の住民、来街者との共生が相乗効果となり、商業地としての牽引力を高め、中小の商店も生き残ることができたのだ。街にいる人と街を訪れる人がつながり、街の魅力から生じるコミュニティに厚みが増していった。それがまた訪れる理由になっていくのだ。
だからこそ、そうした歴史的背景をもとに、商店主たちが街の魅力を守るために団結しないといけない。自治体は「区画整理などは防災、安全、安心な街づくりの側面から不可欠だ」と理詰めで説いていくだろう。ならば、商店主たちが自主防災組織を立ち上げて、現状のままでも街を守っていける方法を考えればいい。
地震のような災害はどこでも起きる。だから、大規模再開発が必要だとの論理ではなく、現状の街並でもいかに一人でも多くの人々が助かるか。防災から避難、復興までの青写真も作っていかなければならない。そのためには地域の人々の合意形成が不可欠だし、自主防災のベースをつくるには大学など専門家の知見も必要になる。自治体任せではなく、自分たちで踏み込まなければ、大事な街は守れなくなってしまう。
それ以上に、これから街をどうしていくかという市政の根幹を打ち出せる政治的なリーダーの登場が待たれる。都心部や立川などとの比較ではなく、独自の我が街観を持てる人間。当然、独自の財源確保は言うまでもない。商店主の中からそうしたリーダーが出現しても良いのではないかと考える。住みたい吉祥寺よ、永遠なれ、だ。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181025-00244816-toyo-soci&p=4
地域の問題は当コラムの趣旨からは外れるが、吉祥寺はよく行った街で、個人的には思い出も多い。だから、ぜひ触れてみようと思う。
吉祥寺という地名を知ったのは高校生の時。クラスメートの中で国際基督教大学や成蹊大学の話をする奴が「ジョウジ」と略すのを聞いてからだ。博多生まれの自分からすれば、艶(格好)つけているのだろうと思った。だが、その後に読んだ森村誠一の「人間の証明」に「ジョウジ(吉祥寺)の喫茶店(サテン)よ…」という一文を見つける。小山田文枝を交通事故で死亡させる郡恭平の恋人、朝枝路子が語るフレーズだ。この時、東京の若者の間では以前から知られた街なんだと、理解できた。
それでも、郊外というイメージが強かった。京王井の頭線で渋谷から30分はかかる。日帰りの旅行気分を味わいに行くようなものだ。最初に出かけたのは、スカラ座前にあった喫茶「ファンキー」。ジャズ好きの友人に誘われ、お気に入りになった。パルコの開業ですぐ近くに移転し、お洒落なレストランバーに様変わり。こちらにも、友人と連れ立ってわざわざ飲みに行った。
親父の大学の同級生が隣の三鷹市下連雀に住んでいた。リタイア前の職業はUIP勤務で、映画配給の話を聞きに伺ったことがある。吉祥寺にあったスカラ座について訊ねると、「いい映画館だったのに」と、寂しそうだった。そんな話を懇意にするカメラマンにすると、「俺も昨日は吉祥寺に行ってた」と。それ以降、個展に誘われるようになった。吉祥寺には小さなギャラリーもあり、ふらっと覗くと必ず何かの催しが開かれていた。
アパレル時代の知り合いと駅のロンロン口で待ち合わせ、「謎のお店がオープンしたよ」と連れて行かれたのが、カルディコーヒーファームだ。今のような見やすく統一されたVMDではなく、半地下、中2階まで伸びるアルミフレームの棚に大量の輸入食材が雑然と並んでいた。店頭でのコーヒーサービスは今と同じだが、フォションの紅茶が格安だった。この時は、そんな店が行きつけになるとは思いもしなかった。
名前は忘れてしまったが、商店街に落ち着ける喫茶店があった。そこのマスターが「蔵」という居酒屋を紹介してくれた。公園通りの東急百貨店先の路地を入り、一つ目の角を曲がった先にあった。コンクリート打ちっぱなしで、掘ごたつ式のカウンター。飲んでいる時に地震が発生したのは、今も鮮明に憶えている。その後、同じような居酒屋が福岡の大名にも出現した。蔵は今も営業しているので、草分けだったと言える。
ニューヨークで日本の大学で講師をする人と知り合った。都市文化研究のための旅行中で、博多や吉祥寺の話題でも盛り上がった。武蔵野市の境南町に自宅があり、「日本に戻ったら、遊びにおいで。そこでまた話そう」と言ってくれた。お言葉に甘えて帰国後に自宅まで伺うと、奥さんが地元で穫れた食材で手料理を振る舞ってくれた。この時、武蔵野界隈には専業農家が多いことを知った。
ざっと思い出しただけでも、いろいろある。というか、ウマが合う人たちとは不思議と吉祥寺でつながった。これも一種の地縁なのだろう。そんな街と疎遠になった2000年代。駅と街を大改造する再開発計画があると、日経MJの記事で知った。
吉祥寺は門前町かと思っていたが、そうではない。江戸の大火で本郷にあった吉祥寺というお寺の門前町が消失。幕府はそこを大名屋敷として再建するため、住民に対して代替地として武蔵野の御用地を貸与する条件で入植者を募集した。ちょうど玉川上水が整備され始め、移住した住民が五日市街道沿いの地を開墾して作った街と、講師の先生が言ってた。地名は本郷の門前町と同じ名前を使ったとのことだ。
明治以降は鉄道が発達し、1899年には駅が開業。関東大震災で被災した人が移り住んで人口が増え、商店街も生まれた。再開発の計画は、戦後まもない時期からあったようだが、駅周辺の大地主が寺社ということ、また地元商業者の反対により、ことごとく撤回や変更を余儀なくされたという。これも講師の先生が教えてくれた。
それが街独特の雰囲気を生み、周囲の高級住宅地や井の頭公園などのロケーションも手伝って、不動産事業者による大規模開発や乱開発を防いだのだろう。だから、服や雑貨の小洒落た店やギャラリーが出店しやすく、庶民的な一杯飲み屋などと共存できる空間が作られたのだ。住んでみたい街のいちばんにあがる理由は、そこにある。
再開発は街を紋切り型に
ただ、住民が増え来街者も大勢になると、街は膨張して歪みも生じる。駅周辺の狭い道路には自転車や自動車が溢れ、住民の通行の妨げになっていた。郊外に伸びるバス路線は駅へのスムーズなアプローチができず、利用者には不便だった。ロンロンもエコービルも古くなり、新しいテナント誘致が進まなかった。駅を取り巻く環境がいろんな課題に直面し、官民による再開発は止むなしとなったのだ。
吉祥寺を抱える武蔵野市は、街づくり全体のグランドデザインを立て、JR東日本や京王も駅ビルの大幅なリニューアルに着手した。再開発事業は2009年くらいから始まり、まずは駅自由通路の拡幅、アトレ吉祥寺の整備、京王の駅ビル建設が進み、自治体によって南口の整備、パークロードの歩行者優先、七井橋通りの拡幅と電線の地中化などが行われた。
その結果、駅を中心にして回遊性が高まり、バスと歩行者が交錯することもなくなった。井の頭公園に続く道路も電柱がなくなり、景観も格段に良くなった。これまでの効果はざっとこんなところだろうか。ただ、東洋経済の記事には街が整備されたことで、ユニクロやヤマダ電機、ドンキホーテといった大型店が次々と進出したとある。
また、行き場を失った余剰マネーが流れた不動産ファンドが大手資本を牽引しているとも。それらが不動産のオーナーに高額な賃料を約束するのだから、周辺を含めて嫌が上でも家賃は上がる。そのため、サンロード商店街に店を構えていた老舗スーパー「三浦屋」が撤退を余儀なくされた。
駅の北口にある「ハモニカ横丁」は道幅が1m程度と狭く、防災上の問題は残ったまま。店舗オーナーが高齢でリタイアを機に、第三者に貸し出すケースが増えているが、それぞれの思惑に温度差があり、話はまとまっていない。不動産オーナーにすれば自ら商売をするより、店を誰かに貸して家賃を取った方が得策だと考える。吉祥寺は全国の商店街で見られる課題をそのまま写し出しているとも言える。
単なる駅周辺の整備計画なら、ふらっと立ち寄れる街の魅力がなくなることはない。しかし、裏で不動産オーナーやデベロッパーが大規模開発を画策しているとすれば、どうだろうか。実際に店舗の賃料は高騰しているので、これから出店してコストを回収するには、高額商品を売るか、薄利多売でいくしかない。となると、業種は限られてしまう。パルコや東急百貨店も、今の消費環境には合わなくなっている。ただ、都心のようなありふれた商業開発になれば、吉祥寺という街の魅力自体が損なわれていくのも確かだ。
吉祥寺は筆者が生まれ育った博多に似ている。仏閣が多く、庶民的で気取らずコンパクトにまとまっている。だが、周辺の人口増で車社会に移行し、駐車場を持たない中心商店街は地盤沈下する。博多もそうで、商店街は衰退していった。地主でもある商店主たちは組合を作って再開発に同意したものの、事業計画はコンサルタントに一任したため、高級ブランドや百貨店をリーシングする開発計画に堕してしまった。結果として、でき上がったハコ物は開業から苦戦が続き、街の活性化に貢献したとは言い難い。
それは吉祥寺でも起こりうるかもしれない。商店街がシャッター通りと化すことはないにしても、賃料が高騰すれば個店の商店主が店舗を運営していくのは困難になる。若手経営者の新規出店も進まないだろう。ファンキーや蔵で飲んだのは20年数年前。今までずっと続いているわけだから、また訪れてみたい。再開発はそんなささやかな夢さえ奪ってしまうのか。
吉祥寺の路線価は2011~12年には50.8万円と横ばいだったが、17年度は62.8万円と、前年度の59.5万円に比べ5.5%も上昇している。それが土地のオーナーに賃料値上げの格好の口実を与えている。だからこそ、商店主たちが「このまま家賃が上がり続けると、ここにしかない質のいい商品を扱えず、こだわりを持った商売ができなくなり、それを求める人が街に来なくなる」と、立ち上がらなければならないと思う。
吉祥寺を歴史を振り返れば、皮肉にも再開発事業を諦めてきたことで、中心部に多くの個店が残り、街の魅力や賑わいを維持できた。そして、それらと地域の住民、来街者との共生が相乗効果となり、商業地としての牽引力を高め、中小の商店も生き残ることができたのだ。街にいる人と街を訪れる人がつながり、街の魅力から生じるコミュニティに厚みが増していった。それがまた訪れる理由になっていくのだ。
だからこそ、そうした歴史的背景をもとに、商店主たちが街の魅力を守るために団結しないといけない。自治体は「区画整理などは防災、安全、安心な街づくりの側面から不可欠だ」と理詰めで説いていくだろう。ならば、商店主たちが自主防災組織を立ち上げて、現状のままでも街を守っていける方法を考えればいい。
地震のような災害はどこでも起きる。だから、大規模再開発が必要だとの論理ではなく、現状の街並でもいかに一人でも多くの人々が助かるか。防災から避難、復興までの青写真も作っていかなければならない。そのためには地域の人々の合意形成が不可欠だし、自主防災のベースをつくるには大学など専門家の知見も必要になる。自治体任せではなく、自分たちで踏み込まなければ、大事な街は守れなくなってしまう。
それ以上に、これから街をどうしていくかという市政の根幹を打ち出せる政治的なリーダーの登場が待たれる。都心部や立川などとの比較ではなく、独自の我が街観を持てる人間。当然、独自の財源確保は言うまでもない。商店主の中からそうしたリーダーが出現しても良いのではないかと考える。住みたい吉祥寺よ、永遠なれ、だ。